魔法都市エルドリアの午後の光は、普段なら活気と希望に満ちているはずだった。けれど、この日ばかりは、薄墨色の不安が街全体を覆っていた。魔法省の掲示板には、不気味な黒い便箋が何枚も張り出され、人々の目を釘付けにしていた。
「闇猫のオペラ」――その奇妙な名が記された予告状は、魔法博物館から特定の魔導具を盗む、と挑発的に告げていた。便箋に残された独特の「特定の振動痕跡」は、市井の者には理解できないものだったが、アメリア・フォン・アスタータにとっては既視感を覚えるものだった。それは、魔法図書館で彼女が捉えた「微弱な電磁波の痕跡」と酷似していたからだ。
闇猫のオペラ。魔法都市エルドリアを騒がせている神出鬼没の大怪盗。彼女は特定の魔導具を狙い、目的は不明だが、最近活発に動き始めている。
「本当に盗まれちゃうんでしょうか……?」
アメリアの隣で、ルナは不安げに呟いた。彼女の茶色いくせ毛は、心配そうに揺れるたびに肩で小さく跳ねる。丸い童顔には、いつものようにオドオドとした表情が貼り付いていた。
「落ち着いて、ルナさん。まだ盗まれたわけではないわよ」
アメリアは淡々と答えた。彼女の琥珀色の瞳はいつもと変わらず探求心に満ちている。魔法省の広間には、市民のざわめきとは異なる、さらに張り詰めた空気が漂っていた。ガウス警部は口ひげを撫でながら厳しい表情を浮かべ、魔法使いのエリートであるセドリック・ノワールは、苛立ちを隠さずに予告状を睨みつけていた。
「またあの怪盗めか!これ以上、市民を不安にさせるわけにはいかん!」
「魔法使いのプライドにかけて、あの怪盗めを捕らえてやる!」
ガウス警部とセドリックはそう言い放つ。そして、セドリックは切れ長の目をアメリアの方へ向けた。
「というか、インチキ魔術師の出る幕ではないと私は思うんだがな?」
アメリアはセドリックの言葉に反応することなく、貼り付けられた便箋の振動痕跡を、まるでそこに答えが隠されているかのように凝視していた。
「これは、音波に情報を乗せているようね……あるいは、音波で周囲の魔力を乱しているのかもしれないわ……ということは……そういうことよね……」
アメリアの呟きは、誰に聞かせるでもなく、自身の思考を整理するためだった。彼女の琥珀色の瞳が、仮説を立てた瞬間にキラリと輝いた。魔法には一切の知識を持たないアメリアだが、科学に対するひらめきは天才的だった。
「音波、だと?馬鹿な。そんなものに何ができるというのだ?」
セドリックが鼻で笑った。けれど、アメリアはセドリックの反応など意に介さない。彼女の思考は既に、オペラの音波を逆手に取る方法へと移っていた。
「ルナさん、私の工房に行きましょう」
「はっはい!」
アメリアとルナは工房に戻ることにした。工房に着くと、アメリアはすぐに、巨大な作業台の上で設計図を広げる。彼女の器用な手つきが、乱れた髪を耳に留める。アメリアは慣れた様子で、いくつもの歯車や配線、そして貴重な魔法触媒を機械の燃料として無造作に投入し、複雑な装置を組み立てていく。カチカチ、ギリギリと、金属と金属が擦れる音が響き渡る。
「あっあの、ごほごほ。一体何を作ってるんですか?」
ルナは特有の異様な金属音と薬品の匂いにむせながら尋ねた。
「ルナさん。この前作った「魔力増幅電磁波発生器」を覚えてるかしら?」
「もちろんです……あの大変だったやつですよね……」
「あくまで仮説だけど、おそらく怪盗オペラは私の「魔力増幅電磁波発生器」の存在に気づいているわ。だから自身の音波の痕跡で「巧妙に誘導」している可能性がある。それが罠よ。だからオペラが音波を使ってくるのなら、その音波を逆手に取って、隠れ家を特定できるはずよ!」
「これ、本当に役に立つんですかね…?」
「ええ。論理的には可能よ」
