夜明け前の工房は静寂に包まれていた。磨かれた床に、外から差し込む淡い月光が細い線となって伸びている。
アメリアは、先日地下墓地で出現した魔物の残滓と発掘品の金属片、そして「異界の扉」の残骸を前に、目を凝らしていた。散らばった資料の山の中、ホワイトボードには複雑な数式と図形がびっしりと書き込まれている。彼女は、この不可解な事態の核心に迫ろうとしていた。
「この紋様は……単なる時間操作だけじゃなかった。やっぱり……何かがおかしい」
アメリアは、独り言を呟きながら、金属片に刻まれた幾何学的な紋様を指でなぞる。それは、時間軸を歪める呪文の一部であると同時に、どこか別の意味を隠しているように思えた。彼女の指先が紋様の上を滑るたび、金属片が微かに冷たい光を放つ。まるで、そこに込められた太古の力が今にも溢れ出しそうだった。
工房の隅では、ルナは古びた羊皮紙に向かい、一心不乱にペンを走らせていた。彼女は、先日こっそりと見た古代文献の記憶をたどり、紋様を再現していたのだ。ペン先が羊皮紙の上を走るたび、微かな擦過音が静寂を破る。
その集中力は凄まじく、周囲の何もかもが彼女の視界から消え去っていた。ペンから滴るインクが、時を超えて語り継がれてきた古代の叡智を現代に蘇らせる。
しばらくして、ルナは小さく「できた」と呟き、深々と息を吐いた。彼女は、完成した羊皮紙を慎重に手に取り、興奮を抑えきれない様子でアメリアのもとへ駆け寄っていく。
「アメリア様、これを見てください!」
ルナが広げた羊皮紙には、これまで彼女が見てきた羅針盤や歯車の紋様とも、発掘された金属片の紋様とも異なる、しかし明らかにそれらと深い関連性を持つ、新たな紋様が描かれていた。
それは、まるで星々の運行を写し取ったかのような、あるいは宇宙そのものを図案化したかのような、途方もなく複雑で神秘的な図形だった。そして、その紋様の隣には、『異界の扉』と『守り人』という文字が古語で記されている。
「ルナさん。これは一体どこで?」
アメリアの問いに、ルナは少しうつむきながら答える。彼女の頬は、罪悪感と期待感でほんのりと赤く染まっていた。
「あの……この前、禁書庫に忍び込んで……見つけた古代文献に書いてあったもので、記憶を頼りに書き起こしたので、正確かは分からないんですけど……アメリア様のためになるかなって……」
ルナの言葉に、アメリアは目を丸くした。禁書庫への立ち入りは、厳しく禁じられている。そんな場所に、まさかルナが忍び込むとは。彼女の行動力に、アメリアは驚きを隠せない。
「ふふ。ルナさんって意外に過激派なのね? そんなに私の役に立ちたかった?」
「えぇ!?」
アメリアの言葉に、ルナは頬を赤らめて驚いた。自分の行動が、まさか褒められるとは夢にも思っていなかったのだ。
「ありがとう。これは、きっと大きな手掛かりになる。何か分かるかも知れないわ」
アメリアはそう言って、ルナの描いた紋様をじっと見つめる。その瞬間、彼女の脳裏に、喫茶店『時の砂時計』の店内に並んだ、無数の時計の中の一つが蘇った。店の奥、人目につかない場所に置かれた古い振り子時計。その文字盤の周りに、今ルナが描いた紋様と全く同じものが刻まれていたことを、彼女は思い出したのだ。
「待って……時計……時間……特定の周波数、特定の波長……もしかしたら……この多様な紋様……これは、古代の存在を活性化させるための『起動術式』の一部なのかもしれない」
閃光のように、一つの結論が彼女の頭の中に浮かび上がった。そして、その結論に辿り着いた瞬間、彼女はふと『時の砂時計』のやり取りを思い出す。エレノアは『時間そのものが意思を持っているとしたら』と言っていた。まるで、その歴史を直接知っているかのように。
「もしかして……エレノアは全てを知っているのかも……?」
アメリアは、ホワイトボードに書き込まれた数式と、古びた地図を交互に見つめながら、ある人物の名前を呟いた。エレノアは、魔法省とは無関係だが、街の歴史に精通していることで知られていた。しかし、その知識は、あまりにも完全すぎた。まるで、その歴史の一部であったかのように。
アメリアの胸中に、一つの疑念が芽生える。それは、エレノアがただの喫茶店のマスターではなく、もっと大きな秘密を抱えているのではないか、というものだった。
