拓海の口から発せられたその言葉は、まるで今日が二人の初対面であるかのようだった。
彼は見知らぬ他人の目で、目の前の女性を見つめ、薄い身体の奥にある朽ち果てそうな魂まで見透かすかのようだった。
しかし、彼は忘れている。このすべてが自分のせいであることを。
彼女の心と体に刻まれた傷は、果たして癒える日が来るのだろうか。
彼女の命は、荒れた海に浮かぶ小舟のように、いつ波に呑まれてもおかしくないほど儚い。
本来なら、彼のことを憎んでもいいはずだ。
だが、加害者であるはずの拓海は、自分の罪をすっかり忘れてしまっている。
記憶を失った彼の前では、彼女の恨みや怒りは、ただの理不尽な感情に見えてしまう。
たとえ彼らがすでに離婚していても、たとえこれから赤の他人として生きると心に決めていても、拓海にはまだ彼女を苛立たせ、怒らせる力が残っていた。
真希は静かに笑った。
「あなたの同情なんていらないわ、拓海。私たちが離婚したのは、お互いのことを愛していなかったからよ。」
本当にそうだろうか。拓海は迷いながら真希を見つめた。
「あなたが愛していたのは、義理の妹の江藤小雪でしょう。」
「小雪……」
彼は胸に手を当て、呟く。
「そうだ、確かに小雪が好きだった。君も知っていたのか?」
真希は鼻で笑った。
「もちろん知ってるわ。小雪のために、三年間も私に一度も触れなかった。あなたの部屋は小雪の写真だらけで、その写真に向かって自慰までしていた。覚えてる?」
拓海の顔色がさっと変わったが、反論しなかった。
つまり、その記憶は残っているのだ。つまり、彼が忘れてしまったのは、自分との過去だけなのだろうか。
神様は彼にずいぶんと優しい。すべての罪を忘れさせ、何事もなかったかのように生きることを許している。
一方で、真希はいつまで生きられるかわからない体を引きずり、思い出したくもない苦しみを一人で抱え、暗闇の中を歩き続けている。
「もう帰って。二度と来ないで。」
真希は拓海を玄関の外に押し出し、振り返りもせずソファに腰を下ろした。
そのまま、しばし呆然とした。
まさか拓海が黒澤家まで訪ねて来るとは思わなかったし、記憶喪失になっていたとも知らなかった。
自分が死んだふりをして去った後、色々なことが起きていたのだろう。
拓海との過去が、走馬灯のように頭の中で繰り返された。
つい最近の出来事のはずなのに、すでにすべてが霞がかったようにぼやけている。
拓海も、自分自身も、そしてかつて愛したはずの彼の姿も、記憶の中でだんだんと薄れていく。
「お嬢様、夕食はいかがなさいますか?」
使用人が声をかけてきた。
真希は首を振った。
「いらないわ。」
立ち上がって階段を上がる彼女の後ろ姿に、使用人は心配そうな表情を浮かべていた。
黒澤北文が帰国した日、黒澤家は新たに使用人やシェフを雇い直した。
家の中はきちんと整えられ、北文が不在のときは真希のためだけに食事が用意される。
だが、真希はほとんど何も口にしようとしなかった。
翌朝、真希が目を覚ましたとき、窓の外には雪が舞っていた。
拓海がいつ帰ったのかはわからない。
彼女は霜で曇った窓ガラスに、にっこりと笑う顔を描いた。
「真希、今日も楽しく過ごそうね」
自分に言い聞かせる。
真希は冬が好きだった。
冷たく張り詰めた空気の中で、家にこもってドラマを見るのが何よりの贅沢だと感じていた。
上着を羽織って階下へ降りようとしたとき、リビングのソファでは、部屋着姿で優雅にお茶を飲む北文の姿が目に入った。
「お兄ちゃん。」
黒澤北文は新聞を閉じ、顔を上げて微笑んだ。
「起きたか。」
時計を見ると、もうすぐ正午。
手術を終えてからというもの、彼女はよく眠るようになった。
手すりを握り、軽快な足取りで階段を下りていく。
ここ数日、北文は朝早く出かけては夜遅く帰ってくるので、彼女はなかなか兄に会えなかった。
会社のことや、何か困っていることはないか、色々聞きたいことがあった。
だが、最後の数段で、突然足元から力が抜け、体が前へと倒れそうになった。
視界がぼやけ、冷たい床が迫ってくる。
とっさのことで、どこにそんな力があったのか、自分でもわからないが、手すりを必死に掴み、力が抜けてそのまま階段に座り込んだ。
心臓が激しく脈打ち、手すりを握る手が小さく震えている。
手を開くと、爪が折れて血がにじんでいた。
北文の顔色が変わり、新聞を放り出して駆け寄ってきた。
「真希!」
彼女は慌てて手を背中に隠し、兄に怪我を見られないようにした。
「大丈夫?どこか痛い?」
北文は真希を支え、その頼りない体に不安を隠せずにいた。
「平気よ、お兄ちゃん。ちょっと足を踏み外しただけ。びっくりしたわ。」
真希は嘘をついた。
さっきまでは何ともなかったのに、突然体の力が抜けて、足元が綿の上に乗ったように全く支えが効かなくなった。
全力で手すりを握ったから、かろうじて体勢を保てたものの、外見は普段通りでも、実際には兄の支えがなければ、立っていることさえ難しい。
前に進もうとするたび、意識を集中させて、足に力を入れて痛みで神経を刺激しながら、ゆっくりと移動するしかなかった。
こうした症状は、術後のリハビリ中にも何度かあった。
ひどい時は、ベッドの上で全く動けず、生理現象すら自力でコントロールできなかった。
まるで廃人のようで、その時は本当に絶望したが、佳穂がそばについて支えてくれたおかげで、なんとか乗り越えられた。
ようやくソファにたどり着き、真希はぐったりと背もたれに身を預けた。
体を起こして兄に「大丈夫」と言いたいのに、もう力が残っていなかった。
「やっぱり体調が悪いんじゃないか?病院で診てもらおう。」
北文は心配そうに言った。
もし病院に行けば、もう隠し通すことはできない。
「大丈夫よ、お兄ちゃん。昨日夕飯を食べなかったから、しばらく休めば平気。」
北文はため息をついた。
「どうしてそんなに自分を追い詰めるんだ。」
真希は一瞬戸惑った。兄は何か誤解しているのだろうか。
「ほら、こんなに痩せこけて。顔なんて骨ばかりだ。」
前に見たときより、彼女はずいぶん痩せてしまっていた。
小さな顔はさらに小さくなり、服もぶかぶかで、顔色も真っ青だ。
さっき抱き起こしたとき、彼女がどれだけ痩せてしまったかを実感した。
以前はこんなことはなかった。
二ヶ月前、ビデオ通話で見たときは、血色もよく健康的で、言葉にもお嬢様らしい自信があった。
元気な姿を見て、北文も安心していた。
黒澤家の事業が海外に移ったばかりで何かと忙しく、真希を常に見ていることはできなかった。その後、真希はビデオ通話を避けるようになり、電話だけは普通にしていた。
時々写真を送ってきてくれたが、そこでも彼女は明るく笑っていた。
しかし、帰国して目の前に現れた真希は、まるで別人だった。
離婚してまだ間もないのに、こんなにも自分を追い詰めて……
北文には彼女の悲しみが痛いほどわかった。
「どうしても拓海のことが忘れられないなら、僕から話をしに行ってもいい。」