目次
ブックマーク
応援する
12
コメント
シェア
通報

第65話

「ちょっと電話をかけたいんだけど……」


今回の再会で、真希はどうしても郁の前だと気が引けてしまう。


郁はようやく反応し、短く鼻を鳴らしてからバッグを渡してくれた。


――せめて、私を下ろしてくれたらいいのに。


怪我をしたとはいえ、歩けないほどじゃない。なのに、こうして抱きかかえられていると、落ち着かない。


郁の威圧感に逆らえず、真希は素直にバッグを受け取り、中からスマホを探す。けれど、ふと手が触れたのは自分の下着で――


――まさか。

さっき郁が拾ってくれたの、これも……?


真希の顔は一気に真っ赤になり、恥ずかしさで叫びだしたくなった。

どうして私は、いつも郁の前でこんな恥ずかしい思いばかりするんだろう。


真希が郁と初めて出会った記憶は、六歳のときだった。


その日、黒澤家でパーティーが開かれていたが、小さな真希は退屈で、ひとりこっそり裏庭へ抜け出して遊んでいた。

地面にはたくさんのアリがものを運んでいて、列をなしている様子がおもしろくて、しゃがみこんでじっと眺めていた。


そんなとき、郁が音もなく背後に現れ、突然声をかけてきた。


「ねえ。」


びっくりした真希は飛び上がり、振り返ると、郁が影の中に立っていて、顔の半分だけがライトに照らされて青白く浮かび上がっていた。恐怖で泣き出し、両親と兄を呼んだ。


郁は慰めるどころか、真希の口を押さえ、「泣くな」と脅した。

そのとき真希はまだ六歳。脅しの意味もわからず、ただ、この綺麗なお兄さんがすごく怖いとしか思えなかった。


泣くのを止めることなんてできなかった。


すると郁は調子に乗り、真希のお団子ヘアをつかんで、


「泣くなら、髪もドレスもぐちゃぐちゃにしちゃうぞ」


お気に入りのドレスと髪型を台無しにされたくなくて、真希はますます泣き声を上げる。


その騒ぎで大人たちが駆けつけてきたときには、もう髪もドレスもぼろぼろになっていた。


その出来事は、今でも忘れられない強烈な記憶として残っている。

それ以来、真希は郁に苦手意識を持ち続けてきた。


――


ようやくバッグの底からスマホを見つけ出すと、画面にはひびが入っていた。

何度かタップしてみると、まだ使えそうだが、エレベーターの中は圏外だ。


真希は首をひねって、表示される階数を見やる。


99階。


「チンッ」


エレベーターが最上階に到着した。


ドアが開くと、廊下には屈強な護衛たちがずらりと並んでいる。

彼らは廊下の両側に立ち、まるで壁のように天井まで伸びていた。


郁が真希を肩に担いできても、誰一人として余計な視線を向けなかった。


同時に、他のエレベーターも最上階に到着し、執事が護衛を率いて郁の一行に合流する。彼らは郁を囲みながら進む。


郁は表情ひとつ変えないが、真希はそうはいかない。

こんな大勢の前で、郁に片手で抱えられているなんて、居心地が悪すぎる。


地上三百メートルの夜空は冷たい風が吹き抜け、冬の気配が色濃く漂っていた。


ヘリポートには黒いヘリコプターが待機している。


そろそろ下ろしてくれるだろうと思いきや、郁はそのまま真希を担いだまま機内へ。


「ちょ、ちょっと待って!」


郁は真希を座席に放り出し、執事がすぐにドアを閉めようとする。


「まだ、待ってください! もう一人いるんです!」


佳穂がまだ来ていない。


執事は郁を見る。郁は顎に手をつき、気だるげな様子で何の返事もない。


それで十分だった。


「バタン」


ドアが閉まる。


真希は言葉を失う。


隣ので目を閉じている郁を見やり、結局何も言えずに背を向け、こっそり佳穂に電話をかけた。


何度もかけ直し、やっと繋がる。


「佳穂、今どこ? 実はね――」


向こうからすすり泣く声が聞こえた。


「どうしたの? 泣いてるの?」


佳穂が泣くなんて、本当に久しぶりだった。


「真希……私ね、青嵐を見つけたの……」


真希は体を起こし、表情が険しくなる。


やっぱり、青嵐だったんだ――


佳穂は泣きながら話す。


「知ってる? 彼、結婚してたの。子どももいて、その子を抱っこして、奥さんの手を引いて……すごく幸せそうで、妬ましくて仕方なかった。どうして彼だけ幸せになれるの、どうして……」


やっぱり、佳穂は青嵐のことを忘れられなかった。

青嵐は、彼女の心に消えない傷跡のようなもの。見えないけど、触れられるたびに胸が裂けるほど痛む。


「話しかけたの?」


「……いいえ、あんな人、話す価値もないわ」


佳穂は大きく息をつき、


「今どこ? 迎えに行く」


真希は隣の郁に目をやる。


「あのね、私……」


「空港だ」


「え?」


真希が戸惑って郁を見ると、閉じていた目がゆっくり開き、深い闇のようなまなざしが彼女に向けられた。


「まさか、このヘリでそのまま帰国すると思ってたんじゃないだろうな?」


郁は鼻で笑う。


「本当に、間抜けだな」


「……!」


間抜けって、何よ!あんたこそ!


ちゃんと説明してくれればいいのに。

それに、こんな大げさにヘリで空港まで行く人なんて普通いないでしょ。おかしいのはそっちだし!


――もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。

もし言ったら、郁がどうなるかわからない。


「とにかく、空港で待ってるから」


佳穂は電話を切ると、遠ざかる家族三人を見送り、最後の涙を拭った。


――これで、青嵐のために泣くのは最後。


タクシーを止めて、彼女は振り返ることなくその場を去った。


一方、遠くで青嵐は胸に手を当て、ふいに痛みを感じていた。


「どうしたの、青嵐?」


「いや、なんでもないよ」


小さな女の子が青嵐の足にしがみつき、「だっこ!」とせがむ。


青嵐は娘を抱き上げて、その鼻をやさしくつまんだ。


「この甘えん坊め」


三人は高級車に向かって歩いていく。


なぜか、青嵐は一度だけ振り返った。けれど、人混みの中に、見覚えのある顔はなかった。


――


電話を切る頃には、飛行機はもうすぐ空港に着陸するところだった。


プライベートジェットは滑走路の端に停まり、郁の部下が周囲を完璧に警備している。乗務員以外、誰も近づけない。


機内は豪華で、寝室まである。


郁はソファにもたれ、執事の佐藤が丁寧にお茶を差し出す。


「真希様は何をお飲みになりますか?」


「ジュースをお願いします」


佐藤は微笑み、すぐにオレンジジュースを差し出した。


「フレッシュのオレンジジュースでございます」


こんなに早く? まるで最初から準備していたみたい。


真希はカップを抱えて一口飲んだ。ほどよい酸味と甘みで、好みの味だった。


佳穂を待つ間、することもなくて退屈だった。

スマホは壊れてしまい、やることもない。椅子にもたれているうちに、大きなあくびが出る。


手術をしてから、どうも疲れやすくなった。眠気がすぐに襲ってくる。


次の瞬間には、もう目が重くなり、静かな寝息を立て始めていた。


「郁様、真希様はお休みになりました」


郁はちらりと佐藤に目をやる。


佐藤は静かに微笑み、下がっていった。


郁は顎を支えたまま、隣から聞こえる規則正しい寝息と、ときおり混じる小さな寝息を聴いていた。


彼は眉をひそめ、真希をじっと見つめる。


「おい」と呼んでも、真希は全く反応しなかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?