彼女と小林優斗の関係は親しいわけでもなく、小林家と黒澤家の間にも特にビジネス上の繋がりはなかった。
小林優斗とここまで落ち着いて人の噂話をするような間柄でもない。
ましてや、それが郁に関することならなおさらだ。
「言いたいことがあるなら、はっきり言って。」
優斗は深く息を吸い込んだ。
「じゃあ、ちょっとだけ余計なお世話を言わせてもらうよ。」
「真希さん、郁は本当に危険な人だ。君は、彼には近づかない方がいい。」
真希は眉をひそめた。危険?
彼が郁のことを言っている?
確かに、皆が郁のことを「魔王」と陰で呼んでいるのは知っていた。
この呼び名がいつから広まったのかは分からないが、真希が気づいた時には既に誰もがそう呼んでいた。
けれど、真希は郁が誰かをひどい目に遭わせたという話は聞いたことがない。
確かに彼は気分屋で、少し意地悪なところはある。でも、それだけで「危険」とは思えなかった。だから――
小林優斗は、どうやら自分の知らないことを知っているようだ。
「詳しく話して。」
小林優斗は姿勢を正し、周囲を警戒しながら声を潜める。
「市崎家のこと、どこまで知ってる?」
真希は首を横に振った。
「あまり知らない。」
やっぱり、と思ったように小林優斗は続ける。
「市崎家は四大家族の中で一番遅く頭角を現したけど、成長は一番早い。家長はかなり謎に包まれた人で、噂では冷酷非情、数えきれないほどの人を手にかけてきたって言われてる。市崎家自体がまるで魔窟みたいなものさ。」
市崎家については、以前両親にも聞いたことがある。でもその時も「市崎家には関わるな、好奇心を持つな」と言われただけだった。
当時の真希はまだ子どもで、好奇心が一番強い時期。月にでも行きたいくらい何もかもが知りたかった。
だから、親の言うことなんて聞かずに、いろんな人に市崎家のことを聞いて回った。
けれど、貴族学校の中でも誰も具体的なことは知らなかった。
――じゃあ、
「どうして君はそんなこと知ってるの?」
小林優斗は苦笑しながら首を振る。
「俺が直接知ったわけじゃない。ほとんどは噂だよ。去年、うちが市崎家と取引した時、父さんは俺を一切関わらせなかった。取引が終わった後、父さんはものすごく真剣な顔で『市崎家とは関わるな、絶対に近づくな』って念を押してきた。」
「父さんはすごく怯えていた。市崎家の現当主にはたくさん兄弟がいたけど、今も無事に生きているのは全員障害を負っているらしい。そして、俺らの世代で直系として生き残ったのは郁、彼一人だけだ。怖くないか?」
真希は思わず息を呑んだ。
「でも、それだけじゃ……郁が他の人を……」
「証拠がない以上、全部憶測かもしれない。でも、俺が言えるのは、郁が俺らの中で一番危険な存在だということだけ。」
小林優斗はため息をついた。
「こんなことを急に話してごめん。実は昨日、絵心から電話があって、かなり動揺していた。『悪魔を怒らせてしまった、もうだめだ、家も終わりだ』って。聞いてみたら、君にちょっかいを出したあと、郁が来たって。」
真希は説明した。
「ただの偶然だよ。私は急いで帰国する必要があって、駆に頼んだんだけど、郁はついでに来ただけだよ。」
小林優斗は苦笑した。
「郁は冷たい人間で、誰の言うことも聞かない。そんな彼が君を助けたのは、駆に頼まれたからじゃない。きっと、君のことを大事に思っているからだ。」
真希の知っている郁とは、まるで別人のようだ。
郁はいつも彼女に意地悪ばかりして、幸せそうにしているとすぐに水を差してきた。
拓海に夢中だった頃も「見る目がない」「頭がおかしい」などと言われて、散々からかわれた。
「わざわざ私にこんな話をするのは、警告のため?」
小林優斗はしばらく黙った後、意を決したように口を開いた。
「実は、お願いがあって来たんだ。」
お願い?
自分は何の力もないのに、いったい何を頼まれるんだろう。
「絵心のことで謝りたい。今回の件は彼女がやりすぎた。必ず彼女は罰を受ける。だから、どうか郁に頼んで、絵心や小林家を許してほしい。」
昨日から小林家は立て続けにトラブルに見舞われ、取引先は次々と契約を切ってきた。
見えない力が小林家を追い詰めていて、まったく太刀打ちできない。
小林絵心も行方不明になり、優斗は最初、真希の件と関係があるか分からなかった。
でも、郁が真希を連れて帰国したと知った今、すべて郁が仕組んだことだと確信した。
今日真希に会ったのは偶然だったが、いずれにしても彼女に頼むつもりだった。
「私にはそんな力ないよ。」
郁とは仲が良いどころか、むしろ嫌われているくらい。彼に頼んだところで、逆効果かもしれない。
小林優斗もそのことは分かっていた。追い詰められて、頼れるのが真希しかいなかった。
小林家が危機に陥った時、父親はかつての友人たちに助けを求めたが、誰も手を貸してくれなかった。
今の小林家は、まるで嵐の中の小舟のように、沈む寸前だった。
「もし真希さんが力を貸してくれるなら、小林家はどんな代償でも払う覚悟です。」
真希はすぐに返事はしなかった。
「一度やってみる」
小林優斗と別れた後、真希は家に戻った。
黒崎北文はこの数日、デザイン会社の準備で忙しく、佳穂は南家で鍛えた実力を存分に発揮して、北文の右腕となっていた。
真希は……
まるで何もすることがない。
「今はまだ出番じゃない。会社が軌道に乗ったら、芸術家としてみんなの度肝を抜くような作品を作ってほしい」
北文がそう言うから、この数日、真希は気分転換のために街を歩き回り、インスピレーションを探していた。
そして今日、小林優斗にばったり会い、市崎家の裏話を聞いたのだった。
窓辺に立ち、携帯を握りしめる。
小林優斗の口から語られた郁と、自分の知っている郁がどうしても結びつかない。
特に『郁は君を大切に思ってる』と言われても、どうしてそんなふうに思われるのか、全く分からなかった。
それでも、やはり一度本人に確かめてみようと決意した。
電話を三度かけて、ようやく繋がる。
郁の声は少しかすれていた。
「何の用だ。」
そのぶっきらぼうな言い方に、真希の頭にすぐ、いつもの不機嫌そうな郁の顔が浮かぶ。
「寝てたの?」
「誰が、お前みたいに寝てばかりだよ。」
寝ていたわけではない。なら寝起きの不機嫌さでもない。
ただ単に自分が気に入らないだけだろう。
やっぱり、郁が真希のために小林家に手を下すなんて、あり得ない。
「ちょっと聞きたいんだけど、小林家と何かあった?」
静かな会議室で、役員たちは息をひそめ、電話をしている郁をそっと見守っている。
彼は椅子にもたれ、手元のライターを弄びながら、
相変わらずの余裕があり、そして、どこか楽しそうだ。