魔法都市エルドリアの裏路地。煌びやかな大通りから一歩足を踏み入れれば、時間の流れが止まったかのような古びた建物がひしめく一角があった。その中でもひときわ異彩を放つのが、蔦に覆われ、まるで廃墟寸前のような洋館だ。しかし、この薄汚れた外見とは裏腹に、その内部では新たな時代を拓く奇妙な科学の息吹が蠢いていた。
洋館の奥、雑然としながらもどこか愛らしいその部屋こそ、アメリア・フォン・アスタータの工房だった。そこかしこに散らばる歯車、ガラス管、得体の知れない金属片。天井からは未完成の「浮遊装置」が危なっかしくぶら下がり、壁には難解な数式と精緻な設計図がびっしりと貼られている。
工房の中央に置かれた巨大な作業台では、大量の部品に囲まれ、金髪をラフに一つに束ねた女性が、何かの装置に熱心にドライバーを走らせていた。
彼女の琥珀色の瞳は、複雑な機構を覗き込むたびに知的な光を宿し光を反射してキラキラと輝く。彼女のフリル付きのブラウスは、様々な色のインクや油染みがついた白衣に覆われている。これは彼女が今より少しだけ若い頃、研究に没頭しすぎて服を汚しまくったのを見かねた助手がプレゼントしてくれたものだ。その助手も今では辞めてしまったのだが。
「よし、これで完璧ね!」
アメリアは満足げに工具を置き、隣に置かれた、煙を上げている試作中の「自動掃除機」をちらりと見た。どうやらまだ改良の余地があるようだ。その時、工房の重厚な扉が控えめに「コンコン」とノックされた。
「どうぞ」
アメリアは顔を上げず、手元の機械いじりを止めずに答えた。ギィ、と音を立てて扉が開き、おどおどした様子で一人の少女が足を踏み入れた。魔法省の真新しいローブは、彼女の体には少し大きく、どこか借り物のように見える。襟元に施された控えめな花の刺繍だけが、彼女のひそやかな可愛らしさを主張していた。
「あ、あの、今日からお世話になります、ルナ・シルバーンです……」
蚊の鳴くような声で自己紹介した少女、ルナは、工房の異様な光景に圧倒されていた。見たこともない奇抜な装置の数々、煙を上げたり火花を散らしたりする機械の音、そして薬品の鼻を突く匂い。
彼女は思わず後ずさり、咳き込みそうになるのを必死に堪えた。アメリアはちらりと彼女に視線を送り、「ああ、あなたが」とだけ言って、再び手元の作業に戻る。ルナは居場所がなくなり、あたふたとするしかなかった。
「え。あの……アメリア様は、普段からこのようなものを……?」
ルナは、かろうじて声を絞り出した。彼女は生まれつき魔力が弱く、魔法学院でも落ちこぼれ扱いされてきた。だからこそ、魔法省では日々の雑務をこなす日々だったが、まさかこんな奇妙な工房に派遣されるとは夢にも思わなかった。
アメリアは作業の手を止め、ようやくルナの方に体を向けた。
「ええ、そうよ。これは私の研究。魔法では解決できない、世界の新たな理を解き明かすための大切な実験よ」
そう言った彼女の瞳には、揺るぎない探求心が宿っている。
アメリア・フォン・アスタータ。 かつて魔法都市エルドリアで名門と謳われたアスタータ伯爵家の令嬢だったが、彼女の運命は幼少期に突如として訪れた悲劇によって大きく変わった。
父親である伯爵が、研究中の「魔法の歪み」に関する実験中に謎の事故で他界したのだ。残されたのは、邸宅と膨大な蔵書、そして父が秘密裏に遺した、魔法とは全く異なる「科学技術」に関する不可解なメモだった。
魔法の才能が平凡だったアメリアは、この父のメモに強い興味を抱き、独学で物理学、機械工学、化学といった「科学」の知識を貪欲に吸収していった。周囲からは「魔力を持たない奇人」「科学などという異端に傾倒した変わり者」と揶揄され、完全に孤立していったが、アメリアにとって周囲の評価など取るに足らないことだった。彼女の知的好奇心と探求心は飽くことを知らず、来る日も来る日も工房にこもり、実験と研究に没頭していたのだ。
しかし、魔法省は没落貴族とはいえ、名門の伯爵家の令嬢の彼女を完全に排除することはできなかった。アメリアが開発する奇妙な機械の中には、魔法では解決できないような特定の課題に対し、ごく稀に驚くべき効果を発揮するものがあったからだ。
アメリアが開発する奇妙な機械の中には、魔法では解決できないような特定の課題に対し、ごく稀に驚くべき効果を発揮するものがあったからだ。
例えば、魔力感知が及ばない領域での索敵装置や、特定の魔力を中和する物質の開発など、彼女の異端な研究は時に魔法省の困り事を解決することがあった。
