夜明け前のエルドリアは、深い藍色に包まれていた。アメリアの「音波逆探知機」が捉えた微弱な反応は、旧市街地の廃墟、「忘れられた劇場」跡地で途絶えていた。アメリアとルナはその場所に向かいながら、携帯用のモニターを睨みつけ、その地点を指でなぞる。
「ルナさん、準備はいいかしら」
「はい、アメリア様」
ルナは、アメリアが手渡した小型の分析装置を大事そうに抱きしめた。その丸い童顔には、拭いきれない不安の色が滲んでいる。
「本当に、あんな古い劇場に怪盗オペラがいるんでしょうか……」
「可能性は高いわ。私の探知機が捉えた音波の痕跡は、そこで完全に消えているの。それに……」
アメリアは図書館の事件で記録した「光る眼」のデータをモニターに映し出した。
「あの時感じた、微弱な電磁波のパターンと、今回の音波の特性が酷似しているのよ」
ほぼ同時刻、エルドリアの街を、二つの影が急ぎ足で進んでいた。魔法省のベテラン警部ガウスは、隣を歩く若きエリート魔法探偵セドリック・ノワールに声をかける。
「アメリア殿の情報が正しければ、あの劇場が奴の隠れ家ということになる。警戒を怠るなよ、セドリック君」
セドリックは、涼やかな顔にわずかな苛立ちを浮かべた。
「科学の産物など信用していませんが……私の魔法、幻影追跡が同じ場所を示しているのは確かです」
やがて、二組の影は、ひっそりと佇む「忘れられた劇場」の前に到着した。蔦が絡まり、窓ガラスは割れ、長らく人の気配のない荒廃した建物だ。ガウス警部は手下の警備兵に合図を送る。重い木の扉が軋む音を立てて開かれた。
劇場内部は、予想以上に荒れ果てていた。舞台は崩れかけ、客席には埃が深く積もっている。薄暗い空気の中、セドリックは鋭い眼光と得意の魔法で周囲を警戒した。
「ん?奴の魔力の残滓が、舞台奥に残っている!」
セドリックはそう叫ぶと同時に、得意の「幻影追跡の魔法」を発動させた。彼の指先から溢れ出した魔力が、空気中にオペラの残像を映し出す。霧のように揺らめく幻影は、舞台の奥へと導くように進んでいく。
アメリアとルナも、遅れて劇場内へと足を踏み入れた。薄暗い空間に、ルナは身をすくませる。アメリアは、鞄の中から取り出した「魔力探知メガネ」のスイッチを入れた。
セドリックの幻影が舞台奥の壁に到達した、その瞬間だった。幻影はまるで霧が晴れるかのように、跡形もなく消え去った。そして、劇場全体にどこからともなく声が響き渡った。
《あなた方、魔法使いは、目に見えるものに囚われすぎている。真実はもっと奥深い場所にある》
拡声器を通したような、歪んだ声。セドリックは悔しそうに拳を握りしめた。
「くそっ!なぜだ?!完璧なはずの幻影追跡が……!」
アメリアは、幻影が消えた場所を「魔力探知メガネ」越しに注視していた。その瞬間、彼女の目に、ぞっとするような光景が飛び込んできた。暗闇の中に確かに残っている。「光る眼」の残像。それは図書館で、アメリアが見たあの奇妙な光だった。
「ルナさん、覚えてる?図書館で見た、あの奇妙な魔力の残滓……そして『光る眼』」
ルナは、アメリアの真剣な表情に頷いた。
「はい、覚えています……」
アメリアは、分析装置に記録された図書館のデータと、今、目の前に残る「光る眼」の残像を重ね合わせた。
「間違いないわ……あの時感じた魔力のパターン、そしてこの『光る眼』……両方とも、この怪盗オペラの痕跡よ!」
その確信が、アメリアの胸に冷たい衝撃と共に広がった。オペラはただの怪盗ではない。彼女が使う技術、そして残す痕跡は、魔法とは全く異なる性質を持っている。そして、あの「光る眼」は、まるで嘲笑うかのようにアメリアの脳裏に焼き付いていた。
オペラの声が途絶えると同時に、劇場の奥の暗闇から、漆黒の影がまるで液体のように流れ出し、そのまま壁をすり抜けるようにして完全に姿を消した。ガウス警部と警備兵たちは、何が起こったのか理解できず、茫然と立ち尽くしている。セドリックは、苛立ちを隠せない。
「どこに行った!?」
「あれは光学迷彩よ……もう遅いわ」
「光学迷彩!?科学の力だと!?魔法使いですら欺くとは、一体何者なんだ怪盗オペラ!」
アメリアはオペラが消えた場所へと近づいた。舞台の床には、何かが置かれていたような微かな埃の跡が残っている。そして、その近くには、小さな金属片が落ちていた。それは、古びた金属の破片で、表面には複雑な紋様の一部が刻まれている。
「警部、博物館に連絡を取ってください!予告状にあった魔導具ではなく、何か別のものが盗まれていないか確認を!」
間もなく、ガウス警部の顔が険しくなった。
「報告が入った。盗まれたのは、博物館の奥にひっそりと保管されていた古い羅針盤だそうだ」
「羅針盤?」
アメリアは、拾い上げた金属片を見つめた。その紋様は、以前、彼女が図書館で盗まれた禁書のことを調べていた時の、その禁書に描かれていたものと酷似していた。
「やはり……この羅針盤に描かれている紋様、私は図書館で見たことがあるわ。オペラの真の狙いは、この羅針盤だったのね……」
ルナも、アメリアの手元の金属片を覗き込んだ。
「確か、アメリア様がすごく熱心に調べていた盗まれた禁書に……」
アメリアは立ち上がり、劇場全体を見渡した。オペラが残していった技術の痕跡、そして盗まれた羅針盤。全てが、彼女の科学的な探求心を激しく揺さぶっていた。
その夜、エルドリアの街を見下ろす高台で、漆黒のローブを纏った影が、手にした古びた羅針盤を見つめていた。羅針盤の表面に刻まれた奇妙な紋様を、細い指先がなぞる。
「ようやく……この玩具の真の持ち主が見つかったかしら……」
闇猫のオペラの唇には、薄い笑みが浮かんでいた。彼女の瞳の奥には、アメリアの科学に対する明確な興味が宿っている。オペラの目的は、単に物を盗むことではない。この羅針盤が持つ「隠された力」を解き放つこと、そして、彼女の計画にアメリアを引き込むこと――それが真の狙いだった。
羅針盤の紋様が、微かに妖しい光を放った。新たな謎が静かに幕を開けようとしていた。