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第57話

「社長。」

秘書は、今はできれば拓海の邪魔をしたくなかった。


さきほど、拓海の父・江藤達也から電話があった。

江藤家の前当主は、すべてをすでに把握しており、その声は淡々としていた。


「彼は今何をしている?」

秘書は本当のことを言えず、「業務を処理中です」とだけ答えた。


江藤達也はすでに引退しているが、その威厳は今も変わらない。

秘書は喉を鳴らして緊張を隠せなかった。


しばらくの沈黙ののち、江藤達也は意味深く言った。

「江藤家にも、こんなに情に流される者がいたとはな。」

「伝えてくれ。この件をきちんと収められないなら、社長の座を降りる覚悟をしろ。」


秘書が何か答える前に、電話は一方的に切られた。


ほっと息をつくと同時に、秘書は疑問を抱いた。


昨日、問題に気づいたとき、すぐに社内へ口止めを命じ、全メディアを監視、万が一不利な情報が出れば即刻遮断するよう徹底した。

それなのに、なぜ海外で休暇中の江藤達也の耳にまで、この情報が届いたのか――


問い合わせてみると、どうやら裏で何者かが江藤家に対抗して動いているらしい。

そのせいで、情報が瞬く間に拡散してしまった。


江藤家の株価は、今朝の取引開始と同時にストップ安。損失は数百億円に上る。

今こそ、拓海の帰還が切実に求められていた。


秘書は、拓海が我に返るのを静かに待った。


少し離れたところから、黒いスーツに身を包み、書類かばんを持った弁護士がゆっくりと近づいてきた。


「私は江藤真希さんの代理人弁護士です。真希さんの依頼で、遺言の読み上げに参りました。」


自分に残された時間がわずかだと悟った日に、真希は二つのことをした。

墓地を買い、弁護士を雇ったのだ。

遺書を残し、そして佳穂の電話番号を弁護士に託していた。

もし結婚式の後、真希から連絡がなければ、この番号の持ち主に連絡するようにと。


弁護士はその指示どおり、佳穂に連絡し、真希が亡くなったことを知ると、すぐにここへ遺言の宣読にやってきた。


「江藤真希さんの預金口座にある数百万円は、南佳穂さんに残すとのことです。」

「遺骨はご両親のもとに返してほしい、とのことです。」

「そして、江藤拓海さん。真希さんはあなたに、二つのものを残しました。」


真希が、自分に何か残したものがある――?

拓海の虚ろな瞳が、ようやく焦点を持った。


弁護士が一通の書類を差し出す。

拓海は無感覚のまま開く。それはすでに署名済みの離婚届と、分厚い手紙だった。紙には、滲んだ涙で文字がぼやけている。


彼の目の前に、真希が机に向かい、一字一句書き綴る姿が浮かぶ。その時、彼女はどんなに大粒の涙を流していたのだろう。


――拓海、この手紙を読んでいるときには、もう私はこの世にはいないと思う。


ごめんなさい。死ぬ間際まで、あなたに結婚式を強要してしまって。

ひどい女だよね、私。

女だって、嫉妬もするし、つらくもなる。

あなたは知らないでしょうけど、私は小雪が羨ましくて仕方なかった。


あなたは彼女には何もかも応えて、どこまでも優しくて、彼女のためなら何でもできる人。

あなたが小雪を好きだと知った時、世界が崩れたような気がした。

あなたを恨んだし、憎んだ。そして私は、この国を離れて、二度とあなたに関わらないと決めた。


でも、私はあなたが小雪をどれほど大事に思っているかを甘く見ていた。

彼女が何を言っても、あなたは無条件で信じてしまう。私たちは完全に天秤の両端で、あなたの答えはいつも小雪だった。


私を信じてくれなかった。小雪のためなら、私を敵にしてでも守った。

一度、あなたに聞きたかった。私はそんなに悪い女に見えた?


