「こっちに来い。」
真希は首を横に振り、体を支えながら立ち上がった。
全身の力が抜けて、まるで長距離を走り終えた後のように、ぐったりとしている。
今はとにかく、ここから離れたい。宮崎明はやっぱりおかしい。
さっきの出来事が全く思い出せない。
どうして泣いたのかも、なぜ床に座り込んでいたのかも、拓海がいつ部屋に入ってきたのかも、全然分からない――
でも、バッグはソファの上。ソファの前には拓海が立ちふさがっている。
真希は拓海を避けてバッグを取ろうとした。
その手首を、拓海が強く掴んだ。
冷たい目で、氷のような声が落ちる。
「離婚したばかりで、もう次の相手でも探してるのか?」
信じられずに真希は拓海を見上げた。何を言っているの、この人は? 侮辱したいの?
自分が誰かを探している、なんてどこをどう見て思ったのか。
たとえ本当だとしても、拓海には関係ない。彼が何様なの、どうして私の人生に口出しできるの?
真希は力いっぱい手を振りほどき、嫌悪を隠さず拓海を見つめた。
「あなたに口出しする権利なんてない!」
「どうやら、お仕置きが必要なようだな。」
どんなに落ち込んでいても、彼の根っこの独善的な性格は隠しきれない。
拓海は真希の腕を引っ張り、そのまま外へ連れて行こうとした。
その時、後ろから手が伸びて、真希の腕を掴んだ。
宮崎明が、微笑みを浮かべながら拓海に言う。
「黒澤さんとの話は、まだ終わっていませんよ。」
拓海の瞳には嵐が渦巻いているが、宮崎明など眼中にない様子で、真希の手首をさらに強く握りしめた。鋭い痛みが走る。
思わず真希はもがいたが、その様子はまるで拓海に「自分は宮崎明と一緒にいる」と伝えているようだった。
拓海が一歩ずつ真希に近づく。
「やっぱり、お前は手を焼かせるな。」
突然、痛みの記憶が一気に蘇る。
だめ、もう彼に傷つけられたくない、二度と殴られたくない!
体が震え、必死に首を振る。
「もう私を傷つけないで! あなたと一緒に行かない、絶対に!」
悲痛な叫びを上げた直後、強い精神的ショックで神経が刺激され、視界が真っ暗になり、そのまま前に倒れ込んだ。
「狂ってる!」
「どけ!」
二人の声が同時に響き、同時に真希に手を伸ばした。
しかし拓海の方が一瞬早く、真希を抱き上げ、宮崎明に蹴りを入れた。
宮崎明は素早く後ろへ引き、難なく避ける。
その身のこなしから見ても、只者ではないことがうかがえる。
二人は睨み合い、牽制しあう。
拓海は冷たい顔のまま、真希と宮崎明の間に何もなかったことをすぐに気付いた。もし違っていたら、宮崎明を殴っただけでは済まなかった。きっと徹底的に痛めつけただろう。
だが、なぜ自分がそこまで真希のことを気にしてしまうのかは、深く考えようとはしなかった。
「彼女に近づくな。」
拓海は真希を抱えたまま部屋を出ていく。
扉近くまで来た時、宮崎明が低い声で忠告した。
「従兄として忠告する。自分の気持ちを早く見極めろ。すべてを失ってからじゃ遅いぞ。」
宮崎明は薬指の指輪を指でいじり、ふと複雑な表情を見せた。
拓海は鼻で笑う。
「俺はお前じゃない。」
宮崎明は拓海の背中を見つめ、その腕に抱かれた女性の姿をちらりと目にし、口元をゆるめる。
「お前、彼女のことが好きなんだろ。」
拓海は眉をひそめ、腕の中で意識を失っている真希を見下ろす。
好きだって? そんなはずはない。ただ、かつて夫婦だったから、宮崎明のような腹黒い男に傷つけられて欲しくないだけだ。
部屋を出る直前、宮崎明の言葉が背中に届く。
「もう彼女を傷つけるな……」
拓海は一瞬立ち止まったが、すぐに気を取り直してエレベーターへ向かった。
廊下には、拓海や宮崎明を待つ人が大勢いた。
拓海が女性を抱えて出てきたのを見て、みんな目を丸くする。
拓海が女を抱えてる? 見間違いじゃないか?
