だが、口を開けばどうしても不器用だ。
「小林が連絡してきたのか?」
「まずは、あるかないか答えて。」
郁は意地悪そうに笑った。
「真希、意外だな。そんなに自意識過剰だったとは。まさか俺がお前のために小林家を相手にしてるとでも思ってる?」
「……そんなこと思ってないよ」
真希は気まずそうに指先をいじる。
「そう思ってくれてもいいんだぞ。」
「?」
真希は戸惑った。さっきは自惚れるなって言ったのに、今度はそう思えって……?
「お前が困ってるところを見てみたいんだ。」
「市崎郁!」
真希が電話越しに叫ぶのを、郁はもうスマホを少し離して聞き流している。
彼女の怒鳴り声が収まるのを待って、郁はゆっくりと電話を耳に戻した。
「本当は小林家にも少しは情けをかけるつもりだったが、君あてとはね、もう許せないな。」
やっぱり……。真希は苦笑した。郁に頼んだところで、むしろ逆効果だったかもしれない。結果的に、この電話が小林家の運命を決めてしまったのかも。
「郁……」
真希は声を落とした。
「今回は、小林家を許してあげられない?」
「俺に頼みごとをしてるのか?」
郁の口元はますます意地悪く歪む。
「これは私と小林絵心の個人的な問題で、家族全員を巻き込む必要はないと思うの。小林家は大家族だって聞いてるし……。」
もし小林家が潰れたら、みんなどうなるのか想像もできない。
しばらく沈黙が流れ、郁の声は冷たかった。
「お前の一言で小林家を見逃すなんて、そんな損なことはしない。」
「じゃあ、条件を出して。」
電話の向こうから金属がカチカチと鳴る音が聞こえた。
「今は思いつかない。思いついたら言う。」
「じゃあ、許してくれるんだ?」
真希は思わず嬉しそうに声を上げる。
「意外と優しいところあるんだね。」
会議室は静まり返っている。
郁は頬杖をつきながら、手元のスマホをくるくると回し、通話はすでに切れていた。
「優しい?別に褒められても嬉しくもない。」
「続けて。」
部下の報告が再開される。今回の担当者は、珍しく一発で郁からOKをもらえたと内心驚いていた。
先ほどまでの部門長たちは、社長にこっぴどく叱られていたのに。
その後の進行も驚くほどスムーズで、わずか三十分で全ての部門の報告が終わった。
郁は自室に戻り、スマホで一文を打ち、送信した。
それと同時に、小林家に対する攻勢はすべてストップした。
小林父がそれを知ったときは、感激のあまり涙が出そうだった。
すぐに優斗に立派な手土産を用意させ、真希へのお礼をするため黒澤家へ向かった。
父子が訪ねてきたとき、真希はちょうど薬を飲み終えたところだった。
薬瓶やら容器やらが引き出しにぎっしり並んでいて、見ているだけで気分が沈む。
駆がどこからか腕のいい治療チームを見つけてくれ、研究所を出る時には「必ず治療薬の開発を急ぎます」とまで言ってくれた。
駆には本当に助けられてばかりだ。
彼が「妹みたいなもの」と言ってくれた時は、ただの冗談かと思っていたが、実際は違った。
彼女が大変な時は小雪の情報を集めてくれたり、海外での治療も手配してくれたり、駆への感謝はどんどん大きくなっていく。
ちょうど近々オークションがあるので、何か駆へのお礼を贈ろうと思っていた。
そんな時に、小林家の父子がやってきた。
真希はその大げささに戸惑った。
「私、ちょっと言っただけなのに、こんなにしてもらわなくても……」
優斗は複雑な思いだった。真希のたった一言が、傾きかけていた小林家を救ったのだ。
郁は、本当に彼女を大事にしているんだな……
小林父はひたすら頭を下げて感謝の言葉を述べていた。
真希もなんだか気まずかった。
小林父は年長者として、挨拶が終わるとすぐに帰る支度をし、優斗と一緒にその場を去った。
真希は二人を玄関まで見送った。
優斗はドア口に立つ真希を見つめながら、複雑な気持ちを抱えていた。
彼は真希に一目惚れしていた。あの頃、彼らは同じ世界にいたはずなのに、手を伸ばせば届きそうだった彼女の微笑みは、今や遠いものとなっていた。
「これからも友達でいてくれる?」
思わず本音が口をついて出た。
真希は一瞬驚いたが、にこやかに微笑んだ。
「もちろん。」
優斗もほっとしたように微笑む。
あの時、彼女の手を取れなかったけれど、今度こそ、もう一度チャンスがあるだろうか……
真希が家に戻ろうとした時、背後から懐かしい声が聞こえた。
「真希。」
拓海と再会したらどんな気持ちになるだろう、と何度も想像していた。
彼は悲しんでいるかも、取り乱すかも、あるいは驚いて喜ぶかも……
そんな様子を思い描いていたが、実際に会ってみると、彼は想像以上に落ち着いていた。
コート姿で冷たい風の中に立つ拓海は、しばらく見ないうちに、表情も引き締まり、どこか影が差していた。
「どうしてここに?」
彼はまっすぐ真希を見つめて言った。
「生きてたんだな。本当に……生きてたんだな。」
まるで信じられないといった様子だった。
真希は彼の反応が妙に感じた。
「どうしたの?」
拓海は首を振った。
「分からない。何か大切なものを失った気がする。友達から君は生きていると聞いたのに、記憶の中では君はもう……。」
冷たい風に肩をすぼめながら、真希の脳裏にある考えがよぎる。彼は記憶を失っているんだ……。
都合のいい話だ。
「私が生きていると、何か都合が悪いの?」
拓海は眉をひそめ、冷たい声で言い返す。
「無駄口を叩くなら、黙ってろ。」
そういえば、以前も怒らせるとこうやって冷たく言われたっけ。やっぱり、あの拓海だ。
「ここは私の家。帰って。」
彼は黙ってその場を動かない。
その様子に、真希は怒りがこみ上げてきた。彼から受けた苦しみを思い出して、優しくするつもりはない。
「寒くないなら、そこで立ってれば。」
真希は踵を返し、家に入ろうとした。
その時、拓海の戸惑った声が背中越しに響いた。
「みんな、俺たちは夫婦だったって言うんだ。真希、分からないよ。妻だった君が、どうして死んだんだろう……。」
真希は足を止め、少しだけ振り返る。
拓海は、懐かしくもあり見知らぬ顔にも見える真希の横顔をじっと見つめていた。
「みんな君が死んだって言うから、すごく悲しかった。けど、生きているって知っても、何も教えてくれなかった。どうして君は死んだのか、どうして俺に冷たいのか……。」
悲しげな声で、彼は真希をまっすぐに見つめていた。
「知りたいんだ。俺たちに何があったのか。だから住所を聞いて、ずっとここで君を待ってたんだ。」
その瞳は、深い悲しみに包まれていた。
「君は……とても痩せているんだね…………。」
拓海は多くのことを忘れていた。
彼女への嫌悪も、傷つけたことも。
そして、彼女への想いさえも。
まるで初めて出会った他人のように、ただ静かに、かつて自分の記憶に微かに残るこの女性を眺めて、素直な印象をつぶやいた。
痩せている、と——