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第3話 見えない影と光る眼



 数日前。エルドリアの魔法図書館は、夜の帳が降りると、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。数百年の歴史を刻んだ石造りの壁には、月光が差し込み、古びた書架に並ぶ魔導書や文献の背表紙をぼんやりと照らしている。


 この時間に図書館を訪れる者などいない。しかし今夜、その静寂は密やかに破られようとしていた。


 深い闇に溶け込むような漆黒のローブを纏った人影が、音もなく書庫の奥へと進んでいく。その足音は微かにも聞こえず、まるで存在しないかのように空気の中を滑る。


 侵入者は、図書館に張り巡らされた複雑な魔法の感知網をまるで無効化するかのようにすり抜けていく。そのローブの下に隠された表情は読み取れないが、時折、フードの隙間から覗く鋭い輝きを放つ眼が書架の番号を正確に捉えていた。


 目的の書架の前で立ち止まると、その眼はさらに強く光を放ち、まるでレーザーのように特定の書物を指し示した。書物に手が触れるその瞬間、光る眼は稲妻のように閃き、周囲の微細な塵がわずかに揺れた。それは、一瞬にして消え去る、誰にも気づかれることのない異質な波動だった。


 目的の魔導書を手にすると、人影は来た時と同じように、何の痕跡も残さず闇の中へと姿を消した。残されたのは、わずかに乱れた書物の配置と、誰も感知できない微弱な電磁波の残滓のみ。エルドリアの図書館は、再び深い静寂に包まれた。


 エルドリアの市街から少し離れた、人里離れた洋館の書斎で、図書館から持ち出されたばかりの魔導書が広げられていた。その書斎の主は、先ほど図書館に侵入した漆黒のローブの人物――。暖炉の炎が、その人物の顔をぼんやりと照らし出す。その顔は、やはり謎に包まれており、表情は読み取れない。ただ、その光る眼は開かれた魔導書のページを鋭く捉えていた。


 魔導書の内容を読み進める人物の傍らには、最新鋭の機械装置が静かに稼働している。それは、魔法ではなしえない、特殊な光学迷彩を生成する装置と、広範囲の電磁波をモニタリングする装置だった。図書館への侵入は、この二つの技術を駆使して行われたものだ。


「……なるほど。「時間の番人」、予想通りこれは貴重な禁書だわ」


 艶やかな声が、静かな書斎に響く。女性の声だ。彼女は魔導書から目を離すと、電磁波モニタリング装置の画面に視線を移した。そこには、エルドリア市街の特定の一点から、普段とは異なる強力な電磁波が放出されているグラフが表示されていた。


 それは、アメリアが「魔力増幅電磁波発生器」の試作中に発生させた、あの電磁波の波形に他ならない。


「ほう……面白い玩具が紛れ込んできたものだわ……」


 彼女は微かに口角を上げたように見えた。その瞳には、侮蔑ではなく、知的好奇心と、わずかな挑戦的な光が宿っていた。自身が図書館で発した「光る眼」の電磁波の痕跡を、たった一晩で検出する者がいるとは。しかも、魔法ではない「科学」という未知の手段で。


 エルドリアの魔法社会において、科学は異端であり、ほとんど顧みられることのない分野だ。そんな場所で、自分の存在を、それもここまで正確に感知する者が現れたことに、謎の人物は微かな驚きとそれ以上の興味を抱いたのだ。


 彼女の計画は、まだ誰にも知られていない。しかし、その計画の進行を、アメリアという予期せぬ存在が感知し始めた。この偶然の出会いは、エルドリアの未来に大きな波紋を投げかけることになる。


 謎の人物は、広げられた魔導書に視線を落とす。そこには、エルドリアの歴史の影に隠された、封印されし古代魔法の記述があった。彼女の目的は、その失われた力を現代に蘇らせること。しかし、それには単なる魔力だけでは足りない。


 特定の条件下で発生する「魔力電磁波」が不可欠であり、彼女の「光る眼」は、その発生源を探知する特殊な能力だった。


 今回の図書館侵入はその一端に過ぎない。魔導書に記された幾つもの地点を巡り、必要な情報を集めることが、彼女の計画の第一段階なのだ。そして、今日、思いがけず現れたアメリアの存在はその計画に新たな可能性と、同時に予測不能な要素をもたらした。


「科学……ね」


 彼女は呟き、その視線は再びモニタリング装置に向けられた。アメリアの工房から発せられた電磁波の波形は、自身の「光る眼」のそれとは異なる性質を持つが、確かに魔力の流れに連動しているように見えた。


「もしかしたら、私の探している『鍵』は、魔法ではなく、その『科学』の奥に隠されているのかもしれないわね……」


 彼女の計画は、ただ古代魔法を復活させるに留まらない。彼女は、魔法と科学が融合した、新たな世界の創造を目指していた。それは、現在の魔法省の権威を揺るがし、エルドリアの根幹を覆すほどの壮大な野望だった。


 洋館の書斎には古地図が広げられていた。その中には、図書館で手に入れた魔導書に記された場所を示す印が付けられている。しかし、それらの地点は、単なる場所を示すだけでなく、それぞれが特定の「魔力電磁波」を発生させる可能性を秘めているようだった。


「次の場所は……ここ、か。面白い。その『玩具』が、どれほどの深淵を覗けるのか……試してみましょう」


 謎の人物の口元には、不敵な笑みが浮かんだ。それは、新たなゲームを見つけた子供のような、純粋な好奇心と、全てを掌握しようとする支配欲が混じり合った笑みだった。彼女の視線の先には、エルドリアの未来、そしてその先に広がる、まだ見ぬ世界の姿が映し出されているかのようだった。

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