王国では、暦の上でも気候の上でも、春は三月に始まる。
入学は九月。長期休暇を終わり、一学年の折り返し地点が過ぎた頃、レオナルドは初めてアイゼンハルト伯爵家へ遊びに行った。
……もしかすると、「遊びに行った」という表現は正確ではないかもしれない。正しくは、「クラウスをダシに社交をしに行った」だろう。
軍人学校は寄宿制だが、家が近い生徒の中には休日に帰省する者もいる。
貴族の場合はやや事情が複雑で、王都に屋敷を構えていても、家内の事情や当人のスタンスによって帰省の頻度には差があった。
たとえば、シュヴァリエ侯爵家は王都に立派な屋敷を所有している。
しかし、レオナルドがそこを訪れることはほとんどなかった。
軍人学校での訓練だけでなく、貴族学院での社交や提出レポートの作成といった“貴族の義務”に忙殺される中、王都の屋敷に足を運ぶことは、彼にとって特に有益な行動とは言えなかった。
彼の家族は侯爵領で暮らしており、レオナルド自身もそこで育った。侯爵家次男としての「家族と顔を合わせ、領地の現状を知る」という務めは、王都の屋敷では果たせない。
またシュヴァリエ侯爵領は王都から馬車で五日ほどの距離にある。
そのためレオナルドが「家」に戻るのは、一学年の長期休暇に入ってからのこととなった。
アイゼンハルト伯爵家もまた、領地を有する貴族である。
だが、この家は“軍の家”として王国軍に深く根を下ろしており、代々軍の中枢を担ってきた。
そのため、当主は王都にて軍の頂点に立ち、子息たちもまた王都で育てられ、軍人学校を経て軍務に就くのが常とされている。
長男が伯爵位を継ぎ、軍の次代を担う。
領地へは他の者が赴き代理として政務を行う。それを担うのは次男以下の子息であることが多い。
“多い”というのは、能力が足りなければ血縁にこだわらず、適任者が選ばれるためだ。
クラウスの六つ上の兄・クラディアンは、次期当主として軍務に身を置いている。
四つ上の兄・クラヴィスは、将来的な領地運営を視野に入れながらも、同じく王国軍で実務を重ねていた。
彼らは普段、軍の寮で過ごすことが多かったが、“軍の家”として軍事や政務を学ぶ環境が整った実家に顔を出すこともあった。
クラウスもまた、王都で育ち、軍人学校に進んだ。しかし彼は一度も、屋敷に帰ろうとしなかった。
入学後半年経って初めて得た長期休暇の際も、彼は地方出身の生徒たちと同じく、学校の宿舎で過ごしていた。
父との関係が悪く、兄たちとも距離を測りかねているクラウスにとって、実家は『帰りたい場所』ではなかったのだ。
長期休暇が明ける少し前。
領地から戻ったレオナルドは、寮でひとり寂しげに過ごすクラウスの姿を見て、「こいつ、本当に帰らなかったのか」と思った。
そこで彼は、「帰ろうとしないクラウスをアイゼンハルト伯爵家に連れ帰る」という名目で、アイゼンハルト邸を訪ねることにした。
……嘘ではない。クラウスが家に帰らなかったことを「これ幸い」などと考えたわけではない。
だが、目的の大半は「社交」にあった。
レオナルドはまだ学生だ。
「同年代の貴族子息」との繋がりはあっても、その親世代――すなわち、実際に爵位を持つ者と関われる機会は多くない。
それに、アイゼンハルト伯爵家は「軍の名門」であり、その当主は他の貴族に比べても社交界に姿を見せることが少ない。
代わりに、その妻でありクラウスの母であるマルグリットがアイゼンハルト伯爵家の者として前線に立ち、社交界で一定の影響力を持っていた。
しかし彼女の“戦場”はもっぱら婦人たちのお茶会であり、レオナルドがそこに加わることはできない。
また、アイゼンハルトとシュヴァリエ、どちらも血統を重んじる家柄だが、シュヴァリエは「武」よりも「政治」に近く、とりわけ自領の発展に力を注いでいる。
そのため両家は、政治的に対立しているわけではないが、親しいとも言い難い関係だった。
だからこそ、クラウスという存在は、レオナルドにとってアイゼンハルト家と縁を結ぶ、格好の足掛かりだった。
レオナルドはクラウスを“ダシ”にして、アイゼンハルト伯爵であり軍のトップでもあるクラウディウスと繋がろうとしたのだ。
クラウスも「帰った方がいいのだろう」とは思っていた。母から手紙が届いていたからだ。
クラウスは文字を読むのが苦手だ。
そのため、サッとしか見ていない手紙の内容を、正しく認識できているか自信はない。
でもたぶん、自分を心配する内容だった。
「帰りたくない」が、ただのわがままだとクラウス自身も分かっていた。
だから、レオナルドが泊まりに来る、というのなら、家に顔を出してもいいかと思った。
「遊びに行きたい」という親友の申し出に、照れ隠しで拗ねたように「なんでうちに来たいんだよ」と言ったクラウスに、レオナルドは貴族的な微笑みと、キラキラした瞳で答えた。
「親友の家に遊びに行きたいっていうのは、そんなに不思議か?」
そして、すぐに表情を変え、「アイゼンハルトとのコネも欲しい。お前は何もしなくていい。ただ、邪魔はするな」と、獰猛な笑みを浮かべた。
クラウスは、貴族的に微笑むときのレオナルドには逆らわないことにしている。
そして、獰猛な瞳のレオナルドは、シンプルに怖い。
クラウスはレオナルドに対し、きゅーんと震える小犬のような表情をしながら、了承の意を示した。