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第75話

「こっちに来い。」


真希は首を横に振り、体を支えながら立ち上がった。

全身の力が抜けて、まるで長距離を走り終えた後のように、ぐったりとしている。


今はとにかく、ここから離れたい。宮崎明はやっぱりおかしい。

さっきの出来事が全く思い出せない。

どうして泣いたのかも、なぜ床に座り込んでいたのかも、拓海がいつ部屋に入ってきたのかも、全然分からない――


でも、バッグはソファの上。ソファの前には拓海が立ちふさがっている。


真希は拓海を避けてバッグを取ろうとした。


その手首を、拓海が強く掴んだ。


冷たい目で、氷のような声が落ちる。

「離婚したばかりで、もう次の相手でも探してるのか?」


信じられずに真希は拓海を見上げた。何を言っているの、この人は? 侮辱したいの?


自分が誰かを探している、なんてどこをどう見て思ったのか。


たとえ本当だとしても、拓海には関係ない。彼が何様なの、どうして私の人生に口出しできるの?


真希は力いっぱい手を振りほどき、嫌悪を隠さず拓海を見つめた。

「あなたに口出しする権利なんてない!」


「どうやら、お仕置きが必要なようだな。」


どんなに落ち込んでいても、彼の根っこの独善的な性格は隠しきれない。


拓海は真希の腕を引っ張り、そのまま外へ連れて行こうとした。


その時、後ろから手が伸びて、真希の腕を掴んだ。


宮崎明が、微笑みを浮かべながら拓海に言う。

「黒澤さんとの話は、まだ終わっていませんよ。」


拓海の瞳には嵐が渦巻いているが、宮崎明など眼中にない様子で、真希の手首をさらに強く握りしめた。鋭い痛みが走る。


思わず真希はもがいたが、その様子はまるで拓海に「自分は宮崎明と一緒にいる」と伝えているようだった。


拓海が一歩ずつ真希に近づく。


「やっぱり、お前は手を焼かせるな。」


突然、痛みの記憶が一気に蘇る。


だめ、もう彼に傷つけられたくない、二度と殴られたくない!


体が震え、必死に首を振る。


「もう私を傷つけないで! あなたと一緒に行かない、絶対に!」


悲痛な叫びを上げた直後、強い精神的ショックで神経が刺激され、視界が真っ暗になり、そのまま前に倒れ込んだ。


「狂ってる!」


「どけ!」


二人の声が同時に響き、同時に真希に手を伸ばした。


しかし拓海の方が一瞬早く、真希を抱き上げ、宮崎明に蹴りを入れた。


宮崎明は素早く後ろへ引き、難なく避ける。

その身のこなしから見ても、只者ではないことがうかがえる。


二人は睨み合い、牽制しあう。


拓海は冷たい顔のまま、真希と宮崎明の間に何もなかったことをすぐに気付いた。もし違っていたら、宮崎明を殴っただけでは済まなかった。きっと徹底的に痛めつけただろう。


だが、なぜ自分がそこまで真希のことを気にしてしまうのかは、深く考えようとはしなかった。


「彼女に近づくな。」

拓海は真希を抱えたまま部屋を出ていく。


扉近くまで来た時、宮崎明が低い声で忠告した。


「従兄として忠告する。自分の気持ちを早く見極めろ。すべてを失ってからじゃ遅いぞ。」


宮崎明は薬指の指輪を指でいじり、ふと複雑な表情を見せた。


拓海は鼻で笑う。


「俺はお前じゃない。」


宮崎明は拓海の背中を見つめ、その腕に抱かれた女性の姿をちらりと目にし、口元をゆるめる。


「お前、彼女のことが好きなんだろ。」


拓海は眉をひそめ、腕の中で意識を失っている真希を見下ろす。


好きだって? そんなはずはない。ただ、かつて夫婦だったから、宮崎明のような腹黒い男に傷つけられて欲しくないだけだ。


部屋を出る直前、宮崎明の言葉が背中に届く。


「もう彼女を傷つけるな……」


拓海は一瞬立ち止まったが、すぐに気を取り直してエレベーターへ向かった。


廊下には、拓海や宮崎明を待つ人が大勢いた。


拓海が女性を抱えて出てきたのを見て、みんな目を丸くする。


拓海が女を抱えてる? 見間違いじゃないか?


