あの日の出来事がいったい何だったのか正体はわからないままだ。それでもハーベンと五月の暮らしは揺らぐことなく続いていた。
次の朝には五月は落ち着きを取り戻し、いつものようにハーベンが作った食事を食べて、本を読んだり庭の花々を見て回ったり、午後のケーキの時間にはハーベンと談笑したりと、しあわせな時間を過ごし、夜には彼と共に眠る。
今日はハーベンに借りていた本を返して、違う本を読ませてもらおうと書斎に行く予定にしていた。五月は自分の部屋を出て長い廊下を歩いて行く。規則的に並んだ窓からは庭がよく見えた。
「天気、悪いなあ」
いつぞやのハーベンとの庭でのデートの時のように、重く暗く空には雲が垂れ込めている。しばし外を眺めていた五月の耳に、ハーベンの声が微かに届いた。何を言っているのかはわからないが、使用人と話しているようだ。ここ一週間ほどはハーベンの仕事が忙しく、食事と就寝の時しか顔を合わせることができていなかったこともあって、五月は嬉しくなり話声のする方へと走り出そうとした。
ところが、そこへ使用人の小さな声が聞こえてきて、五月の足は自然と止まる。
「申し訳なく存じます」
「私はなぜ規則を破ったかと訊いているんだ」
「それは……」
ハーベンが使用人に対して怒っているのは明白だった。廊下を曲がれば、そこにハーベンと使用人がいるだろう。五月は早鐘を打つ鼓動が鎮まるよう願いながら、こっそりと二人の様子をうかがった。
そこには想像通り、うなだれる若い男性の使用人とハーベンの姿がある。悲しそうにしている使用人は心から反省しているのだと思われた。対してハーベンの顔からは常日頃絶やすことのない笑みが完全に消えていて、本気で怒っている。
ハーベンの表情を見た瞬間、五月は体の芯から震え上がった。体温が急速に下がっていく感覚に襲われ、歯の根が合わない。
ここにいてはいけない。
理由もなく強く感じた五月は足音が立つのも構わずに走って、再び館から逃げ出した。
曇っていた空からとうとう雨粒が落ちてきた。薄着のまま館から出てきたからか、それとも恐怖からか、五月はガタガタと震えたまま町はずれの細い路地に座り込む。
五月の脳裏には泣き出しそうな使用人の姿よりも、笑っていないハーベンの顔が強烈に刻み込まれていた。
しかし、同時にいつもの穏やかな顔や笑いかけてくれる顔、キスをしてくれる時のハーベンの情熱的な表情も思い出されてしまう。その間も雨脚は激しくなり、五月の髪や服を容赦なく濡らして体温を奪っていった。唇は青紫色に変わり、指先の感覚も危うくなっている。
「ハーベン……なんで? 怖いよ」
恐怖と愛しさが交互に訪れ、五月は小さな声で独り言を繰り返した。
「こんなに、愛しているのに」
「私も愛しているよ。サツキ」
ふいに雨と一緒に頭上から降ってきた愛しい人の声を聞いた五月は、弾かれたように顔を上げる。目の前には自分へと傘を差し出し、微笑むハーベンの姿があった。それまで抱いていた恐怖が嘘みたいに吹き飛んでいく。五月はハーベンに飛びついた。
「ハーベン……!」
「ああ、サツキ、こんなに冷えて……震えているじゃないか」
五月を受けとめ、こげ茶の瞳からぼろぼろと零れ落ちる涙を拭ってやりながら、ハーベンは言葉を重ねる。
「帰ってきてくれるだろう? 愛しいサツキ」
ハーベンに抱き締められ、それ以上の力で彼に抱きついている五月は、何度もこくこくと首を縦に振った。