彼女は碗を抱えて、夢中で麺をすすっていた。
郁はちらりと目を上げて、軽く舌打ちした。
もともと郁はそれほど空腹ではなかったが、彼女が隣で幸せそうに食べているのを見ていると、まるで高級なご馳走でも食べているかのようだった。
その様子に思わずつられて、気づけば自分の碗もすっかり空になっていた。
「今夜、俺と一緒にパーティーに出てもらう。」
そう言って、郁は優雅に口元を拭った。
真希は顔を上げる。
痩せているせいか、大きな瞳がいっそう印象的だった。
「でも、何の準備もしていない。」
郁は箸を置いた。
「何も準備はいらない。待っていればいい。」
そう言って、郁は立ち上がり階段へ向かう。
「でも……もう何日も家に帰ってないの。」
何日も連絡せずにいたから、きっと兄が心配しているはずだ。
郁の足が止まる。「北文なら、家にいないよ。」
兄は出張なの?
部屋を片付けた真希は、冷たい色調の部屋で黒崎北文とのメッセージを開いた。
二日前、兄からメッセージが届いていた。
「ここ数日出張だから、家でちゃんと過ごしなさい。」
その下には、短く「分かった」とだけ返信がある。
これはきっと自分で返信したものじゃない。
郁が代わりに送ったのだろう。
自分が寝ている間に、彼が指紋でスマホを開けて返事したのだ。
真希は兄に電話をかけた。
しばらくして、ようやく繋がる。
「お兄ちゃん、どこにいるの?」
「真希、今は海城にいるんだ。ちょっと用事があってな……」
声からして、かなり疲れているようだ。
海城。
黒澤家は海城にも取引先があり、兄は商談に行ったのだろうか。
何かトラブルでもあったのか?
「お兄ちゃん、私にできることがあれば言って?」
「大丈夫……」
北文は何かと言い訳を探しているようだったが、その時、背後から女性の優しい声が聞こえてきた。
「北文!」
女の人? しかも、ずいぶん親しげな呼び方じゃない?
もしかして、兄はこっそり恋人でもできたの?
兄は若手の中でも評判が良く、両親も「好きな人ができたら、早く結婚した方がいい」と勧めていた。
でも兄は「まだ結婚するつもりはない」とずっと言い続けていて、もう二十七歳なのに、ついこの間も結婚話で両親が困っていた。
それなのに、まさか隠れて付き合っている人がいたなんて。
今回、帰国したのもその女性が関係しているのかもしれない。
お兄ちゃんの好きな人、どんな人なんだろう?
「お兄ちゃん、正直に言って……」
「真希……」
北文は声を抑えて、誰かに聞かれないようにしているみたいだった。
「こっちはまだ用事があるから、またな。」
「え、ちょっと!」
呼び止めたが、北文はすぐに電話を切ってしまった。
もう……帰ってきたら、ちゃんと聞き出してやるんだから!
そう思っていた矢先、扉がノックされた。
真希は急いでドアを開け、そして呆気に取られた。
ドアの向こうには大勢の人が立っており、正面にはカラフルなシャツを着た男が手を振っている。
彼は真希の格好に目を見張った。
え? ウサギのパジャマ? ウサギのスリッパ? Oh my god!
こんな美しいのに、なんてダサい格好を……!
「エヴァ、エルソン、セリナ!」
男は叫んだ。
「急いで、真希さんからその服を脱がせて!」
すると三人の女性が現れ、真希の両腕を取って部屋へと連れていく。
最後に残った女性は、ドアを閉める前に男へ向かって言った。
「ご安心ください、ディレクター。必ず本来の真希さんに戻してみせます!」
バタン。
ドアが閉まり、すぐに部屋の中から真希の声が聞こえてきた。
「何するの? やめて、自分でできるから、放して、きゃっ!」
隣の部屋、郁の主寝室。
彼はソファに座り、数人の男性スタッフが彼の周りでサイズを測ったり、衣装の調整をしていた。
防音がしっかりしているから、隣の真希の叫びは聞こえなかったものの、ディレクターの声は聞き取れた。
郁は指を曲げて合図し、執事の佐藤が耳を寄せる。
郁の指示を聞き終えると、佐藤は頷いて部屋を出て、あの花柄シャツのディレクターのもとへ向かった。
「ジャック、若様からのお言葉です。」
ジャックはすぐにお追従笑いを浮かべ、丁寧に耳を傾ける。
だが、話を聞くうちに表情がこわばっていく。
市崎家のこのお方は、何か特別な趣味でもお持ちなのか?
あんな子供じみたウサギのパジャマとスリッパを、真希さんに取っておくなんて。
こんな妖精のような美貌には、もっとエレガントな衣装を着せてほしいのに!
ファッションと美への冒涜だ……
反論したい気持ちは山々だが、彼のやり方と提示された報酬を考えると――
まあ、いいか。
お客様は神様。神様の言うことには逆らえない!
三十分後。
真希の部屋のドアが再び開いた。
ジャックが先頭に立ち、数十人のスタッフを指揮する。
「ハンガーを持ってきて、まず真希さんにドレスを選んでもらって。靴は間違えないで、美容担当は、ドレスが決まったらすぐにケアを始めて。メイクとヘアはその後!」
矢継ぎ早の指示に、廊下のスタッフが次々動き出す。
真希はバスローブ姿でソファに座り、濡れた長い髪が背もたれにかかっている。
スタッフが二列にドレスを並べて持ってきた。
「真希さん、今夜のパーティー用に選んだドレスです」
ジャックが一着ずつ説明する。
「こちらはフランスのデザイナーが四日前に発表した新作、ドナウの恋。」
ジャックはそのドレスを真希の前に差し出した。
シルバーのバックレスロングドレス。キラキラ光るダイヤモンドが飾られ、まるで水面に反射した陽の光のようだ。
でも、真冬に着るには寒そうだし、自分の体には……
真希は高級ドレスの列から一着を指さした。
「それがいい。」
ジャックはそれを手に取り、感心したように頷いた。
「真希さん、お目が高いです。」
「これは国内の引退した名工が、四年ぶりに自ら裁断して仕立てたドレスです。」
真希は控えめな白いドレスをそっと撫でた。ドレスには同系色の糸で模様が刺繍されており、普段は目立たないが、ライトの下でだけほんのり浮かび上がる。
裾は足元でさりげなく分かれていて、パールのケープとレースの手袋がセットになっていた。
合わせる靴はシンプルな白いヒール。極限まで上品さを追求したコーディネートだった。
「これにします。」
そう言って、真希は目を閉じ、スタッフたちの手に身を任せた。
サイズを測る者、ヘアスタイリングをする者、それぞれが手際よく準備を始めた。