目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第7話 《旅の始まり――制度なき祈りの地へ》

 街の喧騒が遠ざかる夜、エリシアはひとり静かに祈祷院の窓辺に立っていた。




 「光があるなら、必ず影も生まれる」




 彼女の声はかすかに震えていたが、祈りは深く、確かなものだった。




 「私の祈りが生み出した影――それは人の心の弱さかもしれない。

 でも、その影に負けてはならない。誰もが救われるべきだと、私は信じている」




 祈りの光が、彼女の周囲を柔らかく照らす。




 「どうか、暴動に巻き込まれたすべての人に平安を……」




 彼女の祈りは静かに、しかし確かに世界に届いていく。


 月が静かに浮かぶ夜。

 祈祷院の礼拝室に、ひとりエリシアが佇んでいた。




 彼女の周囲には、誰もいない。

 けれどその“配信の準備”は、いつものように整えられていた。




 「……これで、最後にしようと思うのです」




 誰に言うでもないその言葉は、配信を待つ空気に溶けていく。




 彼女は、自分の祈りが人を救い、同時に傷つけてしまったことを知った。


 制度の中で偶像とされ、

 制度の外で“信仰の象徴”とされ――

 自分の想いが、形を変えて勝手に独り歩きしていくことに、恐れすら覚えた。




 けれど――




 それでも。




 「私は、あなたたちに祈りたい」

 「争ってしまった人にも、怒りを抱えた人にも……」

 「きっとその奥には、誰かを守りたかった気持ちがあると信じたいから」




 両手を胸に重ね、深く祈りの構えを取る。




 「私の祈りが……届いたせいで、誰かが迷ったのなら。

 私はもう一度、願います――“本当に伝えたかったもの”を」




 光が、彼女の周囲に広がる。

 それは、穏やかであたたかく、激しさも誇りもない、静かな奇跡。




 《配信開始》




 映像の中で、エリシアはただ、一人祈る。

 言葉も、演出も、祈祷技も使わず、ただひとつ――純粋な想いだけで。




「どうか、この祈りがあなたを癒しますように。

争いではなく、赦しへ。

傷つけるのではなく、抱きしめる力となりますように」




 それは、“奇跡の技”ではなかった。

 けれど、配信を見ていた者たちは、その静かな光の前で涙を流した。




 怒っていた者も、傷ついていた者も、信じられなくなっていた者も――

 「この祈りだけは、嘘じゃない」と感じた。




 《配信終了》




 その夜、純祈会の活動が一斉に停止されたという報告が、神聖庁に届いた。


 誰かの指示ではなく、暴動が、自然と収束していったのだ。




 翌朝。エリシアは、荷をまとめて祈祷院を後にした。




 「私は……“祈り”が、本当に誰かに届く世界を見てみたい」




 それは制度でも、数値でもなく――

 名もない誰かに向けた祈りを貫くための旅の始まりだった。


 朝靄のなか、神聖庁の尖塔が遠くに霞んで見える。

 その聖都の外れ、小さな巡礼路を、一人の少女が歩いていた。




 白金の祈祷衣はすでに脱ぎ捨てられ、

 今の彼女は、ただの旅人。――エリシア=カーヴェル=ローゼンシュタイン。




 足取りは軽くはなかった。

 だが、その目は迷いなく、まっすぐ前を見据えていた。




 「信仰が制度の中にあるべきだと、私は思っていた」




 小さく呟いた言葉は、誰にも聞かれず、風に消える。




 「でも、制度の中だけでは、救えない人がいる。

 名前も顔も知らない誰かの痛みに、制度は届かないことがある。

 ならば私は……そこに、祈りを持って行きたい」




 道端の小さな集落を通りすぎると、

 疲れた顔の子どもが、母親の背に抱かれていた。




 エリシアは足を止め、微笑む。




 「こんにちは。ちょっとだけ……祈っても、いいですか?」




 少女の手が触れたとき、

 かすかに光が揺れた。




 技ではない。登録もされていない。

 何の奇跡の名称もない、名もなき祈り。




 けれど、その母親は涙をこぼした。




 「ありがとう……ありがとう……」




 誰も見ていない場所で、

 何も記録されない祈りが、確かに“奇跡”を生んだ。




 彼女が歩いていくその先には、地図にすら記されていない村々がある。

 魔の影が滲み出す廃地も、戦火で信仰を失った場所もある。




 だが、彼女は知っている。




 どんな場所にも、「祈りを必要とする声」があると。




 だから、歩き続ける。




 誰にも縛られず、誰にも仕えず、

 ただ――祈りの力を、届くべき場所に届けるために。




 雲間から射す朝日が、

 彼女の新たな旅路を、やさしく照らしていた。




 その光は、誰にも気づかれずとも――

 確かに、世界を癒し続けていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?