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第63話

十分後。


駆から位置情報を受け取った。


「直接に来てくれ。現地で帰国の手配をしてくれる人がいる」


彼は簡潔に伝えてきた。


空は次第に暗くなっていく。

二人は簡単に荷物をまとめ、真希は研究所から支給された薬をポケットにしまい、駆から送られた場所へと向かった。

その場所は今いるところからさほど遠くなく、タクシーなら二十分ほどで着く距離だ。


二人は建物の下でタクシーを止めた。

真希が先に乗り込み、佳穂も続こうとしたそのとき、ふいに足を止めた。


なかなか車に乗り込まない佳穂を見て、真希は身を乗り出して尋ねた。


「どうしたの?」


佳穂は唇をわずかに震わせ、人混みの中を見つめながら答えた。


「…今、青嵐を見かけた気がする……」


青嵐——

記憶の奥深くにしまわれ、時の流れとともに薄れていったその名前。


真希はいまでも覚えている。佳穂が青嵐と別れたあの日のことを。

あの日の東京はまるで空に穴が開いたような豪雨だった。


彼女は佳穂から電話を受け、佳穂は、声を枯らして泣き叫んでいた。

駆けつけると、テーブルの上には空き瓶が散乱し、佳穂は泥酔していた。


十数年の付き合いの中で、佳穂が取り乱した姿を見たのは二度だけだ。

一度目は母親が亡くなった日、父親と一緒に死のうとしたとき。

二度目は、あの日。酒瓶を抱えて、魂の抜けた人形のようだった。


真希が理由を聞いても、佳穂は何も答えず、ただひたすら強い酒を流し込んでいた。まるで自分を壊そうとしているかのように。

やがて、何本目かも分からない酒を飲み干した後、ぽつりと言った。


「青嵐と別れた。」


その時の彼女は、あまりにも静かで、それがかえって真希の胸を締めつけた。


真希は二人の過去を知っている。

母親を亡くした佳穂にとって、青嵐はこの世で一番大切な存在だった。

佳穂のすべての想いは青嵐に向けられ、二十歳のときには、もう自分の全てを彼に捧げる覚悟だった。


だが、佳穂の父は青嵐が普通の家庭出身で、しかも孤児であることを知ると、徹底的に交際を反対した。家に閉じ込め、無理やり二人を引き離そうとした。

佳穂は家から逃げ出そうと二階の窓から飛び降り、足を折りかけたこともあった。


どんなに家族に反対されても、佳穂の青嵐への思いは決して揺るがなかった。

ついには家族と絶縁し、自立して働き始めた。


バイトも、チラシ配りも、店員も——できることは何でもやった。

その間、生活は苦しかったはずだが、佳穂の口元から笑みが消えることはなかった。


白いシャツにジーンズ姿のあの少年は、いつも彼女のそばにいて、彼女だけを見つめていた。

彼女が笑えば一緒に笑い、泣けば寄り添い、どんな無茶でも付き合ってくれた。

二人の恋は、周囲の注目を集めるほど大胆で情熱的だった。


「佳穂と青嵐は、まさにお似合いのクレイジーカップルだ」と、当時は誰もがそう噂したものだ。


だが、その関係はわずか二年で終わりを迎えた。

突然の別れ——


ソファにもたれかかった佳穂の目尻から、一粒の涙が流れ落ちた。

彼女の口からは、何度も同じ言葉がこぼれた。


「どうして?」


なぜ別れなければならなかったのか。

何の説明もなく、「もう好きじゃない」とだけ告げ、彼は冷たく背を向けて他の女性のもとへ行ってしまった。


断崖のように一気に終わった関係の余韻は、佳穂の心を半分壊してしまった。

真希は、佳穂がまた無茶をしないか心配だった。


実際、かつて彼女は父親と自分を焼き殺しかけたこともあったのだ。

だからこそ、今回は絶対に目を離さないと決め、どこへ行くにも付き添った。

日々がぼんやりと過ぎていく中、ある日突然、佳穂は元の生活に戻った。


学校へ通い、友達と笑い合い、青嵐の話題が出ても「もう飽きた」と肩をすくめるだけ。

けれど、煙草も覚え、酒も覚え、深夜にはただ夜空を見上げて黙り込むようになった。


真希は知っている——もう、あの頃の佳穂ではなくなったのだと。


後に聞いた話では、青嵐は退学し、あの女性と一緒にどこかへ消えたらしい。

それ以来、二人の世界から青嵐の名前は静かに消えていった。

無理に思い出すことも、忘れようとすることもなかった。


佳穂は、家の前で三日三晩土下座した末に家に戻り、そこから父や兄との権力争いが始まった。

真希がトラブルに巻き込まれ、佳穂は再び南家から追放された。

東京での生活も終わり、新天地で新しい人生を始めようとしていた。


そんなときに、佳穂は青嵐を見かけた——


真希も車を降りて一緒に探そうとしたが、佳穂に止められた。


「先に行ってて、私はすぐ追いつくから」


そう言って、佳穂は車のドアを閉めると、そのまま人混みの中へと消えていった。


真希は仕方なく、指定された場所へ向かうしかなかった。


駆が指定したのは、街の中心部にある高級なマンション。その最上階にはヘリポートがあり、そこで飛行機が待っているという。

だが、真希はそのマンションの入り口で足止めされてしまう。


仕方なく、駆に電話をかけて事情を説明した。


「そこで待ってて。迎えが行くから」


駆は淡々とそう答えた。


真希は高層ビルを見上げながら、ここに住む人々の生活を想像した。

一部屋で数十億円の価値があるという。

ここに住む人たちは、もはやただの富裕層とは呼べないだろう。


そんな中、思いがけず知り合いに出会った。


「黒澤?黒澤真希じゃない?」 


金髪でシャネル風のスーツを着こなし、ピンクのバーキンを腕にかけた女性が声をかけてきた。

真冬にしては、かなり肌寒そうな格好だ。


真希は一瞬、誰か分からなかった。


「あなた……?」


「やっぱりあなただったのね!」


この高飛車な声には覚えがある。


「小林絵心?」


絵心は腕を組んで微笑んだ。


「ふふ、ちゃんと覚えていてくれたのね」


真希は頭が痛くなった。

まさか異国の地で、因縁の相手にまで会うなんて、どれだけ運が悪いのか。


絵心は真希を上から下まで眺め、嘲笑するように言った。


「どうしたの、黒澤家は没落して破産したの?その格好、まるでホームレスみたいね」


もちろん、そんなことはない。

今日の服はブランド物ではないものの、さすがにホームレス呼ばわりされるほどではない。


真希は知っている、絵心はただ嫌味を言いたいだけだと。

そもそも、この絵心との因縁も、すべては拓海が原因だ。


彼はクールな雰囲気で近寄りがたく、普通の令嬢たちも手を出せずにいたが、真希やこの絵心のように諦めの悪い者もいた。


そのせいで、二人は犬猿の仲になった。

真希が拓海と結婚してから、絵心は海外へ行ったと聞いていたが、まさかA国にいたとは。


宿敵との再会——絵心はそのことを強く意識しているようだった。


「みんな、紹介するわ。これが例の、拓海にしつこく付きまとっていた女よ」


絵心の後ろには数人の女性たちがいる。白人もアジア系も黒人も、誰もが高級な服とバッグを身に付けていた。

そして、真希を見る目は、どれも軽蔑に満ちていた。

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