いや、あんなに長い髪……まさか女装した男じゃないよな?


拓海の親友たちが近づいて様子を見ようとしたが、近付く前に拓海は真希を抱いたままエレベーターに消えてしまった。


「なあなあ、今の見た? 拓海の腕の中、女だったよな?」


「たぶん、いや、きっと女だよ。」


ますますみんなの好奇心が膨らむ。


真希が亡くなって以来、拓海の周りには女性の姿が全くなかった。小雪さえも現れていない。


以前、ある令嬢が拓海に近づこうとしたが、部下に追い出されてしまった。


宮崎明が出てくると、みんなが一斉に質問責めにする。


「明さん、さっき拓海が女の人を抱えてたけど、誰なの?」


宮崎明は周囲の好奇心に満ちた顔を一通り見回したが、結局、真希の名前は口にしなかった。


みんなの疑問はさらに深まる。


拓海は真希を抱いて階下に降り、エレベーターを出たところで、誰かが慌てて駆け寄ってきた。


「拓海!」


誰かも分からないうちに、首に腕を回され、顔に柔らかい感触が残る。


思わず手で払いのけようとしたが、まだ真希を抱えているのをすっかり忘れてた。


その衝撃で、真希は目を覚ました。


真希は床の上に横たわり、目の前には高いヒールが見えた。


頭を押さえながらゆっくりと起き上がると、二つの驚いた視線がぶつかった。


一人は拓海、もう一人は……木村凛?


木村凛が拓海の首に腕を絡めている。拓海の頬には鮮やかな赤いリップの跡がつき、その色は凛の口紅と同じだった。


真希はそれを一目見てすぐに目をそらし、周囲の視線も気にせず、ゆっくりと外へ向かって歩き出した。


「待ちなさい!」

呼び止めたのは拓海ではなく、木村凛だった。


凛は拓海の腕にしっかりとつかまりながら、真希に向かって宣言する。


「私たち、もうすぐ結婚するの。これからは拓海に近づかないで。」


結婚……?


拓海が、木村凛と?


拓海は凛の手を振りほどこうとしたが、真希が驚いた顔をしているのを見て、その動きを止めた。


あの無関心で感情のない真希より、こうして驚いた表情を見せる方が、ずっと好きだった。


自分のために……


でも真希の驚きは、拓海のためじゃない。


まさか、拓海が結婚する相手が木村凛だなんて。


木村凛は小雪の親友で、拓海が小雪を大事にしていたところもよく知っている。


拓海の気持ちが自分にないと分かっていながら、それでも親友の男を奪うなんて――


本当に、気持ち悪い。


拓海も、木村凛も。


「お似合いですよ。どうぞ、お幸せに。」


木村凛はその答えに不満そうだった。


真希がどうしてこんなに落ち着いていられるのか。どうして何も感じていないような顔をしていられるのか。


せっかく真希の男を手に入れたのに、本当は嫉妬して怒って欲しいのに!


「拓海、聞いたでしょ? 彼女、前に私のこと悪く言ったのよ。何とかしてよ!」


二人の視線が同時に拓海に向けられる。


一方は頼り切った目で、もう一方は冷たい目で。


まただ。まるで自分の存在など空気みたいに扱われている気がする。


「聞いたよ。お兄さん、今度デザイン会社を立ち上げるんだって?」


真希は瞬時に緊張した。


長年、拓海と一緒にいて、彼のことはよく分かっている。


特に別れる前の数ヶ月、拓海がどんな人間か、痛いほど思い知った。彼は決して仏のような人間じゃない。復讐心が強く、敵に回したら絶対に許さないタイプだ。


今、兄の会社の話を持ち出してきたのは、また自分を脅そうとしているのだろう。


真希は拓海に付け入る隙を与えたくなくて、即座に答えた。


「ごめんなさい。」


その潔さに、木村凛も思わず感心してしまった。

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