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第62話


真希は研究室のベッドで一週間寝たきりだった。

身体の回復は思ったよりも遅かった。

今の彼女は、かろうじて短い言葉を口にできる程度だ。


その間、佳穂はずっと真希の世話をしていた。拓海の近況も、逐一伝えてくれる。


「聞いたよ、拓海が小雪を捕まえたんだって。あの金髪男も、もういなくなったらしい。葬儀の日、拓海はあなたのお墓の前で泣き崩れて、遺言の朗読が終わったあと、倒れた。何日も病院で眠ったままだったんだって。」


そんな話、真希は何も知らなかった。


これから先、日本に「真希」という人間はいなくなる。自分が生きた証も、徐々に消えていくのかと思うと、少し寂しさが込み上げる。


佳穂はベッドに横たわる真希の硬くなった足を、やさしくマッサージしながら、同じく寂しそうに言った。


「本当はさ、拓海に一生後悔させたくて、葬儀を開いたの。でも、彼が葬儀で泣いているのを見ても、ちっとも嬉しくなかった。」


「できることなら、あなたが元気で、堂々と拓海と別れてほしかった。こんなに辛い別れ方じゃなくて、命まで危険にさらすなんて…」


真希には、拓海が涙を流す姿なんて想像もできない。

記憶の中の彼は、いつも淡々として、あまり表情がなかった。


「もう、彼のことは話さないで。」

彼らの結末は、結婚式の日にすでに決まっていたのだ。


一ヶ月後、生命の危機を脱し、真希はようやく「生き返った」と実感した。

今いるのはA国の首都。すべてが見知らぬ世界だ。


以前、佳穂に預けていた数百万円も返されてしまった。

今の真希にはそのお金が必要で、遠慮せず受け取った。


そのお金で中心部の小さなアパートを借りる。

完全に体を治すには、まだしばらく静養が必要だ。

その間にこれからのことをしっかり考えなければ。

いつまでも何もできないままではいられない。


佳穂は一緒に残ることを決めた。

「どうせ今は一人だし、東京には父がいるから、帰る気になれない。ここであなたと一緒に過ごすよ。」


「この数年、お金もそこそこ貯まったし、そのうち小さな店でも開いて、二人で店主になって…金髪碧眼のイケメンを雇って、自由気ままに暮らすのも悪くないでしょ?」


その夜、姉妹のような二人はベッドで頭を寄せ合いながら、佳穂が真希の表情をそっとうかがう。


真希はうなずいた。


「いいね。」


佳穂はしばらく黙った後、尋ねる。


「本当に、もう東京に戻らないの?」


真希は頷く。


「本当に、拓海のことは吹っ切れたの?」


真希は佳穂を見返した。


佳穂の心にはまだ不安が残っている。


「あんなに長い間、拓海を追いかけて、全部彼のことばかりだったのに、本当に、すっぱり忘れられるの?」


真希は少し考えてから、しっかりと答えた。


「もう、彼のことは好きじゃない。」


愛していたときは、全てを注いだ。気持ちも、物も、自分が良いと思ったもの全部、そして自分自身も。

けれど、人の心は傷つけば痛み、冷たさや鞭打ち、苦しみを味わえば、愛は恐れや逃避に変わっていく。


こうしてはっきり言える。


「私はもう、彼を愛していない。」


佳穂はようやく安堵し、二人はどんな店を開こうかと楽しげに語り合う。

佳穂は以前、会社で営業をしていたが、特別なスキルはない。

真希も似たようなものだが、少し違うのはピアノが弾けることくらい。


ピアノ演奏専門の店…?二人で顔を見合わせて、すぐに却下。


ここ数日、家で色々と案を練るうちに、真希の体力もどんどん回復していった。

そろそろ外に出て、何かヒントを探そうかと思っていた矢先――


真希に久しぶりの電話がかかってきた。

遠くK国にいる兄からだ。


「真希、今何してる?」


兄の声は相変わらず穏やかで優しい。

真希は胸が締めつけられ、思わず泣きそうになる。


この間の出来事を、家族には何一つ話していなかった。

拓海と一緒にいたくて、意地で東京に残った結果がこれだ。

両親が知ったら、きっと心配するに違いない。

年齢も年齢だし、余計な心配はかけたくない。


それに、体に残る薬物の影響も、まだ一時的に抑えられているだけで、解毒法が見つからなければ、いつ死ぬかわからない。

両親や兄に、長く悲しみを背負わせたくない。

最後の時まで幸せでいてほしい。

もし自分がいなくなっても、それなら安心していられる。


気持ちを押し殺し、真希は明るく答える。


「今、佳穂と一緒に遊んでるよ。」


黒澤北文は大きな窓の前に立ち、グレーのスーツ姿で、銀縁の眼鏡越しに落ち着いた目をしていた。


「最近は元気にしてる?」


「元気だよ、お兄ちゃん。お父さんとお母さんにも会いたいな。」


涙をこらえるように真希は顔を上げる。


「そうか。」兄は微笑む。


「ちょうどよかった。もうすぐ帰国するから、すぐ会えるよ。」


「!」


会いたさよりも、動揺が先に立つ。


もし兄に今の状態がバレたら、東京にいないことも、こんなに傷ついていることも、きっと兄は許さない。

黒澤家の事業はすでに海外が中心。日本国内のパートナーもいるが、江藤家には到底敵わない。

東京は江藤家の本拠地。兄が無理に敵対すれば、負けるに違いない。


何より、自分の体のこともすぐに知られてしまうだろう。


駄目だ、帰らなくちゃ!


佳穂もその会話を聞いていて、同じく顔が青ざめている。


電話を切ると、真希はすぐにスマホで航空券を探した。

一番早くても明日午後2時発で、東京に着くのは翌日になってしまう。

間に合わない。


どうしよう……


そのとき、佳穂がひらめいた。


「私に任せて!」


スマホを取り出し、どこかに電話をかけた。


しばらくして、低い不機嫌そうな声が聞こえた。


「ふざけるな。」


あ……しまった、今、日本は深夜だった。


まあ、仕方ない!


「私たち、どうしてもすぐ帰りたいんだけど――」


「嫌だ。」


ブツッと電話が切れた。


佳穂は呆然。なんて不機嫌な人なんだ。


それでも負けずにもう一度かけると、今度は無言で電話が繋がる。

だが、受話器越しに陰鬱な雰囲気が伝わってきて、喉元を締めつけられるようだった。

周防駆が「悪夢の主」と呼ばれる理由が、いま身に染みて分かった。


「お願い、今すぐにでも帰らなきゃいけないの。協力してくれない?」


電話の向こうで鼻で笑う声がした。

「どうやって礼をする?」


佳穂は少し考えて、「ご飯奢る!」と答えた。


電話はまた切れた。


佳穂は訳が分からず、どういう意味なのか首をひねる。

すると、すぐにかかってきた。


「条件を三つ。」


三つも?

ずるい!


「一つで!」


「五つだ。」


どんどん増えていく……


「三つ、三つならいい。内容は?」


「まだ決めてない。思いついたら言う。」


駆の言葉に、佳穂はもう怒り心頭。


「それで、私たちを日本に戻してくれるの?」

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