そのため、魔法省は彼女を「厄介者」と見なしつつも、そのごく稀な実用的な成果を無視できないでいた。彼女の存在は、魔法省にとって必要悪のようなものだったのだ。
そしてルナ・シルバーンは、魔法都市エルドリアのごく一般的な家庭に生まれ育った。彼女の家族は代々、魔法省の末端で事務仕事を行う家系で、特別強力な魔力を持つ者はいないものの安定した暮らしを送っていた。ルナもまた、ごく普通の女の子として幼い頃から魔法学院に通い、基礎的な魔法を学んでいた。
しかし、ルナには生まれつき、他の生徒と比べて魔力が極端に弱いという大きなハンディキャップがあった。どんなに努力しても強力な魔法を発動させることは叶わず、同級生からは「半人前」「落ちこぼれ」と陰口を叩かれることも少なくなかった。
学院の教師たちも、彼女の将来を悲観し、魔法省のどこか事務的な部署に配属されるだろうと半ば諦めていた。
自信のなさから、ルナはいつもおどおどしており、人前に出るのも苦手だった。争いを好まず、誰に対しても優しく接する彼女の性格は、魔力が全てとされる魔法社会ではむしろ弱点と見なされることが多かったのだ。
しかし、そんな彼女の中にも密かに抱き続ける強い願望があった。「いつか、誰かの役に立ちたい」。どんなに小さなことでもいいから、自分にできることで、誰かを助けたいと願っていた。
魔法学院を卒業後、やはり彼女は魔力の弱さから重要な任務には就けず、日々の雑務をこなす日々を送っていた。そんなある日、彼女に突然、アメリア・フォン・アスタータという奇妙な科学者の「助手」として派遣される辞令が下る。
この辞令は、魔法省が抱える「アメリアへの対応」という長年の課題から生じたものだった。アメリアは時に魔法省の要請に応え、時にその奇抜な研究で騒動を起こす。そのため、魔法省は彼女を監視し、かつ適度に協力させるための人員を必要としていた。
しかし、アメリアの奇人ぶりについていける者はおらず、次々と助手が辞めていくのが現状だった。そこで、魔力が弱く、融通が利きそうなルナを半ば厄介払いのように、この奇妙な工房に派遣することを決定したのだ。
ルナは、アメリアの放つ科学への熱意にたじろいだ。自分とは全く異なる世界に生きる人間だとこの瞬間に悟った。
その時、工房の隅に置かれた、アメリアが改造したらしい古い通信機がけたたましい音を立てて鳴り響いた。アメリアはひょいと受話器を取り上げる。
「はい。アメリアです」
《アスタータ嬢か?ガウスだ。緊急事態だ、すぐに魔法図書館に来てほしい。不可解な事件が起きた》
受話器の向こうから聞こえるのは、太く、そしてどこか焦りを含んだベテラン警察官、ガウス警部の声だった。アメリアの表情が、一瞬にして知的好奇心に満ちたものに変わる。
「不可解、ですって?……今すぐ行きますわ!」
アメリアは即答し受話器をガチャンと置いた。そして、ルナの方を振り返り「行くわよ」と一言。ルナは慌てて「は、はいっ!」と答えるとアメリアの後ろを小走りで追った。
魔法図書館は、エルドリアでも屈指の歴史を持つ、壮麗な建物だった。その外壁には複雑な魔法陣が刻まれ、建物の周囲には強力な結界が張られている。通常、この結界を破って侵入することは不可能とされている。
事件が起きたのは、図書館の最深部にある「禁書庫」。許可された者しか立ち入ることが許されない、厳重に管理された場所だ。今回盗まれたのは『古代魔術の系譜』という禁書。禁書庫の入口には、既に複数の魔法省の役人や警備兵が立ち物々しい雰囲気を醸し出していた。
アメリアとルナが到着すると、現場にはすでにガウス警部と、一人の若い男がいた。男は完璧なまでに整えられたローブを身につけ、切れ長の目に涼やかな顔立ち。その立ち姿は見る者に隙を与えない。彼こそ、若くして数々の難事件を解決し、その名を馳せる魔法省のエリート魔法探偵、セドリック・ノワールだった。
セドリックは自信に満ちた表情で、周囲の空間に手をかざし、魔力探知の術を使っている。そしてアメリアの姿を認めると、セドリックの表情に露骨な不快感が浮かんだ。
「ふん……まさか、魔力も使えないインチキ魔術師が来るのか。時間の無駄だ」
セドリックは静かに侮蔑の言葉を吐き捨てた。その視線は、アメリアをまるで汚れたものを見るかのようだった。ルナはセドリックの威圧感に縮こまり、思わずアメリアの後ろに隠れるように身を寄せた。
「セドリック君、彼女は魔法省からの正式な協力者だ。それに、今回の事件は少し特殊でな……」
