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第66話

郁が立ち上がると、その大きな影が真希に覆いかぶさった。

しかし、真希はまったく気づかず、ぐっすりと眠っている。


「……」


郁は小さく舌打ちしながら、真希を見下ろした。


「よく寝るもんだな。」


執事は少し離れた場所で、気配を消して立っている。

クルーたちも空気を読んで、どこかに身を潜めていた。


郁はしばらく真希を見つめていたが、やがて手を伸ばして彼女の頬を軽くつついた。


「起きろ。」


真希は心地よく眠っていたが、顔のあたりに虫がまとわりつくような煩わしさを感じた。

彼女は無意識に手を振り払うと、パチンと音を立てて、世界はまた静けさに包まれた。


郁は不機嫌そうに顔をしかめ、真希のコートの襟をつかんで引き起こした。


「いい加減に起きろ!」


真希はまるで骨が抜けたようにぐったりしていて、両手を上げた拍子にコートが郁の手に落ち、コートのポケットからスマホが転がり落ちた。

郁は手に残ったコートと、眠りこけている真希を見比べ、スマホを足で踏みつけ、コートを放り投げた。


そのまま寝室に戻り、眠りに落ちた。


佐藤は床に散らばったコートと、休憩室の方をちらりと見て、ボディガードに目配せし、コートを遠くに片付けさせた。

それから三十分後、佳穂は郁の手配した人物に案内されて、飛行機に乗り込んだ。飛行機が轟音をあげて空へ舞い上がる。


真希は少し目覚めたが、またすぐに寝入ってしまった。

佳穂は真希のシートベルトを外し、彼女が楽な姿勢で眠れるようにして、自分も毛布をもらい、シートを倒して目を閉じた。


次に目を開けたときには、すでに外は朝の光に包まれていた。

機内は静かで、真希が隣を見ると、佳穂もまだ眠っている。


無事に合流できてよかった、と真希は胸をなでおろした。


窓の外には広がる雲海。真希は大きく伸びをして、機内を見渡したが、郁の姿は見当たらない。


「あの人、どこ行ったんだろう?」


佳穂を起こしたくなくて、そっと席を立ち後方のトイレを探す。


ちょうど通路の端に佐藤が現れた。


「真希さん。」


真希はにこやかに答えた。


「お手洗いを使いたいんだけど。」


佐藤は申し訳なさそうに微笑んだ。


「あいにく、そちらは使用中です。」


真希は横目で確認すると、確かにトイレのランプは赤く点灯している。


「向かい側のドアを開けていただければ、もう一つございます。」


佐藤の案内通り、通路の奥に半開きのドアが見えた。


真希は礼を言い、足早に向かいのドアを開けた。そこは広々とした休憩室で、ダブルベッドには純白のシーツがかかっていたが、少し乱れていて、誰かが休んだあとが見て取れる。


ベッドの向かいにはテレビ、入り口近くには酒棚があり、高級な酒が並んでいた。


「さすが郁、いいもの持ってるな」


感心しつつ、真希は部屋の隅にトイレの表示があるドアを見つけた。


何も考えず、何時間も我慢していたので、そのままドアを開けた。途端に温かい湯気がふわりと顔にかかる。その中にぼんやりと人影が近づいてきた。


「え……?」


「?」


真希の視線は無意識に上がっていく。ああ、バスタオルを巻いているから、大事なところは見えない。

さらに視線を上げると、引き締まった腹筋に水滴が流れ落ちている。真希は何とか視線をそらし、さらに上を見ると、色っぽい喉仏、くっきりした輪郭、濡れた髪、赤らんだ顔、そして不機嫌そうな鋭い目があった。


ようやく状況を把握した真希は、彼がシャワーを浴びている最中に、うっかり入ってしまったことに気付いた。


「わ、私……」


郁はゆっくりとバスローブを羽織り、ベルトをきっちり締めて、肌をすべて隠した。


真希は、もしズボンがあったら目の前で履いていたんじゃないかと疑うほどだ。

別にわざとじゃないし、彼が中にいるなんて知らなかった。

見たくて見たわけじゃないのに――まるで自分が変態みたいじゃないか。


「何も見てないから、それに、見る価値もないでしょう」


郁は眉をひそめた。


「見てない?見る価値もない?」


ふん、と鼻で笑うと、真希を押しのけてゆっくりと部屋を出て行った。


真希は自分の頭を軽く叩いた。


「しっかりしろ、真希。変なこと言わないで!」


トイレから出ると、休憩室にはもう郁の姿はなかった。


佐藤がドアの前で待っていて、穏やかに声をかけた。


「真希さん、まもなく着陸です。」


真希は声を潜めて言った。


「先に言ってよ。郁がいるなら入らなかったのに。」


佐藤は柔らかい笑みを浮かべた。


「真希さんは、うちの若様にとって特別な存在ですから。」


真希はうなずいた。


「分かってる。」


彼は昔から、私をいじめるのが好きだった――子どもの頃からずっと。

郁という人間は、昔から冷たくて、どこか不安定で。


そのせいで、真希はできるだけ郁を避けてきた。顔を合わせることも、できるだけ避けてきた。

この前、「煙雲」で少し会ったが、まさか今回の帰国で、駆が呼んだ助っ人が郁だったとは。


まさに運命のいたずら――真希の頭の中に、そんな言葉がふと浮かんだ。


また余計なこと考えすぎかもしれない、と苦笑する。


席に戻ると、佳穂がすでに目を覚ましていた。真希に微笑みかける。


本当は抱きしめたかったが、飛行機が着陸態勢に入っていたので、降りてからゆっくり話すことにした。


真希が座り直し、ふと前を見ると、郁がすでにきちんと服を着てこちらを見ていた。

深緑のシャツに黒のパンツ、足を組んで、余裕の笑みを浮かべている。


真希は彼をにらみつけ、しっかりとシートベルトを締めた。


十五時間のフライトの末、飛行機はようやく空港に到着した。


降りるとき、真希は自分のコートがなくなっていることに気付いた。

足元には、踏み潰されたスマホだけが転がっている。


執事にコートとスマホのことを聞くと――


「コートは見当たりませんでした」


佐藤は答え、スマホを見て少し間を置いてから


「スマホはうちの若様が壊したものですので、弁償いたします」


真希はスマホを拾い上げ、これでスマホの件は解決したが、コートはどこにいったのだろう?


飛行機に乗るときは確かに着ていたはずなのに。


郁に聞こうとしたが、彼はすでに真希のそばをすり抜けて、足早に機内を後にしていた。


佳穂が自分のコートを脱いで差し出した。


「風邪ひいちゃうから、これ着て。」


A国での荷物は元々少ない。

兄から突然連絡があって帰国することになり、二人は一番厚手のコートを着て、荷物も最低限しか持ってこなかった。


外はすでに冬の寒さが厳しく、あたりは雪で真っ白だ。


でも佳穂もあまり厚着をしていない。彼女のコートを受け取るわけにはいかない。


少し我慢して、空港に入ってから新しいコートを買うつもりだった。


その時、佐藤が気を利かせて休憩室から一着のコートを持ってきた。


「よろしければ、これをお使いください。」


真っ黒なウールのコート、手触りも厚みも申し分ない。言われなくても、郁のものだとすぐに分かった。

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