でも、私のプライドがそれを許さなかった。


実は、あなたに仕返ししたの。私は嘘をついた。本当は誰にも乱暴なんてされていない。お金を三倍払って、金髪の連中に芝居をさせただけ。

あなたが私に少しでも罪悪感を持つようにと。


バカみたいだよね。でもあの時、怒りに任せて、どうしてもあなたを傷つけたかった。たとえ自分もボロボロになるとわかっていても。


私は自分の力を過信していたし、小雪の執念も軽く見ていた。彼女はますます狂気じみていった。

孤独な私は、何度も彼女の罠にはまり、あなたの冷たい態度に苦しめられた。


薬に手を出したあの頃、頭の中は「あなたたち二人を道連れにしてやる」ばかりだった。

でも、あなたが急に優しくなって、私に気を配ってくれて、どうしても出来なかった。


苦しみと葛藤の中、私は自分を壊していった。

そして、妊娠していることと、余命が短いことを知った時、私は最後の復讐を決めた。

あなたに、私との結婚式を挙げさせてやる。

そして、あなたの目の前で、私とあなたの子どもが一番美しい瞬間に散っていくのを見せてやるんだって。


でも、こうして遺書を書いていると、頭の中にあるのは、結婚式のことばかり。

素敵な結婚式になるでしょう。タキシード姿のあなたはきっと王子様みたいだろうな。

あなたが私のところへ歩いてきて、指輪をはめてくれる、その瞬間を想像したら、なぜかすべてがどうでもよくなった。


もう、これでいいや。結局、愛は人を苦しめいる。


拓海、あなたを愛するのは辛すぎ。

生まれ変わっても、もうあなたには会いたくない。


拓海、怖いよ。

もう、両親にも兄にも、佳穂にも、あなたにも…二度と会えないのが、怖いよ――


ここから先は、涙で滲み、文字が読めなくなっていた。

それは真希の涙であり、拓海の涙でもあった。


彼は手を噛みしめ、かつて真希の愛を軽んじていた自分が、今や報われぬ恋に苦しむ哀れな男になっていた。


「違う、真希…愛してる、愛してるんだ…俺は君を愛してる!こんな罰はやめてくれ、戻ってきてくれ!」


何度叫んでも、もう彼女には届かない。


拓海の意識が遠のく。だが、まだ終わりではなかった。


「江藤拓海さん、あちらをご覧ください。」


少し離れた場所に、大きな鉄箱が置かれている。

弁護士はかばんを置き、袖をまくり、その箱の中の物を一つ一つ取り出してみせる。


「こちらは、真希さんからの数珠です。」

「そして、仏像。」

「仏典。」

「腕時計。」

「服……」


数は少ないが、どれも日常に寄り添った品々。特に仏教関係のものが多い。

真希が拓海を追いかけていた頃、たくさんの贈り物をしていたが、大火事ですべて焼けてしまった。

この数点だけが奇跡的に残っていた。真希の記憶が混乱していた時期の贈り物も混じっている。


拓海は一つ一つ見つめ、胸の痛みが増していく。


「それでは。」

弁護士は展示を終えると、箱の底からアルコールのボトルを取り出し、ためらうことなく中身をかけた。そして、火をつける。


「真希さんの遺志です。これらをあなたの目の前で全て焼却するように、と。

彼女を忘れられず、新しい人生を踏み出せなくなってしまうことを恐れていたのです。」


「やめてくれ!」

炎が鉄箱を包む。

拓海は錯乱したように箱へと駆け寄った。


「社長!」

秘書と警備員たちが彼の腕を押さえ、体を抱きしめる。


「離せ!やめろ、お願いだ、こんなことしないでくれ!」


だが、全ては無駄だった。拓海は、すべてが灰に帰るのを、ただ、見ているしかなかった。こみ上げる血を吐き出す。


真希、お前はなんて酷い女なんだ。最後の希望すら残してくれないなんて。

本当に――残酷だよ……


佳穂は、弁護士と揉み合う拓海を見て、離婚届を拾い上げ、彼の前に突き付けた。


「サインして。」

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