とアメリアを擁護しようと口を開いた。しかし、アメリアはセドリックの言葉を意に介さず、ガウス警部の言葉にも耳を傾けることなく、事件現場である禁書庫の書棚に近づいていく。彼女の関心はただ目の前の謎に向かっていた。
「ここが……『古代魔術の系譜』があった場所ですか?」
アメリアは、空になった書棚の一角を指差した。そしてガウス警部が頷きながら話す
「ああ。夜間の巡回では確かにあったと図書館員が証言している。だが、朝になってみたら忽然と消えていた。図書館の魔法陣は一切破られていない。魔力の痕跡も、通常ならば強力な魔法使いが移動した際に残るようなものはほとんど検出されないんだ」
アメリアは、まるで骨董品を鑑定するかのように、書棚の空いた空間をじっと見つめる。そして、周囲で魔力探知の術を使っている魔法使いたちをちらりと見た後、自身の鞄からあるものを取り出した。それは、奇妙な形状をしたメガネだった。レンズ部分には、特殊な魔石と、アメリアの工房で精製された極微細な金属粒子が組み込まれているのが見て取れる。
「あのアメリア様、それは?」
「ん?これ?これは『魔力探知メガネ』よ」
彼女はゆっくりと、その「魔力探知メガネ」を装着した。メガネをかけると、彼女の琥珀色の瞳の奥で、レンズに埋め込まれた魔石が微かに光を放ち始めた。アメリアの視界は、通常の人間とは異なる光景を映し出す。
彼女の瞳に映ったのは、空間に微かに残る「電磁波」のような揺らぎだった。それは、まるで真夏の陽炎のように、あるいは歪んだ空気の層のように目に見えないエネルギーが揺らめいているように見えた。通常の魔法の残滓とは明らかに異なる、不規則な波動。
そして、その揺らぎの中に「一瞬」だけ鮮明に、それは浮かび上がった。
「光る眼」の残像。
それは、まるで奇妙な幾何学模様のようにも見えたし、あるいは全く未知の生物の瞳のようにも見えた。まばゆい光を放ち、アメリアの網膜に焼き付くような異常な光景だった。
アメリアは微動だにせず、その残像が消えるまでじっと見つめ続けた。セドリックが苛立ったように言った。
「一体、何をされている?そのような奇妙な道具で何が分かるというのだ。私には、微弱ながらも魔力の痕跡が見える。それは、熟練の魔法使いが痕跡を残さぬよう巧妙に消し去った、しかしこの私には見える完全に消し去ることはできなかった痕跡が、その証拠だ!」
ルナは、セドリックの言葉に身をすくめた。自分には魔力も自信もない。生まれつき魔力が弱く、魔法学院でも落ちこぼれ扱いされてきたルナは、いつか誰かの役に立ちたいと願っていたが、現実の厳しさに直面するばかりだった。
だからこそ、この魔法省での任務も、半ば厄介払いのようなものだと理解している。しかし、アメリアの瞳に宿る知的な光を見るたび、ルナの胸には、魔法とは異なる、何か新しい可能性への期待が芽生え始めていた。
アメリアは、セドリックの言葉を無視するように、ゆっくりとメガネを外した。彼女の表情は、周囲の困惑した視線をものともせず確信に満ちていた。
「なるほど。これは魔法ではないわ」
その言葉が発せられた瞬間、禁書庫の中に張り詰めていた空気が、まるで凍りついたかのように静まり返った。セドリックは激昂した。
「何を馬鹿な!魔法図書館で魔法以外の何が起こるというのだ!貴女は魔法の知識もないくせに、これ以上事件を攪乱させるのはやめろ!目障りだ!」
「微弱な魔力は私も感じるわ。しかし、それは何かの『副産物』に過ぎない。本質は全く別のものよ」
アメリアはセドリックを一瞥しながら冷静に反論し、そのまま指で書棚の空いた空間を指し示す。
「この空間に残る『電磁波』の痕跡、そして一瞬見えた『光る眼』の残像。これは既存の魔力体系には当てはまらない、別の何かの仕業よ」
アメリアの言葉は、その場にいた全員、特に魔法こそが世界の理と信じてきたセドリックにとって、常識を覆す衝撃的なものだった。セドリックは、まるで反論の言葉を見つけられないかのように、心底呆れ、口をパクパクさせている。
アメリアの琥珀色の瞳には、新たな謎に挑む研究者の純粋な興奮が宿っていた。彼女はすでに次なる調査への思考を巡らせている。
「えっと……あなた……」
「あ。ルナ・シルバーンです」
「ルナさんね?あなたは今日から私の助手よね?それじゃ工房に帰るわよ、ガウス警部。何か進展があればご連絡を」
そう言ってアメリアは歩き始める。ルナは、この奇妙な状況にただただそのまま立ち尽くすしかなかった。
しかし彼女の目には、アメリアが放つ、魔法とは異なる「科学」という光が眩しく映っていた。