部屋に入るにはどうすればいいか? 扉を開ければいい。
だが、その扉には鍵穴が存在せず、視認さえできなければどうだ。そしてその錠前に触れ、構造を解くチャンスが一瞬だけだとしたら?
「魔力が空間に固定されているなら、その結合を崩せばいい」
この言葉は、それと同じだ。「どうやって?」の部分が欠けている。
そもそも、魔術に干渉するなど、普通はできない。
なぜなら、術は術者の魔力によって構築され、外部から手を加えることが極めて困難だからだ。
もっとも、例外もある。
術が構築しきる前に、魔力を制御不能にすればいい。
魔力に魔力で干渉し、術式の流れを乱すことで霧散させるのだ。
ただし「魔力で干渉する」には、ごく至近距離にいるか、極めて精密な魔力操作が必要とされる。現実的には、不可能に近い。
故に人々はこう言う。
魔術を防ぐには、魔術をぶつけるほかないのだと。
たとえば〈炎矢〉に対して〈氷槍〉を撃ち合わせ、打ち消すことがある。攻撃魔術同士であれば、相性や魔力量、術の構築技術によっては相殺できる。
〈障壁〉も、ある種それに近い。
衝撃を与え続けて結合を解くという行為は、魔力をぶつけ合って相殺しているとも言える。
しかし、攻撃魔術と〈障壁〉では根本的な性質が異なる。
攻撃魔術は“移動”する。
空気を燃やす矢のように、あるいは凍らせる槍のように。移動し、対象にぶつかって魔力を“働かせる”。
対して〈障壁〉は“固定”される。
移動せず、燃やすことも凍らせることもない。ただ、守るためにだけ魔力が使われている。
移動や付随する効果に魔力を割り振った攻撃魔術と、すべてを硬さに割り振り、空間に“固定”した〈障壁〉。
同じ魔力量を注いだとして、ぶつかり合えばどちらが“殺される”かは明白だ。
加えて、〈障壁〉を使いこなせる者は限られている。
すなわち、それを展開するのは、魔術に長けた手練ればかりということだ。
魔術に優れた者が作った、魔術を阻む壁。
そんな〈障壁〉に対して、『魔力で干渉して結合を崩そう』などと考える者は、まずいない。
ましてや、剣や拳を交えながらなどという状況で、それを実行に移そうとするなど、学者から見たら正気の沙汰ではないだろう。
それでも、レオナルドは行った。
理論立て、実践し、結果を解析し、また実践する。
彼は、誰よりも〈障壁〉に触れるチャンスがあり、誰よりも“試す”機会があった。
経験を蓄積し、思考を止めない。やれるまでやる。
――レオナルドの得意分野だ。
そして、彼は一つの方策を見つけた。
魔術を遠距離から放っても、衝撃は広範囲に分散し、壁に十分な圧力をかけることができない。
だが、近距離からなら話は変わる。
釘を打ち込むように、力を一点に集約させれば――どれほど硬い壁であっても、ひびが入る。
〈障壁〉も同じだ。
遠距離攻撃では結合を崩しにくいが、近距離で一点に魔力を集中させれば、魔力の結合が乱れ、干渉が可能となる。
だからこそ、レオナルドは遠隔攻撃ではなく、拳を直接叩きつける方法を選んだ。
一点に魔力を込め、〈障壁〉の結合を破壊するために。
彼は拳に、氷の魔力を“手袋”のように纏い、それを硬質に結晶させた。
移動エネルギーは、自身の膂力で補う。
そうして〈障壁〉に触れ、固めたエネルギー同士をぶつけ、一点に“裂け目”を作る。
その裂け目から魔力を流し込むことで、〈障壁〉の結合を崩壊させる。
これは、至近距離での物理的・魔力的"複合干渉"であり、通常ではまず実現不可能な荒業だった。
そもそも、壁を殴るという行為自体が身体への危険を孕んでいる。反動で、肩や腰が壊れかねない。
殴るという動作は全身を使う。
拳は魔力によって強化されていても、衝撃はそこだけに留まらない。
肩に圧がかかり、腰に負担が蓄積する。
硬い〈障壁〉を殴る度に、衝撃は骨へと染み込み、筋繊維を軋ませていく。
その負荷は確実に積み重なり、レオナルドの動きにじわじわと影響を与えていた。
だが、レオナルドは拳を振り下ろし続けた。
これは、「クラウスに並び立つ」と決めた男の執念だ。
クラウスとて、これまでの手合わせで、ただ殴られ続けていたわけではない。
レオナルドの攻撃に対応するため、〈障壁〉を改良していた。
――感覚で。
「もっとシュッとするか、ギュッとして、ツルっとすればいい」
……本人の中では、れっきとした改良案である。
“シュッと”とは、展開範囲を最小限に絞ること。
必要な瞬間に、必要な場所だけを。最低限の硬さで守り、魔力消費を抑える工夫だ。
“ギュッと”は、魔力をより強く圧縮し、硬度を高めるという意図。
“シュッと”する〈障壁〉とは対照的に、拳を弾く、高密度な魔力の盾に仕上げる。
“シュッと”と“ギュッと”。
目の前にある〈障壁〉が「一瞬しか存在しない盾」なのか、それとも「殴れば反動で肩がやられる強さ」なのか。
これらを組み合わせることで、レオナルドの処理能力に負担をかけた。
そして、“ツルっと”は表面を滑らかにする工夫。
丸みを帯びた〈障壁〉は拳の軌道を逸らし、衝撃を滑らせることで正面からの直撃を避ける。
クラウスはそうした特性を組み合わせた〈障壁〉を展開した。
知識や理屈ではなく、“感覚”で。考えるのではなく“反射的に”。
熱いヤカンに触れたら手を引っ込めるように。
無意識に、最適な〈障壁〉を展開していた。
兵士たちは、息を呑んで見ていた。
クラウスは、レオナルドと出会ってから、以前よりも“化け物”になっていた。
だが彼らは、その“化け物”を、もはや恐れてはいなかった。
なぜなら、レオナルドがいたからだ。
対等に渡り合う者がいることで、それは恐怖ではなく、敬意へと変わった。
まだ身体もできあがっていない少年が、並び立つように技術と魂で戦い抜いている。
泥にまみれ、吠え、全力でぶつかり合うその姿に、兵士たちはただ恐れるのではなく、心からの敬意を抱いた。
そして気付いたのだ。
自分たちはこれまで、クラウスの強さに向き合おうとさえしてこなかったのだと。
なぜ自分は、レオナルドのようにできなかったのか。
「クラウスには敵わない」と諦め、「彼は化け物だから仕方がない」と、己の弱さから目を逸らしてきたことを、今、悔いていた。
アイゼンハルトの兵士たちは、強さを尊ぶ。
しかし、どれほど尊ぶものであっても、あまりに遠すぎれば、拒む気持ちが芽生えてしまう。
クラウスの才能は、常識では測れない“圧倒”だった。
――だが、理解できない強さが、クラウス一人ではなくなった。
そしてそのもう一人は、“化け物”などと呼べないほど、真っ直ぐだった。
汗を流し、泥にまみれ、それでもなお勝利を求めて戦い続ける。
その姿は、美しかった。
二人は、異なる強さを、等しく体現していた。