結婚式で起きたあれこれの出来事は、今でも街の人々の間で熱く語られている話題のひとつだ。
そして、その騒動の中心人物だった真希が、まさかの生還を果たしたのだ。
マネージャーは真希のことを心から喜んでいた。
あの時も、彼は真っ先に真希の味方だった。
江藤家は厳しく口止め令を出し、拓海と真希に関する話題や情報の流出を禁じていたが、世間の目はごまかせない。みんな、真希の側に立っていた。
マネージャーと数人の従業員が、しみじみとした表情を浮かべる。
「しまった!」
「どうしたんですか?」
驚いた様子の従業員たち。
「拓海も、あの上にいるんだ!」
真希はエレベーターのゆっくりと上昇する数字を見つめていた。
マネージャーの話では、今日宮崎明と一緒に来ているのは、どれも一流家系の跡取りばかりだという。
六年前は、黒澤家のお嬢様として、誰もが一目置く存在だった真希。
そんな彼女だからこそ、これだけの面々を集められる宮崎明の力が、どれほどのものか、肌で分かる。
かつて一緒にパーティーや社交の場で顔を合わせた面々と、今また対峙するとなれば、どうしても気後れしてしまう。
特に、あの結婚式騒動の後では、自分が生きていると知られた時のみんなの反応も、マネージャーと大差ないだろうと想像がついた。
幸いなことに、マネージャー曰く、この宮崎さんはとても物腰の柔らかい人らしい。
真希の目的は、宮崎さんにちょっとだけ話をして、助けをお願いすること。
それ以外は、できるだけ気にしないことにした。
個室の中は、賑やかな雰囲気に包まれていた。
どの男性の隣にも、美しい女性スタッフが付き添い、酒を注ぎ、料理を取り分けている。
真希は部屋に入らず、半開きのドア越しに中を覗いた。
主賓席には、白いシャツに金縁メガネをかけた男性が座っている。写真で見た宮崎明と、まさに同じ人物だ。
彼は穏やかに微笑みながら周囲と会話し、その笑顔はまるで優しい風が吹き抜けるような雰囲気だった。
真希は無理に入ろうとはせず、休憩スペースのソファに腰掛け、宴が終わるのを静かに待つことにした。
時計の針は、誰を待つこともなく進み続ける。
八時、九時、十時――
個室からは、宴が終わった余韻だけが漏れ聞こえてくる。
立ち上がった真希が部屋のドアを開けると、華やかな装いの人々が、白シャツ姿の宮崎明を中心にぞろぞろと出てくる。
見知った顔ばかりだった。しかも、どれも彼女にあまり好意的でない連中だ。
真希はうつむき、自分の存在が目立たないようにしながら、どうやって宮崎明に声をかけるかを考えていた。
「ちょっとトイレに行ってくるよ。」
柔らかな声が耳に届く。
真希の目が動いた。
――これがチャンスだ。
彼女は宮崎明の後を追い、トイレの前で待つことにした。
宮崎明が出てきた時、壁際に立つ真希に気づき、思わず男性用トイレのマークを確認した。
「私を待っていたのかな?」
優しいがどこか鋭さを感じる声が響く。
真希の胸に、その一言が心地よく染み渡る。
同時に、鋭い洞察力も感じさせた。
真希は小さく会釈しながら、
「突然お時間を取らせてしまい申し訳ありません。黒澤真希と申します。」
宮崎明は、細く白い手をじっと見つめる。彼は多くの人の手を見てきたが、こういった手の持ち主には、ある共通点があることを知っている。
彼はメガネの奥から真希をじっと見つめ、その視線は鋭くも冷静だった。
「黒澤家のお嬢さん……拓海の元、奥さんだったね?」
「ええ、でも私たちはもう離婚しています。」
真希は静かに答えた。
宮崎明は小さく笑みを浮かべる。
「それで、僕に何か用かな?」
彼の声は柔らかくも、どこか奥底に冷たさを含んでいるようだった。
「実は、宮崎先生にお願いしたいことがあって来ました。」
真希は真剣な眼差しで訴える。
「もしよろしければ、少しだけお時間をいただけませんか?」
廊下には人の出入りが多い。今日の宴には、かつての知り合いも何人もいた。
中には、昔彼女に好意を寄せていた人もいる。この場で話すのは、どうしても避けたかった。
今の自分は、やつれ切った姿で、結婚式で拓海との関係もすべて暴かれてしまった。
ただ一つ、薬物に手を染めたことだけは、必死で隠し通してきた。
誰にも知られたくない――。
だからこそ、宮崎明と落ち着いて話せる場所が必要だった。
「明、何してるの?」
やはり――真希が恐れていたことが起きた。背後から足音が近づいてくる。
宮崎明は、メガネの奥の目を静かに細め、真希の緊張した手元を見て、ふっと微笑んだ。
そして突然、真希の手をつかみ、ぐっと引き寄せた。
思わずバランスを崩した真希は、気がつけば彼の胸の中にいた。
驚いて大きな目を見開く。
「ちょっと用があるから、先に行っててくれ。」
宮崎明がそう言うと、その場は静まり返り、皆が意味ありげな視線を送り合った。
「宮崎先生、焦らなくても大丈夫ですよ。いくらでも待ちますから!」
「宮崎先生って、女性なんて興味ないって噂だったけど、やっぱり違うんだな。」
周りからからかいの声が聞こえる中、真希は宮崎明に引かれるようにして歩いていった。
彼は真希の手をしっかりと引いて、空いている個室に入ると、ソファに彼女を押しやった。
「宮崎先生……」
真希は一瞬戸惑った。
個室は大きな円卓に休憩用のソファ、ビリヤード台、専用トイレまである作りだ。
彼女は用件だけを伝えるつもりだったので、たとえ宮崎明の態度が多少強引でも、感情を表に出さないように努めた。
落ち着いて座り、顔を上げて宮崎明を見つめる。
「宮崎さん、今日はご相談があって……」
だが、宮崎明はベルトを手にしたまま、にこやかに彼女に近づいてくる。
何かがおかしい。
その距離感、目線、手にしたベルト、そして笑顔――どれも真希の警戒心を強く刺激する。
「もし今日はご都合悪ければ、また改めて時間をいただきます。」
真希はその場から逃げ出したくなり、バッグをつかんで出口へと急いだ。
できるだけ宮崎明から遠いルートを選んで、ドアの方へと回り込む。
足音が乱れ、宮崎明は目を細めてベルトをいじりながら、その様子を無表情で見つめている。
彼は引き止めることなく、真希の行動を黙って見守っていた。
ドアノブを握りしめた時、真希は小さく安堵の息をつく。
力を込めてドアを開けると、廊下の明かりが差し込む。
その向こうには、見覚えのある人影が壁にもたれていた。
その一瞬、真希の表情が固まる。
「んっ……!」
開けるか閉めるか迷ったその瞬間、大きな手が彼女の口を塞いだ。
叫び声は喉の奥にかき消される。
力は強くはなかったが、逃れる隙は与えられず、真希は再び個室の中へと引き戻された。
気がつけば、手首にはベルトが巻かれ、両手はしっかりと縛られている。
見上げると、宮崎明の冷ややかな顔がそこにあった。彼の目の奥の光は、感情を読み取らせなかった。
彼は静かに、真希へと手を差し伸べた。