「ちょっと電話をかけたいんだけど……」
今回の再会で、真希はどうしても郁の前だと気が引けてしまう。
郁はようやく反応し、短く鼻を鳴らしてからバッグを渡してくれた。
――せめて、私を下ろしてくれたらいいのに。
怪我をしたとはいえ、歩けないほどじゃない。なのに、こうして抱きかかえられていると、落ち着かない。
郁の威圧感に逆らえず、真希は素直にバッグを受け取り、中からスマホを探す。けれど、ふと手が触れたのは自分の下着で――
――まさか。
さっき郁が拾ってくれたの、これも……?
真希の顔は一気に真っ赤になり、恥ずかしさで叫びだしたくなった。
どうして私は、いつも郁の前でこんな恥ずかしい思いばかりするんだろう。
真希が郁と初めて出会った記憶は、六歳のときだった。
その日、黒澤家でパーティーが開かれていたが、小さな真希は退屈で、ひとりこっそり裏庭へ抜け出して遊んでいた。
地面にはたくさんのアリがものを運んでいて、列をなしている様子がおもしろくて、しゃがみこんでじっと眺めていた。
そんなとき、郁が音もなく背後に現れ、突然声をかけてきた。
「ねえ。」
びっくりした真希は飛び上がり、振り返ると、郁が影の中に立っていて、顔の半分だけがライトに照らされて青白く浮かび上がっていた。恐怖で泣き出し、両親と兄を呼んだ。
郁は慰めるどころか、真希の口を押さえ、「泣くな」と脅した。
そのとき真希はまだ六歳。脅しの意味もわからず、ただ、この綺麗なお兄さんがすごく怖いとしか思えなかった。
泣くのを止めることなんてできなかった。
すると郁は調子に乗り、真希のお団子ヘアをつかんで、
「泣くなら、髪もドレスもぐちゃぐちゃにしちゃうぞ」
お気に入りのドレスと髪型を台無しにされたくなくて、真希はますます泣き声を上げる。
その騒ぎで大人たちが駆けつけてきたときには、もう髪もドレスもぼろぼろになっていた。
その出来事は、今でも忘れられない強烈な記憶として残っている。
それ以来、真希は郁に苦手意識を持ち続けてきた。
――
ようやくバッグの底からスマホを見つけ出すと、画面にはひびが入っていた。
何度かタップしてみると、まだ使えそうだが、エレベーターの中は圏外だ。
真希は首をひねって、表示される階数を見やる。
99階。
「チンッ」
エレベーターが最上階に到着した。
ドアが開くと、廊下には屈強な護衛たちがずらりと並んでいる。
彼らは廊下の両側に立ち、まるで壁のように天井まで伸びていた。
郁が真希を肩に担いできても、誰一人として余計な視線を向けなかった。
同時に、他のエレベーターも最上階に到着し、執事が護衛を率いて郁の一行に合流する。彼らは郁を囲みながら進む。
郁は表情ひとつ変えないが、真希はそうはいかない。
こんな大勢の前で、郁に片手で抱えられているなんて、居心地が悪すぎる。
地上三百メートルの夜空は冷たい風が吹き抜け、冬の気配が色濃く漂っていた。
ヘリポートには黒いヘリコプターが待機している。
そろそろ下ろしてくれるだろうと思いきや、郁はそのまま真希を担いだまま機内へ。
「ちょ、ちょっと待って!」
郁は真希を座席に放り出し、執事がすぐにドアを閉めようとする。
「まだ、待ってください! もう一人いるんです!」
佳穂がまだ来ていない。
執事は郁を見る。郁は顎に手をつき、気だるげな様子で何の返事もない。
それで十分だった。
「バタン」
ドアが閉まる。
真希は言葉を失う。
隣ので目を閉じている郁を見やり、結局何も言えずに背を向け、こっそり佳穂に電話をかけた。
何度もかけ直し、やっと繋がる。
「佳穂、今どこ? 実はね――」
向こうからすすり泣く声が聞こえた。
「どうしたの? 泣いてるの?」
佳穂が泣くなんて、本当に久しぶりだった。
「真希……私ね、青嵐を見つけたの……」
真希は体を起こし、表情が険しくなる。
やっぱり、青嵐だったんだ――
佳穂は泣きながら話す。
「知ってる? 彼、結婚してたの。子どももいて、その子を抱っこして、奥さんの手を引いて……すごく幸せそうで、妬ましくて仕方なかった。どうして彼だけ幸せになれるの、どうして……」
やっぱり、佳穂は青嵐のことを忘れられなかった。
青嵐は、彼女の心に消えない傷跡のようなもの。見えないけど、触れられるたびに胸が裂けるほど痛む。
「話しかけたの?」
「……いいえ、あんな人、話す価値もないわ」
佳穂は大きく息をつき、
「今どこ? 迎えに行く」
真希は隣の郁に目をやる。
「あのね、私……」
「空港だ」
「え?」
真希が戸惑って郁を見ると、閉じていた目がゆっくり開き、深い闇のようなまなざしが彼女に向けられた。
「まさか、このヘリでそのまま帰国すると思ってたんじゃないだろうな?」
郁は鼻で笑う。
「本当に、間抜けだな」
「……!」
間抜けって、何よ!あんたこそ!
ちゃんと説明してくれればいいのに。
それに、こんな大げさにヘリで空港まで行く人なんて普通いないでしょ。おかしいのはそっちだし!
――もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。
もし言ったら、郁がどうなるかわからない。
「とにかく、空港で待ってるから」
佳穂は電話を切ると、遠ざかる家族三人を見送り、最後の涙を拭った。
――これで、青嵐のために泣くのは最後。
タクシーを止めて、彼女は振り返ることなくその場を去った。
一方、遠くで青嵐は胸に手を当て、ふいに痛みを感じていた。
「どうしたの、青嵐?」
「いや、なんでもないよ」
小さな女の子が青嵐の足にしがみつき、「だっこ!」とせがむ。
青嵐は娘を抱き上げて、その鼻をやさしくつまんだ。
「この甘えん坊め」
三人は高級車に向かって歩いていく。
なぜか、青嵐は一度だけ振り返った。けれど、人混みの中に、見覚えのある顔はなかった。
――
電話を切る頃には、飛行機はもうすぐ空港に着陸するところだった。
プライベートジェットは滑走路の端に停まり、郁の部下が周囲を完璧に警備している。乗務員以外、誰も近づけない。
機内は豪華で、寝室まである。
郁はソファにもたれ、執事の佐藤が丁寧にお茶を差し出す。
「真希様は何をお飲みになりますか?」
「ジュースをお願いします」
佐藤は微笑み、すぐにオレンジジュースを差し出した。
「フレッシュのオレンジジュースでございます」
こんなに早く? まるで最初から準備していたみたい。
真希はカップを抱えて一口飲んだ。ほどよい酸味と甘みで、好みの味だった。
佳穂を待つ間、することもなくて退屈だった。
スマホは壊れてしまい、やることもない。椅子にもたれているうちに、大きなあくびが出る。
手術をしてから、どうも疲れやすくなった。眠気がすぐに襲ってくる。
次の瞬間には、もう目が重くなり、静かな寝息を立て始めていた。
「郁様、真希様はお休みになりました」
郁はちらりと佐藤に目をやる。
佐藤は静かに微笑み、下がっていった。
郁は顎を支えたまま、隣から聞こえる規則正しい寝息と、ときおり混じる小さな寝息を聴いていた。
彼は眉をひそめ、真希をじっと見つめる。
「おい」と呼んでも、真希は全く反応しなかった。