アメリアは淡々と答えた。彼女の視線は、既に組み上がりつつある装置に釘付けだった。
「ルナさん、この『音波逆探知機』を街中の要所に設置するのを手伝って頂戴ね」
アメリアはそう言って、完成したばかりの奇妙な機械をルナに手渡した。それは、複数のアンテナのようなものが突き出し、複雑な配線が絡み合った手のひらサイズの装置だった。
ルナはそれを大量に重そうに抱え、アメリアの指示通りに街中を駆け回った。広場の時計台の下、古びた噴水の縁、人気のない路地の壁の陰。最初はぎこちなかった手つきも、簡単な配線を繋ぐ作業を繰り返すうちに少しずつ慣れてきた。
「ここ、これで合ってますか?」
ルナは、魔法省の裏手にひっそりと佇む廃屋の壁に装置を設置しながらアメリアに確認した。
「ええ、正確よ。素晴らしいわね」
アメリアの感情のこもらない、しかし確かな承認の言葉に、ルナの胸には小さな達成感が芽生えた。地味な作業だけれど、誰かの役に立っているという感覚は彼女にとって新鮮だったようだ。
その日の夜。
魔法都市の上空を、漆黒のローブを纏った一人の怪盗が滑空していた。闇猫のオペラ――彼女の視界に、煌々と輝く魔法博物館のシルエットが映る。
「ふふ……面白い仕掛けをしてくれたわね、アメリア嬢?」
オペラは、街中に仕掛けられたアメリアの「音波逆探知機」の存在を、微かな魔力の変動として感知していた。彼女の目的は、単に魔導具を盗むことだけではなかった。アメリアの科学の力を引き出し、自身の計画に引き込むこと――それが彼女の真の狙いだった。
オペラは不敵な笑みを浮かべると、あえてその罠に乗るかのように、自身の音波の痕跡を巧妙に誘導し始めた。それは、アメリアが予測するであろう隠れ家とは異なる、けれどアメリアを誘い込むための新たな場所へと向かう見えない道筋だった。
アメリアの工房では、設置された音波逆探知機からの信号が、中央のモニターに表示されていた。最初はノイズが多かった信号が次第に特定の方向を示し始めた。
「あ。アメリア様、反応が出てます!」
ルナが興奮した声で叫んだ。彼女の丸い瞳は、モニターの表示に釘付けになっている。アメリアはモニターをじっと見つめ、何かを確信したように薄く微笑んだ。
「やはり……ガウス警部に連絡するわ!怪盗オペラを捕まえるわよ!」
彼女の探求心はさらに燃え上がる。モニターに表示された場所は、当初の予想とは少しずれていたが、それでも明確な手掛かりだった。
その頃、魔法省ではガウス警部がセドリックに、アメリアの探知機が反応したことを伝えていた。
「アメリア殿の装置が、どうやら怪盗オペラの反応を捉えたらしい。場所は旧市街地の『忘れられた劇場』跡地だそうだ」
セドリックは依然としてアメリアの科学を軽視していたが、探知機が示した方向が、自身の「幻影追跡の魔法」で得た微かな手掛かりと一致していることに、内心驚きを隠せないでいた。彼は切り札である自身の魔法が、異端の科学と合致したことに複雑な感情を抱いていた。
「『忘れられた劇場』……確かにそこも可能性が……私も向かいます」
そう言い残し魔法省を後にした。彼の瞳には、怪盗オペラへの対抗心と、アメリアの存在に対するかすかな焦りが混じり合っていた。
アメリアの工房では『音波逆探知機』の反応が地図上で「忘れられた劇場」の場所を指し示した。
「ルナさん、新しい電池と予備のセンサーを準備して頂戴。まだ、この音波が何を意味するのか完全に解明できたわけではないから」
「はいっ!」
「それじゃ、忘れられた劇場へ急ぐわよ!」
ルナは元気よく返事をした。彼女の心には、魔法への自信はまだないものの、アメリアの助手として、初めて大きな事件の一端を担っているという、確かな自覚が芽生え始めていた。