じゃらじゃらとかさばるばかりの小銭袋の中身を、安宿の隙間だらけのテーブルの上に並べる。
(十………二十……、二十八枚か……)
小銀貨二十八枚。
銅貨はなるべく使い切るようにしているので、別の小銭入れに十枚ちょっとといったところか。
(宿代を来週分支払って、食費やらなんやらで、今のペースじゃ足が出るか……)
この迷宮街に来て10日あまり。金には全く余裕がない。
日々の生活の為にダンジョンに潜っているが、上手く稼げた時はプラスになるが、そうでないならトントンかマイナス。総合的にはプラスではあるが、いちおうは危険な仕事をしているわりには実入りは少ない。
死んだ探索者の装備を売るといっても、そんなものが毎回見つかるわけではない。
ほとんどは、時々落ちている精霊石なんかの収入だった。
買い取ってくれるのが闇市だからか、安く買い叩かれているような気もするが、こればかりは仕方がない。
俺は、まだ積極的に人と関わるような心境にはなれずにいた。
(宿から出て部屋を借りるという手もあるけど……)
長期的にはそのほうが安く済むかもしれない。
ここは探索者の街。探索者向けのアパートなんかもあるだろう。
だが、実際に借りたとして、今は宿に泊まることで省略できていることがいろいろ圧し掛かってくるのではないのだろうか?
食事は屋台がいくらでもあるからいいとしても、洗濯、お湯の用意、家具だって必要になるだろう。部屋を借りるには最初に保証金を支払う必要だってあるかもしれない。
目標にするのはいいが、金がない現状では難しい。それに一人暮らしをしなければならない積極的な理由もなかった。
「それよりも、もっと稼げるようになったほうが……」
結局、金だ。
金がなければ生きていけない。自給自足の生活をするのなら別だが、俺はそれを選ばなかったのだから。
闇の中で生きると決めたのだから。
「……ステータスオープン」
この言葉で、眼前にコンピュータゲームさながらの半透明のウィンドウが浮かび上がる。
この街に来てから俺は、数日に1回だけステータス画面を見ることにしていた。
地球のことは忘れたいくせに。
……いや、だからこそ、リアルタイム視聴者数が減ってきているかどうかを知りたいという欲求に逆らうことができなかったのだ。
ステータス画面では、数々の情報が得られる。
異世界転移スタート時からは、いくつか項目が増えた。
「リアルタイム視聴者数 4200万人」
「累計総合視聴数 62億8000万人」
「お気に入り 14億6000万人」
「総獲得クリスタル 49」
「総獲得ポイント 7」
「転移者数 723/1000」
「クリスタル所持数 21」
「ポイント所持数 5」
視聴者は一時期と比べたらかなり減っていた。
それでも下何桁だかが省略表示されるほど多い。
一日のほとんどを闇に紛れ、そうでなければ宿屋で寝ているだけの生活で、面白いものなどなにもない。
――そのはずなのに。
「くそっ……」
まだ4000万人もの視聴者がいる。
リアルタイムでこれなのだ。デイリーでは今でもコンスタントに1億を超えている。
転移者もすでに200人以上が死んだようで、生き残っている者への注目度も相対的に上がっているのかもしれない。
生き残るほど注目度を高めてしまうのだ。
俺は画面を閉じて、ため息をついた。
(まあ、それでも結果は出てきてるんだ。地道にいこう)
どう生きるにせよ、今のままでいいとは俺も思っていなかった。
かといって、積極的に生きる理由も見いだせない。
なるべくポイントやクリスタルは使いたくなかった。
ポイントを使えば、金とだって交換できるだろうが、それはしたくなかったのだ。
俺をこの状況に追い込んだ神に対する、ささやかすぎる反抗心だった。
(今日はもう寝て、金のことは明日考えるか)
安宿とはいえ、個室は高い。
安い大部屋で雑魚寝でもすればいいのだろうが、どうしても無理だった。
人の目が気になるというのもあるし、粗野でがさつな大男たちがたむろする、あの大部屋で眠るくらいなら、まだ野宿したほうがマシだ。
本来ならば俺程度の探索者には個室は早い。それもパーティ単位でなく、一人で個室を占有するのは金を持っている中堅以上の探索者か、そうでないなら変わり者かだ。
この異世界で、俺の唯一の贅沢であり、我が儘だと言えた。
今も、迷宮から外に出れば、視線は感じている。
クスクスと、どこからか笑い声が聞こえてくる気がする。
それでも俺は、明日も明後日も生きなければならないのだ。
もぞもぞとベッドに入る。
安宿の割に、十分柔らかく寝心地の良いベッドだった。
マットレスの中身は、よくわからない綿のようなもの、毛のようなもの、羽毛のようなもの、それと藁とがミックスされたもので、虫が湧いていそうだったが、毒耐性と病気耐性に期待して、気にしないようにしていた。
(夜中に起きて、また迷宮に潜るか……)
そんなことをボンヤリ考えながら目覚ましをセットし目を閉じる。
眠りに入るか入らないかのところで、『コンコン』と入眠の邪魔をするように部屋をノックする音。
俺を訪ねてくる人間などいるはずがない。
いるとすれば、宿の人間だろうか。
料金は先払いだ。不備はないはずだが――
俺は、力を振り絞って身体を起こし、軋むドアを開いた。
「あ~ら、ずいぶん可愛い子ね? ボクひとりかしら?」
そこにいたのは、薄布としか言い様がない扇情的な赤い服を身に纏った赤毛の女性だった。
宿の人間にこんな人いただろうか?