いや、あんなに長い髪……まさか女装した男じゃないよな?
拓海の親友たちが近づいて様子を見ようとしたが、近付く前に拓海は真希を抱いたままエレベーターに消えてしまった。
「なあなあ、今の見た? 拓海の腕の中、女だったよな?」
「たぶん、いや、きっと女だよ。」
ますますみんなの好奇心が膨らむ。
真希が亡くなって以来、拓海の周りには女性の姿が全くなかった。小雪さえも現れていない。
以前、ある令嬢が拓海に近づこうとしたが、部下に追い出されてしまった。
宮崎明が出てくると、みんなが一斉に質問責めにする。
「明さん、さっき拓海が女の人を抱えてたけど、誰なの?」
宮崎明は周囲の好奇心に満ちた顔を一通り見回したが、結局、真希の名前は口にしなかった。
みんなの疑問はさらに深まる。
拓海は真希を抱いて階下に降り、エレベーターを出たところで、誰かが慌てて駆け寄ってきた。
「拓海!」
誰かも分からないうちに、首に腕を回され、顔に柔らかい感触が残る。
思わず手で払いのけようとしたが、まだ真希を抱えているのをすっかり忘れてた。
その衝撃で、真希は目を覚ました。
真希は床の上に横たわり、目の前には高いヒールが見えた。
頭を押さえながらゆっくりと起き上がると、二つの驚いた視線がぶつかった。
一人は拓海、もう一人は……木村凛?
木村凛が拓海の首に腕を絡めている。拓海の頬には鮮やかな赤いリップの跡がつき、その色は凛の口紅と同じだった。
真希はそれを一目見てすぐに目をそらし、周囲の視線も気にせず、ゆっくりと外へ向かって歩き出した。
「待ちなさい!」
呼び止めたのは拓海ではなく、木村凛だった。
凛は拓海の腕にしっかりとつかまりながら、真希に向かって宣言する。
「私たち、もうすぐ結婚するの。これからは拓海に近づかないで。」
結婚……?
拓海が、木村凛と?
拓海は凛の手を振りほどこうとしたが、真希が驚いた顔をしているのを見て、その動きを止めた。
あの無関心で感情のない真希より、こうして驚いた表情を見せる方が、ずっと好きだった。
自分のために……
でも真希の驚きは、拓海のためじゃない。
まさか、拓海が結婚する相手が木村凛だなんて。
木村凛は小雪の親友で、拓海が小雪を大事にしていたところもよく知っている。
拓海の気持ちが自分にないと分かっていながら、それでも親友の男を奪うなんて――
本当に、気持ち悪い。
拓海も、木村凛も。
「お似合いですよ。どうぞ、お幸せに。」
木村凛はその答えに不満そうだった。
真希がどうしてこんなに落ち着いていられるのか。どうして何も感じていないような顔をしていられるのか。
せっかく真希の男を手に入れたのに、本当は嫉妬して怒って欲しいのに!
「拓海、聞いたでしょ? 彼女、前に私のこと悪く言ったのよ。何とかしてよ!」
二人の視線が同時に拓海に向けられる。
一方は頼り切った目で、もう一方は冷たい目で。
まただ。まるで自分の存在など空気みたいに扱われている気がする。
「聞いたよ。お兄さん、今度デザイン会社を立ち上げるんだって?」
真希は瞬時に緊張した。
長年、拓海と一緒にいて、彼のことはよく分かっている。
特に別れる前の数ヶ月、拓海がどんな人間か、痛いほど思い知った。彼は決して仏のような人間じゃない。復讐心が強く、敵に回したら絶対に許さないタイプだ。
今、兄の会社の話を持ち出してきたのは、また自分を脅そうとしているのだろう。
真希は拓海に付け入る隙を与えたくなくて、即座に答えた。
「ごめんなさい。」
その潔さに、木村凛も思わず感心してしまった。