「外……。外だ……」
助かった。
生きて、森を抜けた。
地図によると、一番近い人がいる場所である砦まで、まだ15キロも距離があった。
地名も、もう「東の魔境」ではない。リングピル大陸ラフィード区北の草原とある。
俺はフラフラとそのまま歩き、小高い丘を登った。
振り返れば、これまで歩いて……いや、ほとんど走り抜けてきた広大すぎる森が広がっていた。
「抜けた……。生き延びたんだ……」
自然と涙が零れた。
まだ終わりではなく、異世界での生活が始まる。それだけのことに過ぎない。
だが、生き延びた。
始めることができる。
ここから。
ここからなのだ。
『ピンポンパーン! 異世界転移者総視聴者数ランキング発表のお時間です!』
突然、頭に声が響き渡る。
あの光る花を手に入れた時と、クリエイトアンデッドを覚えた時と同じ音声だ。
視聴者数ランキング……。そんなの集計していたのか。
『おめでとうございます! 転移者ナンバー1000「クロセ・ヒカル」。あなたが、第一回視聴者ランキング第一位の栄冠に輝きました! 優勝の副賞として3ポイントが進呈されます!』
第一位と聞いても、俺は「そうだろうな」という感慨しか浮かばなかった。
10日間も生死を賭けた冒険をしてきたのだ。
他の転移者がどうしているのかはわからない。
だけど、自分が一番悲惨な目にあっているという確信があった。
『そして! 本日より地球の視聴者よりメッセージを受け取ることができるようになります! ステータスボードに、メールボックスが追加されておりますのでご確認下さい』
10億人も視聴者がいるんじゃ、凄い数のメッセージが届いてしまうのではないかと思ったが、どうやら神が『強い気持ち』を持っている人だけを選別しているので、そこまで多くならないのだそうだ。
うまく使えば、向こうの様子を知ることもできたりするかもしれない。
ステータスボードを開くと、確かに3ポイント増えていた。
これがあと少し早ければ……と思わなくもないが、結果的に俺は生きているのだ。
砦らしきものも、遥か彼方に見えている。
周囲に魔物らしきものの姿はなく、風が気持ちいい。
「ん……? メールが……、って、えええ」
メールボックスにポンと①という数字が出た、そう思った次の瞬間から、ポンポンポポポポポンと連続でメールが届き、あっという間に数百という数にまで膨れ上がった。
神が選別しているはずだったが、分母が大きい分、数が多くなるのだろう。
どれどれ、どんなメッセージだか見てみるか――
――俺は、この時のことを今でも夢に見る
――達成感を感じていた。370キロもの絶望的な距離を生き延びてきたのだ
――視聴者数も1位なのだ。みんなが応援してくれている
――そう……信じていた
――信じていたのだ
なんとなしにメールを開く。
薄萌黄色の草原がどこまでも広がる、長閑な景色。
天色の空、柔らかい日差し。
暖かで乾いた風。
弛緩した「異世界」の空気の中、そこに現れたのは想像していなかった「現実」だった。
<恋人を殺して異世界満喫しているようで最悪ですね。さっさと死ねよ。なに生き延びてんだよ>
<恋人一家を惨殺して異世界で俺TUEEEとか同じ日本人として恥ずかしいわ。今じゃ、HIKARUがTwitterの世界トレンドの常連だよ。国辱モンだぞ。勘弁してくれ>
<ナナミちゃんの未来を奪って得た力で生きる異世界の空気は美味いか?>
<地獄へ落ちろ。いや、お前には地獄すら生温い>
<生きたまま喰われちまえば良かったのに>
<あなたが生きるのに必死になっているのを見る度、ナナミちゃんも生きたかっただろうにと考えてしまいます。どうして、そうやって生にしがみ付くくせに、他人の……しかも恋人の命のことを考えられなかったんですか? あなたは悪魔です。嫌い。早く死んで>
――息もできなかった。
どのメールにも、俺に対する罵詈雑言が並んでいた。