「ひとりですけど……」
「へぇ、じゃああなたが一人で部屋を借りているの? ふぅん……身ぎれいにしているし、いいところのお坊ちゃんかしら……?」
詮索するように、あるいは値踏みするかのように、女性は俺の全身をねめつける。
そして、一歩距離を詰め、言った。
「どうかしら? 一晩。初回だし、安くしておくわよ?」
最初、言葉の意味が理解できなかった。
女性は肢体を艶めかしくしならせ答えを待つが、俺は声を出すこともできない。
一晩……? 安くしておく……?
「そうね、お兄さんなら……銀貨2枚でいいわよ」
さらに一歩。
俺との距離を詰め、妖艶に笑う。
彼女は自分が何者で、何の用件で、何が銀貨2枚なのか、はっきりと言わなかった。
つまり、言わなくても理解できるでしょう? ということなのだ。
彼女は美人だった。
背中に垂らした焦茶色の髪はわずかにウェーブし、薄布の下の肢体は男のそれとは違って、つい見てしまいたくなる蠱惑的な曲線で構成されている。
俺は、女性と付き合ったことがない。
高校一年生で、それは普通のことだったけれど、女友達もナナミ以外にいなかったし、そのナナミもどちらかというと兄妹のような関係。
二人の妹は3つも離れていて、頭は次元違いに良かったが家では完全にただの悪戯好きのお子様だった。
だからというわけではないが、この状況に対応する経験値が不足していた。
一言断ればいい。
それだけなのに「あ。あ」と情けない声を出して、ただ狼狽えてしまう。
女性にこんな鼻と鼻がくっ付くほど距離を詰められたことがなかったのだ。
だから、女性が俺の右手首をそっと掴んでも、なすがままになってしまった。
そして、彼女はそのまま俺の手のひらを自分の乳房へと押し当てて――
「あんッ、どう? けっこう自信あるのよ?」
「あ……。う……」
脳に電流が走ったかのようだった。
その経験したことがない、柔らかさに、なにより久方ぶりに感じる人の熱に、脳の芯を痺れさせられてしまう。
「ふふ……、経験ないのね……? 可愛い」
胸に俺の手を押しつけたまま、ほぼ抱きつくほどに身を寄せる。
頬に掛かる吐息。
全身に感じる、生きている人間の熱。
――俺は今、きっと地蔵のように直立し、顔を茹で蛸のように赤くして、とても情けない姿だろう。
そう、冷静に今の自分の姿を俯瞰した瞬間だった。
――あはは
――きゃっきゃ
笑い声が聞こえた。
同時に、突き刺すような好奇の視線も。
世界中の人間が俺を見ていた。
幼馴染みを殺した人間が、異世界で娼婦に籠絡されそうになっている様を。
期待している。
10億人の視聴者が。
――俺が娼婦に誘惑され、タジタジになるのを。
――俺が情けなく財布から銀貨を取り出すのを。
――俺が彼女の胸を夢中で吸うのを。
――俺があっという間に果て、苦笑いで顔を赤くするのを。
「は、放せっ!」
「キャッ」
俺はとっさに女性を突き飛ばした。
彼女はドアの外で尻餅をついた。
罪悪感を覚えて一瞬躊躇したが、俺はドアを閉め、かんぬき錠を掛けた。
「はっ! シケた童貞が!」
悪態と共にドアを蹴飛ばす音が聞こえ、娼婦はそのまま足音を響かせて去っていった。
――クスクス
――あは、あはは
廊下から漏れ込んでいた光がなくなり、闇に閉ざされた部屋の中。
誰かが俺を笑っていた。
無頼を気取っても、本当は人恋しかったのだろう? と笑っていた。
――恋しい。
それが本音だ。
何の覚悟もなかった。
15歳だった。
将来の事だってろくに考えてない学生だった。
それがこんな誰も知り合いのいない異世界に来て、心細くないはずがない。
「うっ……、くそっ……くそ……」
闇で塗り固めていた自分の本当の気持ちを暴かれた気がして、涙が零れてきてしまう。
こんな姿すら、視聴者たちにとっては悦びの種なのだろう。
泣き顔すらもコンテンツとして消費されてしまう。
そう考えれば考えるほど、涙は止まることなく溢れ出た。
「ぐすっ……なんでだよ……止まれよ……くそ、くそ……」
嫌だった。
俺のこの気持ちは俺だけのものだ。
わかるわけがない、安全を保証された外側で見物して好き勝手言っているだけの連中に、わかったような顔なんてされたくない。
だったら、誤解されたままでいい。
理解したつもりになられるより、そのほうが何倍もいい。
「……ダークネス・フォグ」
精霊力が闇の霧へと変質し、俺の体を包んでいく。
光差さぬ部屋が完全なる闇に包まれる。
闇の中だけが俺にとって安心できる空間だった。
闇よ――
泣き言も。
涙も。
弱音も。
すべて、すべて覆い隠してくれ。