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第56話

どうせ、彼女の体内にある毒は解毒できず、長くは生きられないのだ。

さっき、血が溢れ出した瞬間、彼女自身ももう助からないことを悟っていた。


佳穂は、真希からどんどん溢れ出す血を見て、恐怖で体が震えた。

事前に話し合っていたから、今日の結婚式で何が起こるかも、流産がその一部であることも分かっていた。

なのに、どうしてこれほどまでに血が止まらないのか。

手も冷たくなり、真希を失ってしまう恐怖が襲う。

普段は神も仏も信じていない佳穂だが、この瞬間だけは、どうか天の神様仏様、どうか真希を連れていかないでと、心の中で必死に祈っていた。


真希はもう、ほとんど力が残っていない。一言発するたびに、長く息を整えなければならない。

「聞いて、両親と兄にごめんなさいって伝えて……拓海には、もう二度と会うことはないと……」


最後に、かすかな笑みを浮かべた。


「佳穂、あなたのことが、一番心配……」

「やめて、そんなこと言わないで! 私たち、まだこれから何年も一緒にいるんだよ? お互いの結婚式に参加するんだから! 私、まだ結婚してないんだよ、だから行かないで!」


「約束、守れそうにない……」


真希の声は、次第に弱くなっていく。


最後に空を見上げた。青い空、白い雲。

まるで、拓海と初めて出会ったあの日に戻ったようだった。

彼は煙の向こうで、冷ややかな表情を浮かべていた。

でも、今回はもう彼に手を差し伸べなかった――


「真希、真希!」

その叫び声がだんだん遠のいていく中、真希は微笑みながら、静かに目を閉じた。


拓海が結婚式場に駆けつけたとき、そこはすでに混乱と後片付けの真っ最中だった。

ウェディングプランナーたちが撤収作業をしている。


彼は作業員の一人を掴まえて尋ねた。

「ここにいた人たちは?」


作業員は臨時雇いで、拓海のことを知らない。

「新婦さんのこと? 本当に気の毒だったよ。夫に裏切られて、流産させられて、ついには亡くなっちゃって……可哀想にな」


そんなはず、ない――!


今日は自分と真希の結婚式だ。真希が死ぬなんて、嘘だ、ありえない、絶対に嘘だ!