仮説から事実へと。彼女は、ルナを伴って喫茶店『時の砂時計』へと向かう。エレノアは、いつものようにカウンターの奥で、二人を待っていた。窓から差し込む朝の光が、埃の舞う店内に幻想的な光の柱を作り出している。
「あら?いらっしゃいませ」
エレノアは、穏やかな表情で二人を招き入れた。店内には、どこか懐かしい、紅茶の香りが漂っていた。しかし、アメリアはいつものような和やかな雰囲気で会話を続ける気にはなれなかった。
「単刀直入に言うわ。あなた……何者?」
回りくどい質問はしない。核心を突くことで、相手の反応を確かめようとしたのだ。エレノアは、一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。しかし、その瞳の奥には、わずかな動揺が垣間見えた。
「……私はこの『時の砂時計』のマスターですよ?」
エレノアは、いつものように優しく微笑んだ。しかし、アメリアはそれに怯むことはない。
「その時計の文字盤にある紋様は、単なる装飾じゃない。古代の起動術式の一部だわ。そして……その紋様は、禁書庫の古代文献に記された『異界の扉』と『守り人』の記述と完全に一致する。あなたは、この街の歴史に詳しすぎる。まるで、その歴史を直接見てきたかのように。エレノア……あなたは、一体いつからここにいるの?」
アメリアは、そう言いながら、手元にあった金属片を机の上に置いた。金属片に刻まれた紋様を見た瞬間、エレノアの顔から表情が消えた。彼女は、じっとその紋様を見つめるが何も答えなかった。ただ、静かに目を閉じ、深く息を吐いた。その沈黙は、アメリアの仮説が正しいことを雄弁に物語っていた。
その頃、魔法省の庁舎内は、古代の魔物の出現という未曾有の事態に混乱していた。情報の隠蔽を企む上官たちに対し、セドリックは激しく反発していた。
「このままでは、市民の信頼は完全に失われます!真実から目を背けることは、もはや許されません!」
セドリックは、声を荒げて訴えた。会議室には、重厚なオーク材のテーブルが中央に据えられ、それを囲む上官たちの顔は、冷たい無関心と苛立ちに満ちている。
「若造が何を言っている」
筆頭格の上官が、鋭い眼差しでセドリックを射抜く。
「真実が、いつも人を救うとは限らない。時には、真実を隠すことも、我々の務めだ」
その言葉に続き、もう一人の上官が嘲笑うかのように口元を歪めた。
「市民を動揺させてどうする? 混乱は、さらなる混乱しか生まない。それに、過去の『異界の扉』に関する情報が漏れれば、我々の立場はどうなる?」
「それが、あなた方のやり方ですか!?市民を守るはずの魔法省が、市民から真実を隠蔽するなんて、あってはならないことです!それに、今回の事件は過去とは違う。魔物の活性化は、明らかに……」
「黙りなさい、セドリック」
筆頭格の上官が再び声を上げた。その声には、有無を言わさぬ威圧感がこもっている。
「若者の熱意は結構だが、現実を見なさい。我々が守るべきは、この街の秩序だ。そして、その秩序は、魔法の絶対的地位によって保たれている。誰もが魔法を信じ、魔法の凄さを実感している。そこに、魔法でも対処できないものがあるとしたらどうなる?もう過去の失敗を繰り返すわけにはいかない」
もう一人の上官が、ふと資料に目を向けた。そこには、セドリックが作成したと見られる、魔物の出現地点と時間軸の歪みを関連付けた複雑な相関図が描かれている。
「この資料は破棄しろ。命令だ。セドリック・ノワール。優秀な魔法探偵で居たいのなら分かるな?」
セドリックは、熱意を込めて訴え続けたが、彼の言葉は冷たい壁に跳ね返されるだけだった。熱心な若者の理想論は、冷酷な現実の前では無力だった。魔法省は、過去の「異界の扉」に関する隠蔽が露呈することを恐れ、情報統制をさらに強めていくことになる。
一方、喫茶店『時の砂時計』では、重苦しい沈黙が続いていた。エレノアは、ゆっくりと目を開き、アメリアをじっと見つめた。その瞳は、いつもの穏やかな光を湛えていた。そして、静かに決意に満ちた声でこう言った。
「……ここまでたどり着きましたか。全てをお話する時が来ましたね」
と