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第77話

あと一歩踏み出せば、真希の指先が郁のコートに触れられる距離。

しかし、郁はその場で止まったままだった。


どれだけ真希が近づこうとしても、その一歩がどうしても縮まらない。


彼の視線が真希を捉えていた。

そこには、彼女には読み取れない思案と探るような色が浮かんでいる。


真希はふと、彼についての噂を思い出した。


彼と一夜をともにした女性は多いが、二度と彼の傍に現れた者はいないという。

冷たく無情で、彼を怒らせた者は必ず報いを受けるとも。


結婚に興味がないとも―


様々な噂ばかりで、誰かを助けたという話など一度も聞いたことがなかった。


自分を日本まで連れ戻してくれたことだけでも、彼としては十分な情けなのかもしれない。


これ以上、彼に何かを求めてはいけないのだろう。


力なく手を下ろした真希。最後のプライドさえ、もう意味を持たない気がした。


拓海が自分を枯れかけ、最後にはバラバラにしようとしている――


全ては、自分が人を見る目を持たなかったせいだ。


空中で止まっていた手が落ちかけたその時、ひんやりした大きな手が彼女の手を包んだ。


骨ばった二人の手がしっかりと重なり合い、彼は真希の手も、落ちかけた心も支えてくれた。


いつの間にか手袋を外していた郁の手には、まだ冷たさが残っている。


彼は身をかがめて真希を抱き上げ、その大きな身体で彼女の頭上の忌々しいライトも、周囲の好奇の目もすべて遮った。


彼の腕の中、真希は守られ、外界から隔てられた。


彼の目に浮かぶ感情――それは、諦めにも似た複雑な色だった。


「まったく……」

不思議と、真希はその声に優しさを感じた。


彼女は少し泣きそうになり、郁のコートの襟を掴んで顔をうずめた。


ぽろぽろと涙をこぼしながら、嗚咽まじりに訴える。


「郁、みんなが私をいじめるの。もう辛いよ……」


真希は小さな猫のように郁の胸に身を寄せ、その手は彼の温もりを求めて離さなかった。


郁は真希の指を優しく叩き、まるで子供をあやすようにそっと宥める。


顔を上げたその眼差しは、冷たく鋭かった。


拓海は郁の胸に抱かれた真希を見て呆然としていた。


「君たち……」


郁はちらりと拓海を見て、何も言わずに真希を抱いたまま背中を向けた。

その背中は大きく、冷たく、そして誰も寄せ付けない。


郁が真希を抱えたまま歩き出すと、執事が傘を差して二人を風雪から守る。


冷たい風が吹き抜け、真希は郁の腕の中にさらに身体を寄せた。


郁はそのまま彼女を車に乗せ、真希は郁の膝の上で外を見上げた。


拓海がぼんやりと立ち尽くす姿が窓越しに見え、そばには険しい顔の木村凛がいた。


真希は視線を戻し、目を閉じる。心の中には絶望だけが残る。


その時、郁が毛布で真希を包み、不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「家で大人しくしてればいいのに、どうして出歩く?」


真希は力なく郁にもたれ、かすかに呟く。


「自分でなんとかしたかったの。他人ばかりに頼りたくなくて……生きていたいの。」


「若様」


執事が後部座席の窓を叩いて声をかける。


「宮崎様が、真希様の病状について所見があると。」


宮崎明だった。


今の真希は、拓海に関係ある人間には会いたくない。


「聞きたくない」


郁はすぐに窓を閉め、執事も助手席に乗り込む。


「出発して。」


車が走り出す。

宮崎明は雪の中で、車の灯りが遠ざかるのを見送った。


彼はうつむく拓海を見て、そっとため息をつく。

江藤家の男たちは、まるで何かの呪いにかかったように、みな恋に苦しめられる――


郁は真希を自宅には連れて帰らず、自分の持つ別荘へと向かった。


道中、真希は薬物の後遺症で朦朧とし、何度か目を覚ましたが、窓の外の景色がどこか見覚えがなく、自分がここにいる理由もよくわからなかった。


やがて郁に抱きかかえられて車を降り、柔らかいベッドに寝かされた。


誰かが顔や手に触れ、寄り添って何かを話している。

はっきり聞き取ろうとするが、真希は再び病の闇に引きずり込まれてしまった。


真希は夢を見た。重苦しい夢。


夢の中で、幼い少女が壁際で泣いている。

真希が呼びかけても、返事はない。


近づいて肩を叩くと、少女が突然振り返る。


真希は叫んだ。

少女の顔は血まみれで、目は空洞、顔にはガラスの破片が刺さっている。


慌てて逃げ出そうとすると、少女が叫びながら後を追ってきた。


「返して、返して!」


闇の中で走りながら、真希は叫ぶ。


「私は何も取ってない、追いかけないで!」


突然、堅い壁にぶつかった。見上げると、誰かの背中があった。


「誰?」


彼はこの世のものとは思えないほど美しく、神とも悪魔ともつかない、ただ人間らしさだけがない。


真希は眉をひそめ、不満げに彼を見上げた。


「高すぎる」

背が高いだけでなく、その雰囲気も近寄りがたくて――


彼は少し身を屈めて近づき、唇に微かな笑みを浮かべた。

その笑顔は二人の距離を一気に縮めた。


「真希、どうしてスカートをはかないの?」


真希は怒ったように言い返す。


「だって、悪い奴に汚されるから着たくない!」


「へぇ、その悪い奴って、誰?」


「郁……」


男は笑った。


「ここにいるよ。」


真希が目を覚ますと、白いカーテンが冬の冷たい陽射しを受けて、淡く光っていた。


周囲にはなじみづらい空気が漂い、清々しい木の香りの中に、どこか古風な趣が感じられる。

拓海と一緒にいた頃は、彼が朝晩必ず高価な沈香を焚いていたので、邸宅中が重厚な木の香りに包まれていた。


でも今感じるのは、雨上がりの木々のような、淡い香りだけ。


そして冷たい空気がしみわたり、部屋の冷たい色調と相まって、どこか郁に似た無機質さも感じる――


布団をめくると、元の服はどこかに消え、代わりに可愛らしいウサギがプリントされたロングナイトガウンを着ていた。


あまりにも子供っぽくて、真希は思わず顔をしかめる。


裸足でドアを開けると、外で待っていたメイドが優しく微笑んだ。


「真希様、お目覚めですね。」


真希は小さく頷く。


「ここは……市崎家?」


メイドはうなずく。


「はい、もう二日間も眠っていらっしゃいました。」


二日も寝ていたの――!?

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