みんなが俺の死を望んでいた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
<腹を何回も刺して殺したんだってな。よくそんなことができるな? 獣以下だろ>
<幼馴染み家族を全員殺したくせに、よくその素振りを一切見せず異世界を謳歌できるな? お前が一番のモンスターだろ>
「ナナミが……死んだ……?」
ナナミは兄妹のように育った幼馴染みで恋人ではないが、そんなことはどうでもいい。
今、開いただけのメッセージでわかることは。
ナナミが死んだということ。
そして、なぜか俺が殺したことになっているということ――
<メッセージ機能ができて良かった。お前のところに他の転移者を送る。絶対に裁いてやるからな。震えて眠れ>
<俺だったらギブアップするね。よくのうのうと生きていられるな?>
<不人気投票もやるように神に陳情してるんだよ。不人気一位にはしっかりペナルティが贈られるようなやつをな。ペナルティは地獄行きがいいなぁ>
<死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね一刻も早く苦しんで死ね>
<人類史上、最も死を願われた人間になった気分はどうだ? お前はそれだけのことをしたんだよ。理解しろ。理解した上で自決しろ>
すべてのメッセージが、俺に対する敵意に溢れていた。
手を出すことができぬ最悪の殺人者に対する正義の鉄槌。
わけがわからなかった。
応援してくれる人もいると思っていた。
面白半分で見ている人もいるだろうが、それでも生き延びたことを喜んでくれると信じていた。
「ナナミは……死んだのか……? あのまま……? こっちの世界には来ていない……? オジさんも……オバさんも……死んだ……?」
信じることができなくて、誰にともなく呟く。
死んだはずの俺が異世界に来ているように、ナナミもまた異世界に来ている。
そう思っていた。
そう願っていた。
この誰も知り合いのいない異世界で、ナナミと再会することだけが、唯一の目的だった。
オジさんもオバさんも、あの日、出てこなかったのは、すでに殺されていたからだというのか。
……だが、メッセージを見ればわかる。
わかってしまった。
ナナミが異世界に来ていないことなど、すぐに伝わったはずだ。
家に踏み込むか、そうでなくても警察を呼べばすぐにわかる。
そして、そこにはナナミと両親の死体があり。
玄関には俺の靴だけが残されていた。
本当の犯人はうまく逃げたか、俺に罪を押っ被せるかしたのだろう。
「かはっ……!」
胃の中身が逆流する。
直接的な悪意に曝されたこと、ナナミとナナミの両親が死んだこと。
その二つの事実の前に、俺は大地が揺らぐほどのショックを受けていた。
立っていることもできず、その場に座りこんでしまう。
呼吸すら、うまくすることができない。
本当は……わかっていた。
ナナミが死んだこと。
俺は動かないナナミを見たのだから。
だけど、信じたかった。
信じる他になかった。
ナナミもこっちに来ていると信じることで、俺はこの森を抜ける気力を保つことができたのだ。
俺自身も自分のことだけで精一杯だった。
前を向かなければ、ここまで脚を進めることができなかったのだ。
<お前の両親も双子の妹も、日本にいられなくなって海外に引っ越したぞ。まあ海外でもすぐバレるんだろうけどな。死んで詫びたほうがいいんじゃねーの?>
<お前の双子の妹たち、すげー頭いいらしいな。まあ、もう将来ねーだろうけど>
<お前の家、物理的に燃えたぞ>
「なんで……なんだよ……! なんなんだよ!」
涙が止まらなかった。
自分自身が生きるのに必死で、地球がどうなっているのかなんて考えていなかった。
でも、しょうがないだろ!
俺だって突然異世界に送られたんだから!
俺だって殺された!
今、こうしてここにいるのは、幸運か、あるいは運が悪かったからで。
望んで来たわけじゃない……!
