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第74話


「な、何をするつもりなの?」

真希は後ずさりしながら問いかけた。


「動かないで。」

穏やかで柔らかな声色だが、そこには逆らえない命令の響きがあった。


真希の顔から血の気が引き、彼女は自分を守るため必死だった。

宮崎明のことを調べる余裕もなく、無防備なまま彼のもとを訪れてしまったのだ。


体内の毒が理性をむしばむ怪物のように暴れ、生きたいという欲望がすべての恐怖を打ち消していく。拒絶されても、無視されても、何かにすがらずにはいられなかった。


宮崎明の優しい顔を見たときは、きっとこの人は善良なのだろうと思っていた。

しかし、彼の言葉ににじむ冷たさは、真希の希望を無残に打ち砕いた。


宮崎明は、最初の頃の拓海に似ていた。

穏やかで知的な仮面、その裏に潜む冷酷さ。

これまで味わった苦しみが、彼の前では隠しきれずに溢れ出す。


逃げ出したい——たとえ外で拓海と鉢合わせになろうとも、昔の知り合いに嘲られようとも。


「逃げたいのか?逃げられないよ。」


立ち上がろうとしたその瞬間、宮崎明の冷ややかな声が真希をソファに縫いとめた。


「や、やめて…何をするつもりなの!」

真希は後ずさりを続ける。


「自分からここに来たんじゃなかったのか?」


宮崎明はメガネを外し、深いまなざしで真希を見つめた。その視線は、まるでフックのように彼女を捕えて離さない。


「怖いのか?逃げたいのか?でも無駄だよ。見てごらん、ここは四方を壁に囲まれている。君は閉じ込められて、助けも呼べない……」


ぼんやりとした明かりの下、真希の青ざめた顔はまるで幽霊のようだった。

その幽霊が今、最も怯えているのは目の前の男だ。


医者から「強い感情の起伏は避けるように」と言われていたことも、今の真希にはもう頭にない。


思考は鈍くなり、息は荒くなっていく。嫌な記憶が次々とよぎる。


拓海、金髪、小雪、そして子供……


「苦しいだろう?今、何を考えている?誰のことを思い出している?」


悪夢のような声が耳元に響き、真希は見えない力に引き寄せられる。


全身が震え、瞳の焦点も合わない。


「拓海…助けて…」


「助けて、お願い…」


水の中で死にたくない、火に焼かれたくない、殴られたくない、見捨てられたくない!


「助けて」の言葉に、宮崎明はすぐ反応した。


「誰に?誰に助けてほしいんだ?どうやって?」


「拓海…助けて…」


真希は涙をこぼしながら呟く。


「こんなことしないで。」


「助けないよ。」


宮崎明の声は冷たかった。

「なぜかわかるか?」


真希は知っていた。小雪のことがあるからだと。でも…


「私は小雪に何もしてない、本当にしてない、信じて!」


必死に宮崎明の手を掴む。


「お願い、乱暴させないで、見捨てないで、薬なんか打たないで…死にたくない、死にたくない!」


彼女は泣き叫び、床に座り込んで号泣した。

その絶望的な泣き声は、宮崎明の胸さえ締めつけた。


彼女の狂気じみた表情と虚ろな瞳は、どれほど心に傷を負っているかを物語っていた。


宮崎明は、最初に真希を見たときから彼女の異常さに気づいていた。


彼は薬物の専門家であると同時に、心理学も修めている。表面上はやせ細っている以外は普通に見えたが、彼の目には、真希が無理に「大丈夫なふり」をしているのがわかった。


本当は、体も心もすでにボロボロなのだ。


このままでは、彼女に残された時間は少ない――


宮崎明はため息をつき、メガネをかけ直した。

哀れみを隠しきれず、真希の手をとり、彼女を縛っていたベルトを外そうとした、そのとき――


ドアが勢いよく開かれた。


振り返った瞬間、顔面に拳が飛んできた。


殴られて後ずさる宮崎明。

唇に手をあてると、赤い血がにじんでいた。


「何のつもりだ?」

眉をひそめて、向かいに立つ男を睨みつける。


白いスーツ姿の男は、鋭い視線で宮崎明を見つめ返した。


「彼女に何をした?」


「別に、ちょっと催眠をかけただけさ。……でも」


「君たちは離婚したんじゃなかったのか?それなのにそんなに気にかけるのか?」

宮崎明は拓海をまっすぐ見た。


入ってきたのは拓海だった。


さっきまで宮崎明の部屋の前で待っていたのだが、なかなか出てこないので用事ついでに声をかけようと思っていた。


しばらくして部屋の中から女性の叫び声が聞こえてきた。

最初は宮崎明が女を困らせているのかと思ったが、次第にその声がどこかで聞いたことのあるものだと気づいた。

それが真希の声だと確信した瞬間、思わずドアを開けてしまった。


そこで見たのは、ベルトで真希を縛ろうとする宮崎明と、泣き叫ぶ真希の姿だった。


考える間もなく、拓海は本能的に拳を振り上げ、宮崎明を殴った。


「離婚したとはいえ、彼女はかつて君のいとこだったんだぞ!」


拓海と宮崎明は従兄弟同士だ。


宮崎明の父親は拓海の父親の弟。しかし宮崎明は早くに生まれ、海外で暮らし、母親の姓を名乗っている。そのため真希は、拓海にこんな従兄がいるとは知らなかった。


「彼女に近づくな。」

拓海の声は氷のように冷たい。


そう言って真希の方へ歩み寄る。


彼が近づくと、真希は警戒したように拓海を見上げ、誰なのかを確かめようとした。

しかし次の瞬間、顔が真っ青になった。


そのまま床に尻もちをつき、怯えて後ずさる。


「やめて、来ないで、お願い、殴らないで!」


宮崎明は目を細め、硬直した拓海に視線を向けた。


「彼女は君を怖がっている。」


宮崎明は淡々と言った。


この従弟の評判は海外まで届いていた。

仏道に帰依し、高貴で優雅だと聞いていたが、どうやら真希に対しては多くの酷いことをしたらしい。


今の真希は催眠状態にあり、全ての反応は身体と無意識からくる、本当のものだ。


拓海はその場で立ち尽くし、優美な顔立ちが冷たい仮面のように固まっていた。宮崎明に鋭い視線を投げる。


「彼女に何をした?」


宮崎明は肩をすくめ、指を鳴らす。すると、真希の意識は一気にクリアになった。


自分が床に座り、涙で顔が濡れていることに気がつき、戸惑いが広がる。


「真希。」


頭上から聞き慣れた声がした。


顔を上げると、そこには見覚えのある顔があった。思わず後ずさる。


本能がまだ消えず、身体が勝手に反応してしまう。


その警戒と恐怖の色が、拓海の心を刺す。


自分が彼女に何をしたのか思い出せない。ただ、好きにはなれなかったし、冷たくしていた。それだけのはずなのに、なぜこれほどまで拒否されるのか。


「愛してるって言っていたのに……これが、彼女の言う“愛”なのか?」

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