拓海は呆然としたまま、膝をついていた。
衣服は乱れ、もがいた跡がはっきりと残っている。
彼は何の反応も示さなかった。
佳穂は強引にペンを彼の手に握らせ、サインを無理やりさせようとする。
「あなたが彼女を死なせたのよ。せめて彼女の魂は解放してあげて!」
拓海は苦笑するしかなかった。
すべてが終わった。彼女が残してくれたものは、何もかも消えてしまった。
「彼女のことを忘れて、もう一度やり直してほしい」なんて、どうやって始めればいい?どうやって忘れられる?
すべてを壊せば、やり直せると彼女は思ったのか?
だったら、この記憶はどうやって消せばいい?この愛は、どうやって消せばいいんだ!
いまや、彼に残されたものはただひとつ。彼女は自分の妻だ。
「サインはしない。彼女は俺の妻だ。離婚なんてしない!」
「妻、ね」と佳穂は嘲るように言う。
「その文字で、真希の人生を縛りつけ、明るく誇り高いお嬢様だった真希を、ただの灰にしてしまった。妻……」
その言葉自体が、まるで真希の死を招いた呪いのようだった。
「拓海、彼女があなたを愛したことに免じて、もう解放してあげて。彼女はあなたに忘れてほしい、人生をやり直してほしいって願っていたの。もうこれ以上、彼女を縛らないで。せめて、死んだ後くらいは安らかに眠らせてあげて……」
佳穂の涙ぐんだ視線を受け止めながら、拓海は真希と過ごした日々を思い返していた。
彼女に対する冷淡、無関心。
傷つけたことの数々――
ほとんど何も贈ったことはなかった。唯一贈った真珠のネックレスも、火事ですべて失われた。
自分が彼女に与えたのは、傷だけだった。
あんなにも誇り高くて明るい彼女が、血まみれで横たわり、死と向き合うとき、どれほど絶望していただろう。
それでも、彼女は最後まで一言も恨みや不満を口にしなかった。
彼女は、最初から最後まで、彼を愛していた。
真希、真希、どうしてそんなに愚かで、バカなんだ。どうして恨んでくれない?怒ってくれない?なぜ彼を罵倒し、殴り、刺し殺してくれなかったんだ!
それなのに、どうして愛し続ける?彼にはその資格なんてないのに――
拓海は自分を殺したいほどの衝動に駆られた。
「……分かった」
全身の力を振り絞って、そう口にした。
ペンが紙に落ち、その名前を書き終えた瞬間、拓海は魂が抜けたようになった。
彼は墓前でそのまま気を失った。
部下に抱えられ、急いで病院に運ばれた。
A国、医学研究所。
「真希、気分はどう?」
真希は死んでいなかった。
あの墓は空だった。結婚式場で血を流し、危険な状態だった真希は、周防駆に何かを飲まされ、仮死状態になった。
葬儀の直前、彼女は連れ出され、夜のうちにプライベートジェットで海外の研究所へと運ばれた。
A国は薬物の研究が盛んな国で、新種の薬物研究も進んでいる。だが、それでもこの手術は真希の体内の毒を一時的に抑えるだけで、根本的な治療にはならない。
手術の成功率は一割にも満たなかった。
真希は運良く助かった。
手術の原理はよく分からないが、しばらくは生きられることは分かった。
佳穂は葬儀が終わると、すぐにA国へ飛び、彼女に付き添った。
水に浸した綿棒で、真希の唇をそっと湿らせてあげる。
「もう全部終わった。離婚届も成立したし、拓海とも完全に縁が切れた。今は治療に専念して、元気になることだけを考えて」
真希はチューブだらけで、話すこともできないが、どうしても知りたいことがあった。
彼女がじっと見つめているのに気づき、佳穂は何を聞きたいのか察した。
「安心して、あの人たちが幸せになるなんて、絶対にないから」
拓海は病院で三日間昏睡した。
目覚めた彼は、以前にも増して無口になり、どこか陰をまとっていた。手には、真希が残した遺書を握りしめていた。
昏睡する前も、ずっとその遺書を離さなかった。部下たちどんなに頑張っても、手から取り上げることはできなかった。
三日間、強く握りしめられた遺書は、折れ目だらけになっていた。
拓海はそのシワをそっとなぞり、絞り出すような声で命じた。
「小雪を調べろ」
秘書は一瞬身を震わせた。
――社長は、ようやく小雪の異変に気付いた。でも、それ妻の死と引き換えだった。
「かしこまりました」
その日、江藤家の裏の勢力が一斉に動き出した。
拓海は「いつから調べろ」とは言わなかったが、秘書は小雪が江藤家に現れたときから調査を始めることにした。
時間がかかると覚悟していたが、意外にも、たった一日で小雪の資料が手元に届いた。
まるで、誰かがわざと手がかりを渡してきたかのように。
親指ほどの厚さの資料をめくるうち、秘書の顔色がみるみる変わっていく。
小雪と初めて会った時から、秘書はこの社長の義妹に違和感を覚えていた。
彼女が少し大きくなると、社長はどんなパーティーにも彼女を同伴した。常に彼女が隣にいた。
だが、小雪が現れる場所では、なぜか必ずトラブルが起こる。
最初は、なぜ小雪がいじめや嫌がらせの標的になるのか、ただ不思議だった。
社長が小雪を大切に思っているのは明らかだったし、江藤家の立場を考えれば、誰も彼女を何度もいじめるはずがない。
その疑問は、ある出来事で答えが見つかった。
小雪が池に突き落とされたとき、社長は激怒した。
そのとき小雪は、社長の背後に隠れながら、まるで悪事が成功した人形のように、ほくそ笑んでいた。
秘書は小雪に幻想を持っていなかったので、彼女が表向きの弱さとは違うことを見抜いていた。
実際に注意深く見ていると、彼女の奇妙な行動がいくつも見つかった。
例えば、社長が自分のために怒ってくれたとき、彼女はどこか蔑むような表情を見せたり、
謝罪や許しを請われると、表面上は寛容そうに振る舞いながら、口元に浮かぶ笑みをどうしても抑えきれなかったりした。
一度、社長に「小雪さんを信用しすぎないほうがいい」とそれとなく伝えたこともあったが、全く聞き入れてもらえなかった。
逆にそのことが小雪に知られ、社長から長い間冷遇される羽目になった。
そして今、この分厚い証拠の束を手に、秘書は苦笑した。
やはり、自分は小雪を甘く見ていた……
拓海は目覚めたその日に退院し、真希と一緒に暮らしていた家へ戻った。
かつての祝福と賑わいは跡形もなく消え、広々とした邸宅には虚しさだけが残っていた。
木々の葉はすっかり落ち、枯れ枝が風にさらされ、あたりには死の気配が満ちていた。
誰もが真希の死を悼んでいた。
執事も、話す声を自然と落としていた。
「旦那様……」
拓海は無表情のまま、まるで何も聞こえないかのようにワインセラーから酒を箱ごと取り出し、二階の主寝室に運んで、そのまま部屋にこもった。
執事は心配して、ずっとドアの前で見守っていた。
深夜、静まり返った廊下に、時折、抑えきれない嗚咽が漏れ聞こえてくる。
執事はため息をついた。――こんな結果になるのなら、なぜあのとき……
翌日の昼、秘書が調査結果を持ってやってきた。
執事から、拓海が部屋にこもりきりだと知らされる。
秘書はそっとドアをノックした。
「社長。ご命令の件、結果が出ました」