震える指で真希の電話番号を押す。

すぐに通話が繋がった。


ほっとして、「真希」と優しく呼ぼうとした瞬間、嗚咽混じりの恨みがこもった声がぶつかってきた。


「拓海、真希が死んだのよ。満足?」


拓海は愕然とした。


「そんなわけない、みんな俺を騙してるんだろう?」


声で佳穂だと分かった。きっと真希のために自分を騙しているのだと、無理やり思い込むしかなかった。

胸の奥が鋭く痛み、世界がぐるぐると回っているようだった。


「全部、嘘だ……」

「今、病院にいる。自分の目で確かめなさい!」


携帯が芝生に落ち、拓海の足はもう病院へと向かって走り出していた。


真っ白なウェディングドレスは血に染まり、真希は静かにベッドに横たわっていた。

誰も、彼女がこんなにも残酷で、そして決然とした別れを選ぶとは思っていなかった。


拓海は、今までこんなにも静かな真希を見たことがなかった。

笑顔も泣き顔もなく、ただ静かに目を閉じて、全てを置いてこの世を去ってしまった。

彼女のベッドのそばに膝をつき、拓海は無意識に彼女の手を握りしめ、涙が床に音を立てて落ちた。


佳穂は病室の隅で、一枚の検査結果を拓海の顔に投げつけた。


「もういい加減にしなよ。真希を殺したのはあんたなんだよ。あんたが、真希と、子どもまで殺したんだ!」


目の前に落ちた検査結果の紙には、はっきりとした文字が並んでいた。

「検体1(拓海)は、検体2(胎児)の生物学的父親である」


震える手でその紙を拾い上げる拓海。

「これは……」

「真希は羊水検査を受けてたの。これがその結果。嬉しい? それはあなたの子よ。でも、その子も殺された!」


続けて、薬の瓶が拓海の足元に投げつけられた。


「こっそり真希の薬をすり替えて、彼女のお腹の子どもが薬で蝕まれていくのを黙って見てたんだね。あんまりだ」


真希は最初から、拓海が薬をすり替えていたことに気づいていた。

拓海は、わざとやったのだ。あの薬が胎児に取り返しのつかないダメージを与えることを、彼は知っていた。

――この子どもなんて、早くいなくなればいい。

彼は、そう思っていた。


本当は、真希が素直に薬を飲むたびに、拓海の心は引き裂かれるようだった。

江藤家は裕福で、子ども一人育てられないはずがなかった。ただ、この子が生まれれば、拓海が真希にした過ちを、ずっと思い出させる存在になる。


この子は、彼と真希の間に立ちはだかる障害だった。

もう一度やり直したい、そのためにはこの子がいてはいけなかった。


でも――まさか、本当に自分の子どもだったなんて。

自分の手で、この世に生まれるはずだった我が子を殺し、そして真希まで……。


拓海は狂ったように拳で床を叩いた。

知らなかった、知らなかったんだ。自分の子だと分かっていたなら、絶対にこんなことはしなかった。


小雪が駆けつけてきた時、目にしたのは、真希の亡骸を離そうとしない拓海の姿だった。絶望と恐怖に取り憑かれ、まるで魂を抜かれたように、彼女の手を握りしめていた。


一瞬、真希の死を知った時の安堵は、跡形もなく消え去った。

これで、もう完全に拓海を失ったのだと、小雪は悟った。


彼女は力なく壁にもたれかかり、向かい側にも同じように壁に寄りかかる男の姿を見つけた。

その男は、誰もが振り向くような整った顔立ちをしていたが、今はその面差しに生気はなく、背中を丸め、虚ろな目で赤い紐をいじっている。

市崎郁――四大財閥の一つ、市崎家の跡取りであり、拓海の宿敵でもある。


彼の手首には、色あせた赤い紐が巻かれている。


「市崎、あんたなんか大嫌い!」

幼い真希が、ぼさぼさの髪で、乱れたドレス姿のまま彼に叫んでいた。

「郁、この疫病神! いつか絶対、仕返ししてやる!」

十四歳の真希は、泥だらけの制服姿で泥を投げつけ、彼に向かって誓っていた。


「郁、もう私に構わないで! 好きな人がいるの!」

十九歳の真希は、きっぱりとした表情で彼を遠ざけた。


郁はそれを全て受け入れてきた。なのに、真希……あんた、どうしてこんなにもバカなの? 男のために、そこまでしなくてもよかったのに――


真希の葬儀は、翌日慌ただしく執り行われた。

拓海は黒いスーツに白い花を胸に挿し、魂が抜けたように墓石の前に立っていた。

弔問に訪れた人々も多く、この名家のお嬢様がこんな結末を迎えたことに、誰もが言葉をなくしていた。


拓海の心も、深い悲しみに沈んでいた。

もう、息をするのも苦しいほどだった。

これから先の世界に、もう真希はいない。

もう、真希の微笑みを目にすることも、彼女が「拓海」「あなた」と呼んでくれる声を聞くこともない。

残った傷跡さえ、いずれ消えていく。

この世から、彼女の痕跡が消えてしまった――


拓海は墓前で崩れ落ち、膝をついたまま泣き崩れた。

墓石の彼女は微笑み、墓前の彼は涙を流す。


ふいに、彼は彼女を恨めしく思った。

なぜ、自分の子どもだと分かっていながら教えてくれなかったのか。

なぜ、自分が小雪を好きだと知っていながら、止めなかったのか。

――本当は自分に復讐するつもりだったはずなのに、どうしてこんな残酷なやり方で、自分に悔い改める機会すら残してくれなかったのか。

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