真希は驚いた。
こんなに長く気を失ったのは初めて。
もしかして、体が危険信号を出しているのだろうか――。
いつの間にか執事が近づいてきて、手でメイドたちを下がらせると、真希の前に白いウサギのスリッパをそっと置いた。
「床が冷たいので、真希さん、スリッパをお履きください」
またウサギ……?
真希はスリッパを履いた。
そのスリッパは今着ているパジャマとお揃いのようで、つま先には歯を見せているウサギの顔、長い耳がもう少しで地面に届きそうだ。
市崎家のセンスって、みんなこんなに子どもっぽいの……?
彼女は唇を引き結び、不安な気持ちがウサギのスリッパのおかげで、少しだけ和らいだ気がした。
執事の佐藤は、真希を一瞥して、口元の笑みをこらえた。
「真希さん、体内の中毒症状はすでに抑制されています。二日間の昏睡は、体が自己修復していた過程ですので、ご心配なさらず」
「今、何て言ったの?私の中の毒……?」
佐藤は微笑みながら答えた。
「若様が真希さんを連れて帰った日、毒が爆発寸前でした。たまたま市崎家に特効薬があり、それを使わせていただきました」
言われていることは分かるのに、どうしてか内容が頭に入ってこない――。
佐藤は真希の困惑した様子を見て、さらに分かりやすく説明した。
「宮崎明の先生は、市崎家の海外医療研究所で薬物研究を専門にしている科学者です。真希さんの手術もその方が執刀しました」
「昏睡された日、ちょうど真希さんの体内の毒に効く特効薬が若様の手元に届き、若様がそれを使い、さらに我が家の伝統医療と組み合わせて、体内の毒を完全に抑え込むことができました。これからは、定期的に薬を服用し、市崎家の治療方針に従っていただければ、解毒剤が完成する日まで生きられることを保証します」
次々と入ってくる情報に、真希の頭は混乱するばかりだった。
ちょっと待って、整理しないと……。
彼女は死の淵にあり、佳穂と駆たちに密かに海外の医療研究所へ送られ、手術を受け、数年の命を繋いだ。
その後、兄が帰国し、駆が郁に協力を頼み、自分と佳穂を日本に連れ戻した。
自分は宮崎明を探し出し、助けを求めようとしたが、宮崎明の師匠が市崎家の海外研究所の科学者で、自分の手術も彼が担当していたことを知る。
つまり、手術を受けた研究所自体が市崎家のものなら、自分が海外に送られたことにも郁が関わっていたということ?それとも、全ての黒幕は郁なの?
駆や相良、佳穂も、結局はただの協力者に過ぎないのか――。
自分の推測に真希は震え、両手で口元を抑えた。
「佐藤さん、あの日、どうしてホテルに来たの?」
まさか……?
「その件は、若様に直接お聞きください」
佐藤は穏やかに微笑んだ。
そうだ、郁に確かめないと。
「郁はどこ?」
「若様は会社にいらっしゃいます」
「今から会いに行く!」
もう迷っていられない。彼に会って、全部聞き出さないと!
着替える暇も惜しみ、適当に車の鍵を一つ取り出し、広い駐車場でライトが点滅する車を探すと、深緑色のベントレーが目に入る。
色もブランドも、真希の好みにぴったりだ。
彼女は車に乗ってエンジンをかけ、市崎家の本社ビルへ向かった。
佐藤は真希が飛び出したのを見て、急いで郁に連絡を入れた。
郁は電話を受けて、目に微かに笑みを浮かべた。
「今日の会議はここまでだ」
そう言い残し、会議室の重役たちと共に立ち上がり、プライベートエレベーターで駐車場へ向かった。
真希をそこで待つつもりだ。
幹部たちは、最近の社長の変化ぶりにもう驚かなくなっていた。
会議の途中で抜けるどころか、このワーカホリックの“魔王”が数日も会社に顔を出さなかったのだ。
普段なら、海外出張の際は必ず秘書から部署に連絡があり、代理の担当者も決まっている。
だが、今回は数日も社長不在のまま、敏腕の秘書ですら何も把握していない様子。
やっと今日は姿を見せたと思えば、会議中も上の空で、口元に微笑みさえ浮かべている。
誰もが驚いていた――あの“魔王”が笑っているなんて。
どう考えてもいつもと違う。最近の社長は、何か変だ――。
郁は足取り軽く駐車場に入ると、ふと立ち止まった。
一瞬、何かを感じたが、すぐに表情を変えず、歩き続ける。
自分の車の前に着き、ドアノブに手をかけた瞬間、突然、誰かの影が飛び出してきた。
郁はすかさず反応し、振り向きざまにその人物の首を押さえ、ボンネットに押しつけた。
さっき駐車場に入ったときから、誰かに狙われている気配を感じていた。
市崎本社は、他の企業のように繁華街にあるわけではなく、少し外れたエリアに建っている。警備も一見手薄に見える。
だが、それこそが市崎家がここに拠点を置く理由だった。
ビルの周囲百メートル四方の建物はすべて市崎家の所有で、オフィスも住宅も、市崎家の信頼できる人間しか住んでいない。
このエリア全体が市崎家の警戒区域で、近づく者はすべて監視下に置かれる。
危険があれば即座に排除される。
この女が近づけたのも、そのためだ。
もし彼女が刺客なら、郁の前には現れないはずだ。
「死にたいのか」
女は両手を挙げて降参し、苦しそうに叫んだ。
「私、茜の友達よ」
茜?知らない名だ。
「出て行け」
郁は女を突き飛ばした。
女は転びそうになりながら、胸を押さえて息を整えた。
なんてこと、茜からは聞いてなかったけど、この人、こんなに怖いなんて!
でも、あの数千万の腕時計のためなら、やるしかない!
女は胸を張って、可愛らしく拗ねたふりをした。
「もう、冷たいわ、そんなに怖い顔しなくても」
郁は眉をひそめ、目には渦のような光がよぎった。
郁のことを知っている人なら、今の彼が相当不機嫌だと分かるだろう。
女は気づかず、郁が何も言わないのを好機だと思った。
腰をくねらせながら一歩一歩近づき、そのたびに身につけていた服を脱ぎ捨てていく。ここが公共の場で、いつ誰が来るかもお構いなしだ。
さっき、郁の腕に高級そうな時計が見えた。ブランドまでは分からなかったが、きっと相当な値段だろう。もし自分も手に入れられたら、一生贅沢して暮らせる!
興奮した女は黒いストッキングを脱いで指先でつまみ、ゆっくりと床に落とした。艶めかしい雰囲気が漂う。
ついにストッキングを投げ捨て、唇を噛んで郁に抱きつこうとした。
そのとき――郁が足を動かす。
駐車場の入り口から、クラクションの音が響いた。