街の喧騒が遠ざかる夜、エリシアはひとり静かに祈祷院の窓辺に立っていた。
「光があるなら、必ず影も生まれる」
彼女の声はかすかに震えていたが、祈りは深く、確かなものだった。
「私の祈りが生み出した影――それは人の心の弱さかもしれない。
でも、その影に負けてはならない。誰もが救われるべきだと、私は信じている」
祈りの光が、彼女の周囲を柔らかく照らす。
「どうか、暴動に巻き込まれたすべての人に平安を……」
彼女の祈りは静かに、しかし確かに世界に届いていく。
月が静かに浮かぶ夜。
祈祷院の礼拝室に、ひとりエリシアが佇んでいた。
彼女の周囲には、誰もいない。
けれどその“配信の準備”は、いつものように整えられていた。
「……これで、最後にしようと思うのです」
誰に言うでもないその言葉は、配信を待つ空気に溶けていく。
彼女は、自分の祈りが人を救い、同時に傷つけてしまったことを知った。
制度の中で偶像とされ、
制度の外で“信仰の象徴”とされ――
自分の想いが、形を変えて勝手に独り歩きしていくことに、恐れすら覚えた。
けれど――
それでも。
「私は、あなたたちに祈りたい」
「争ってしまった人にも、怒りを抱えた人にも……」
「きっとその奥には、誰かを守りたかった気持ちがあると信じたいから」
両手を胸に重ね、深く祈りの構えを取る。
「私の祈りが……届いたせいで、誰かが迷ったのなら。
私はもう一度、願います――“本当に伝えたかったもの”を」
光が、彼女の周囲に広がる。
それは、穏やかであたたかく、激しさも誇りもない、静かな奇跡。
《配信開始》
映像の中で、エリシアはただ、一人祈る。
言葉も、演出も、祈祷技も使わず、ただひとつ――純粋な想いだけで。
「どうか、この祈りがあなたを癒しますように。
争いではなく、赦しへ。
傷つけるのではなく、抱きしめる力となりますように」
それは、“奇跡の技”ではなかった。
けれど、配信を見ていた者たちは、その静かな光の前で涙を流した。
怒っていた者も、傷ついていた者も、信じられなくなっていた者も――
「この祈りだけは、嘘じゃない」と感じた。
《配信終了》
その夜、純祈会の活動が一斉に停止されたという報告が、神聖庁に届いた。
誰かの指示ではなく、暴動が、自然と収束していったのだ。
翌朝。エリシアは、荷をまとめて祈祷院を後にした。
「私は……“祈り”が、本当に誰かに届く世界を見てみたい」
それは制度でも、数値でもなく――
名もない誰かに向けた祈りを貫くための旅の始まりだった。
朝靄のなか、神聖庁の尖塔が遠くに霞んで見える。
その聖都の外れ、小さな巡礼路を、一人の少女が歩いていた。
白金の祈祷衣はすでに脱ぎ捨てられ、
今の彼女は、ただの旅人。――エリシア=カーヴェル=ローゼンシュタイン。
足取りは軽くはなかった。
だが、その目は迷いなく、まっすぐ前を見据えていた。
「信仰が制度の中にあるべきだと、私は思っていた」
小さく呟いた言葉は、誰にも聞かれず、風に消える。
「でも、制度の中だけでは、救えない人がいる。
名前も顔も知らない誰かの痛みに、制度は届かないことがある。
ならば私は……そこに、祈りを持って行きたい」
道端の小さな集落を通りすぎると、
疲れた顔の子どもが、母親の背に抱かれていた。
エリシアは足を止め、微笑む。
「こんにちは。ちょっとだけ……祈っても、いいですか?」
少女の手が触れたとき、
かすかに光が揺れた。
技ではない。登録もされていない。
何の奇跡の名称もない、名もなき祈り。
けれど、その母親は涙をこぼした。
「ありがとう……ありがとう……」
誰も見ていない場所で、
何も記録されない祈りが、確かに“奇跡”を生んだ。
彼女が歩いていくその先には、地図にすら記されていない村々がある。
魔の影が滲み出す廃地も、戦火で信仰を失った場所もある。
だが、彼女は知っている。
どんな場所にも、「祈りを必要とする声」があると。
だから、歩き続ける。
誰にも縛られず、誰にも仕えず、
ただ――祈りの力を、届くべき場所に届けるために。
雲間から射す朝日が、
彼女の新たな旅路を、やさしく照らしていた。
その光は、誰にも気づかれずとも――
確かに、世界を癒し続けていた。