明るいライトが郁と女を照らし出した。
突然の光に女は一瞬驚いたが、すぐに「これはチャンスだ」と思い直す。
悲鳴を上げて両腕を広げ、郁の胸に飛び込んできた。
真希は、裸同然のその女を見て、思わず強くブレーキを踏み込んだ。
どうやら、とんでもないタイミングで来てしまったようだ……。
今すぐ逃げれば間に合うかも、と思ったが、もう遅い。
郁は容赦なく女を蹴り飛ばし、真希の車に向かって歩き出す。
同時に、三石に電話をかけた。
「駐車場にいる女、二度と見たくない。」
車のドアを開けながら、最後の一言を口にした。
そのまま、真希の丸い目と目が合う。
まるで彼女のパジャマについている、まん丸なウサギの目みたいに、不思議と間が抜けている。
「早く、出して。」
真希は、郁に蹴り飛ばされた女のことが気になる。
あんなふうに放っておいていいの?と戸惑う。
「運転して。」
郁が短く告げる。
「ど、どこに?」
「家に帰る。」
「でも、あの女の人は……」
郁はゆっくりと真希を見た。
真希はすぐに背筋を伸ばし、車をバックさせて切り返し、慣れた手つきで発進した。
本当は聞きたいことが山ほどあったが、いざ郁がすぐ隣にいると、何から聞けばいいのかわからない。
二人とも黙り込んでしまい、車内は重苦しいほど静かだった。
真希はこの空気を和らげようと、オーディオのスイッチを入れる。
すると、流れてきたのは聞き覚えのある会話。
「ねえねえ、郁、真希が死んだって。」
「子供の頃から真希ちゃんをいじめてたのに、真希ちゃんがいなくなったら、誰をいじめるの?」
駆と相良の掛け合いだった。二人の声が交互に車内に響く。
シートにもたれ目を閉じていた郁が、ゆっくりと目を開けた。
真希は慌てて音声を止めようとするが、焦れば焦るほど操作がうまくいかない。
そんな中で、郁の低く冷たい声がスピーカーから流れてきた。
「ふん、助けてほしいなら素直に言えばいい。ちょうど海外の医療ラボで被験者が足りないし、真希がぴったりだろ。」
カチッ。
音声がピタリと止まる。
ようやく真希は停止ボタンを押せた。そして、心の中で引っかかっていた疑問の答えもわかった。
郁は確かに自分を助けてくれた。でも、それは想像していたような理由ではなく、ただの実験材料としてだったのだ。
答えを得たものの、全然嬉しくない。
それでも、郁には一言お礼を言うべきだと思った。
「助けてくれて、ありがとう。」
郁はちらりと真希を見て、スマホを取り出した。
いつの間にか、駆と相良とのグループチャット画面が開いたままだった。
今の音声は、そこにあった動画の一部だったらしい。さっき電話したとき、間違えて再生してしまったようだ。
郁は動画を消し、椅子に体を預けて深く息をついた。
「口だけのお礼なんて、誠意が足りないな。」
前に郁に一つ約束をした覚えがある。まさか、また何か要求されるのだろうか?それはちょっと怖い……。
「じゃあ、ご飯作るよ」
真希はしばらく考えて提案した。
「料理、できるの?」
「少しは。」
「いいだろう。」
そのまま市崎家へ戻る。
郁が先に降りて玄関に向かう。真希も車を停めて、ゆっくりあとを追う。
一歩踏み出した瞬間、足元から妙な鳴き声が聞こえた。
びっくりして足元を見ると、ウサギのスリッパについている長い耳がピンと立っている。動く耳……?
恐る恐るもう一歩前へ出る。
「キュッ!」
耳が立ち、ウサギの声もする。
足を上げるたび、「キュッ!」。
歩くと「キュッキュッ!」。
真希は呆然とスリッパのウサギ耳と鳴き声を見つめる。
まさか冷たく厳格な市崎家にこんな子供っぽいものがあるなんて……。
誰がこんなものを用意したのだろう?
郁から答えを得ようと顔を見ると、彼はスマホをポケットにしまいながら、目元に隠しきれない笑みを浮かべていた。
「お腹空いた。早くしてくれ。」
そう言って、郁はそのまま階段を上がっていった。
一人残された真希は、「まあ誰も見てないし、恥ずかしくないよね」と心の中で思いながら、もう一歩踏み出す。
「キュッ。」
耳がまた跳ねる。なんだか楽しくなって、どんどん歩くうちに、ウサギの鳴き声もどんどん賑やかになった。自然と顔にも笑みが浮かぶ。
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佐藤が丁寧に尋ねた。
「若様、今晩は何を召し上がりますか?」
郁はソファにスマホを伏せて置いた。
「今夜は真希が作る。キッチンには君たちの分だけ用意しておけ。」
佐藤は驚きを隠せない。
真希さんが郁様のために料理をするなんて……。
すぐに使用人たちを下がらせ、二人きりの空間を整えた。
真希が中に入ると、普段は忙しくしている家の中がしんと静まり返っている。
郁はソファで一人、黒いシャツの袖を無造作にまくり上げ、たくましい腕を見せながら、額に手を当てて少し疲れた様子だった。
ウサギのスリッパにも慣れてきた真希は、「キュッキュッ」と音を鳴らしながら郁に近づく。
郁がちらりと顔を向ける。そのシャープな輪郭に、思わず見とれてしまう。
郁の視線に気づくと、真希は足早にキッチンへ。
「今すぐ作るから!」
スリッパの音がリズミカルに響き、真希はキッチンへ。
冷蔵庫を開けると、高級な食材がずらりと並ぶ。しばらく探して、ようやく二つのトマトと一袋の麺を見つけた。
ホッと胸をなでおろす。
市崎家にも庶民的な食材があってよかった。
高級なロブスターや黒アワビなんて絶対に調理できない。
鍋に湯を沸かし、手際よくトマトと卵の麺を作り始める。
トマトと卵の炒め物を作りながら、同時に麺も茹でる。
広いキッチンに湯気が立ち込め、トマトと卵の香りがふんわりと漂う。
気分が良くなり、思わず軽やかなメロディを口ずさむ。
足元のウサギスリッパも、まるでリズムに合わせて鳴いているようだ。
郁がキッチンのドア枠にもたれ、髪をまとめてリラックスした部屋着姿で動く真希を柔らかな目で見つめていた。
「できたよ!」
二人分の麺が完成。
真希はお宝でも抱えるように丼を運び、郁はすでにテーブルで待っていた。
彼の前に麺を置き、自分も隣に腰掛ける。
「食べてみて、口に合うかどうか」
郁は碗の中の、赤や黄や白が混ざった素朴な料理を見つめる。
正直、こんな粗末な料理は食べたことがない。
箸で麺をひと口すくい、上品に口に運ぶ。
さっぱりとした酸味と柔らかな食感。意外と悪くない。
「まあ、悪くないな。」
言いながら、もう一口食べた。
真希は、郁が褒めてくれるとは思っていなかった。
とりあえずお礼は果たしたし、これで借りは返した。