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第80話


彼女は碗を抱えて、夢中で麺をすすっていた。


郁はちらりと目を上げて、軽く舌打ちした。

もともと郁はそれほど空腹ではなかったが、彼女が隣で幸せそうに食べているのを見ていると、まるで高級なご馳走でも食べているかのようだった。


その様子に思わずつられて、気づけば自分の碗もすっかり空になっていた。


「今夜、俺と一緒にパーティーに出てもらう。」


そう言って、郁は優雅に口元を拭った。


真希は顔を上げる。


痩せているせいか、大きな瞳がいっそう印象的だった。


「でも、何の準備もしていない。」


郁は箸を置いた。


「何も準備はいらない。待っていればいい。」


そう言って、郁は立ち上がり階段へ向かう。


「でも……もう何日も家に帰ってないの。」


何日も連絡せずにいたから、きっと兄が心配しているはずだ。


郁の足が止まる。「北文なら、家にいないよ。」


兄は出張なの?


部屋を片付けた真希は、冷たい色調の部屋で黒崎北文とのメッセージを開いた。


二日前、兄からメッセージが届いていた。


「ここ数日出張だから、家でちゃんと過ごしなさい。」


その下には、短く「分かった」とだけ返信がある。


これはきっと自分で返信したものじゃない。

郁が代わりに送ったのだろう。


自分が寝ている間に、彼が指紋でスマホを開けて返事したのだ。



真希は兄に電話をかけた。

しばらくして、ようやく繋がる。


「お兄ちゃん、どこにいるの?」


「真希、今は海城にいるんだ。ちょっと用事があってな……」


声からして、かなり疲れているようだ。


海城。


黒澤家は海城にも取引先があり、兄は商談に行ったのだろうか。

何かトラブルでもあったのか?


「お兄ちゃん、私にできることがあれば言って?」


「大丈夫……」

北文は何かと言い訳を探しているようだったが、その時、背後から女性の優しい声が聞こえてきた。


「北文!」


女の人? しかも、ずいぶん親しげな呼び方じゃない?


もしかして、兄はこっそり恋人でもできたの?


兄は若手の中でも評判が良く、両親も「好きな人ができたら、早く結婚した方がいい」と勧めていた。

でも兄は「まだ結婚するつもりはない」とずっと言い続けていて、もう二十七歳なのに、ついこの間も結婚話で両親が困っていた。


それなのに、まさか隠れて付き合っている人がいたなんて。


今回、帰国したのもその女性が関係しているのかもしれない。


お兄ちゃんの好きな人、どんな人なんだろう?


「お兄ちゃん、正直に言って……」


「真希……」

北文は声を抑えて、誰かに聞かれないようにしているみたいだった。


「こっちはまだ用事があるから、またな。」


「え、ちょっと!」


呼び止めたが、北文はすぐに電話を切ってしまった。


もう……帰ってきたら、ちゃんと聞き出してやるんだから!


そう思っていた矢先、扉がノックされた。


真希は急いでドアを開け、そして呆気に取られた。


ドアの向こうには大勢の人が立っており、正面にはカラフルなシャツを着た男が手を振っている。

彼は真希の格好に目を見張った。


え? ウサギのパジャマ? ウサギのスリッパ? Oh my god!


こんな美しいのに、なんてダサい格好を……!


「エヴァ、エルソン、セリナ!」


男は叫んだ。


「急いで、真希さんからその服を脱がせて!」


すると三人の女性が現れ、真希の両腕を取って部屋へと連れていく。


最後に残った女性は、ドアを閉める前に男へ向かって言った。


「ご安心ください、ディレクター。必ず本来の真希さんに戻してみせます!」


バタン。


ドアが閉まり、すぐに部屋の中から真希の声が聞こえてきた。


「何するの? やめて、自分でできるから、放して、きゃっ!」


隣の部屋、郁の主寝室。


彼はソファに座り、数人の男性スタッフが彼の周りでサイズを測ったり、衣装の調整をしていた。


防音がしっかりしているから、隣の真希の叫びは聞こえなかったものの、ディレクターの声は聞き取れた。


郁は指を曲げて合図し、執事の佐藤が耳を寄せる。


郁の指示を聞き終えると、佐藤は頷いて部屋を出て、あの花柄シャツのディレクターのもとへ向かった。


「ジャック、若様からのお言葉です。」


ジャックはすぐにお追従笑いを浮かべ、丁寧に耳を傾ける。


だが、話を聞くうちに表情がこわばっていく。


市崎家のこのお方は、何か特別な趣味でもお持ちなのか? 

あんな子供じみたウサギのパジャマとスリッパを、真希さんに取っておくなんて。


こんな妖精のような美貌には、もっとエレガントな衣装を着せてほしいのに!


ファッションと美への冒涜だ……

反論したい気持ちは山々だが、彼のやり方と提示された報酬を考えると――


まあ、いいか。


お客様は神様。神様の言うことには逆らえない!


三十分後。


真希の部屋のドアが再び開いた。


ジャックが先頭に立ち、数十人のスタッフを指揮する。


「ハンガーを持ってきて、まず真希さんにドレスを選んでもらって。靴は間違えないで、美容担当は、ドレスが決まったらすぐにケアを始めて。メイクとヘアはその後!」


矢継ぎ早の指示に、廊下のスタッフが次々動き出す。


真希はバスローブ姿でソファに座り、濡れた長い髪が背もたれにかかっている。


スタッフが二列にドレスを並べて持ってきた。


「真希さん、今夜のパーティー用に選んだドレスです」


ジャックが一着ずつ説明する。


「こちらはフランスのデザイナーが四日前に発表した新作、ドナウの恋。」


ジャックはそのドレスを真希の前に差し出した。


シルバーのバックレスロングドレス。キラキラ光るダイヤモンドが飾られ、まるで水面に反射した陽の光のようだ。


でも、真冬に着るには寒そうだし、自分の体には……


真希は高級ドレスの列から一着を指さした。


「それがいい。」


ジャックはそれを手に取り、感心したように頷いた。


「真希さん、お目が高いです。」


「これは国内の引退した名工が、四年ぶりに自ら裁断して仕立てたドレスです。」


真希は控えめな白いドレスをそっと撫でた。ドレスには同系色の糸で模様が刺繍されており、普段は目立たないが、ライトの下でだけほんのり浮かび上がる。


裾は足元でさりげなく分かれていて、パールのケープとレースの手袋がセットになっていた。


合わせる靴はシンプルな白いヒール。極限まで上品さを追求したコーディネートだった。


「これにします。」


そう言って、真希は目を閉じ、スタッフたちの手に身を任せた。


サイズを測る者、ヘアスタイリングをする者、それぞれが手際よく準備を始めた。



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