言いたいことはいくらでもあった。
でも、その言葉は声になることはなかった。
感情が溢れ、その上からまた別の感情が上書きしていく。
「俺がナナミを殺すなんて……そんなことするわけないだろ……! 幼馴染みだぞ……! 生まれてから、ずっと一緒だった相手を、どうして殺すんだよ……! 俺も、ナナミも殺されたんだ! 俺はこんなところに来るつもりなかった!」
気付いたら俺は誰にともなく、わめいていた。
「ナナミには最後の別れを言いに行ったんだ……! そしたら、知らない同級生がいて、後ろから刺されたんだよ! ナナミは俺が行った時には殺されてた……!」
意味のない弁明だ。
頭のどこかで、そう理解できてしまう自分がいた。
インターネットを中心とした炎上は、何度も見ている。
炎上を止める方法は二つ。燃料を遮断することだけだ。俺が今やっているのは、延々と燃料をくべ続けるような行為。
おそらくエスカレートするだけだろう。
「……家族は……家族は関係ないだろ……! 俺の家族が何したってんだよ……!」
結局、この世界を巻き込んだ異世界転移は、俺には無関係ではなかったのだ。
俺の家と、ナナミの家。二つの家庭を破壊した。
メッセージの数はまだ増え続けている。
この中には、両親や妹たちからのものも含まれているのだろうか。
俺にはそれを開く勇気がなかった。
「クソ……」
もう俺は消えてしまいたかった。
だが、死ねるわけがなかった。
どれだけの悪意に曝されようと、370キロもの距離を生き延びてきたという事実が、死を選ばせる心境にまで至らせなかったのだ。
『神からのお知らせです。異世界へ持ち込んだアイテムが収納されている場所に気付いていない転移者が若干名いるようです。ステータスボードの持ち込みアイテムのところタップして実体化して下さい。あと5日間、実体化されなかったものは、すべて消滅となりますのでご注意下さい』
神からの追加アナウンスだった。
そういえば、異世界転移にはアイテムを持ち込めたのだった。
俺は急な転移だったから、何も用意していなかった。もちろん、その欄は空だろう。
なのに、それを開いてしまったのは、何かの予感があったからかもしれない。
ステータスボードの「持ち込みアイテム」をタップすると、一冊のアルバムが実体化してポトリと地面に落ちた。
「…………え……」
パステルカラーのフォトアルバム。
ナナミが最後に胸に抱いていた――
そして、俺が最後に触れたものだった。
俺は震える指でそれを手に取り、表紙を開いた。
「ナナミ……バカ……。こんなもん異世界に持ってってどうするつもりだったんだよ…………」
小学校入学のとき、お互いの両親と並んで撮った写真。
ディスティニーランドで俺が池に落ちた時の写真。
ゲームの対戦で遊び疲れて妹たちとナナミが寝落ちした時の写真。
中学校入学の時にブカブカの制服で並んで撮った写真。
窓越しに俺と話しているときにふざけて撮った写真。
借り物競走で「幼馴染み」として借り出された時の写真。
高校の合格発表を家族で見に行った時の写真。
写真の中のナナミは笑っていた。
写真の中の俺も笑っていた。
「ぐっ……クソ……」
失った。
写真を見たことで、そのことが鮮明になった気がした。
地球でのことがすべて嘘だったんじゃないか。
異世界という、まったく別の世界にいることで、そんな風に感じる自分がいたのは否めなかった。
だけど、本来ならばナナミが持っていくはずだったこのアルバムがここにあることが、ナナミは死んで、こちらには来ていないという証拠だった。
――あはは
――クスクス
泣き崩れる俺を、誰かが笑っていた。
好奇の視線で、俺を見ていた。
自分で殺したくせに、悲しんだふりをしていると笑っていた。
自分が殺したくせにと、笑っていた。
得意なことなどなにもない、ただの凡庸な高校生である俺を笑っていた。
写真の中のナナミも笑っていた。
写真の中の俺も笑っていた。
――あはは
――きゃっきゃっきゃ
どこか遠くから、俺を笑う声がする。
すぐ耳元から、俺を笑う声がする。
――俺は、この時壊れてしまったのだろう。
明るい場所では視線を感じるようになってしまった。
敵意と――悪意と――そして、好奇に満ちた視線を。
「ダークネス……フォグ」
リアルタイム視聴者数10億人。
地球上では、10億の人間が俺に敵意を送ってきている。
俺が失敗するのを今か今かと楽しみに待っている。
俺が無様に地面に這いつくばり野垂れ死にするのを――
俺は闇でその視線を遮断した。
この深い深い闇の中にまでは、その視線は届くことがない。
ステータスボードを閉じ、歩き出した。
砦に向かう気にはなれなかった。
どこか、深い深い闇の底へ沈んでしまいたかった。
誰の目も届かぬ場所で息を潜めて生きよう。
もう誰にも傷つけられないように。