次の日はもう何もやる気がしなかった。
一日、宿で引き籠もった。
誰とも会いたくなかった。
人と関わるのが怖かった。
安全地帯から、ただ俺の精神を攻撃してくる敵と戦う方法は、闇に隠れジッとしている以外に思いつかなかった。
そうして、ただ闇と同化していることで、俺はこの世界から消え去ることができた。
ここには、あの目も届かない。
安寧と虚無にくるまれて1日をやりすごした次の日の朝。
俺は唐突に脳内に鳴り響くアナウンスで目を覚ました。
『異世界転移者のみなさま、本日より新たなポイント獲得手段として、「ポイントの前借り」と「再ランダム転移」が可能になりました! ポイント前借りは最大3ポイントの前借り、再ランダム転移では、危険への代償として10ポイントが進呈され、さらに「愛すべき者」の選択も可能です。ご利用は慎重にどうぞ――』
なるほど、ポイントが全く無い転移者に対しての救済措置なのだろう。
俺にとっては関係ないが。
……中にはランダム転移を選ぶバカもいるのだろうか。
さすが神。なかなか悪辣だ。
木窓を開くと、柔らかい風が頬を撫でる。
よく晴れた朝だった。
――グゥ
なにもせずに過ごしていても、腹は鳴る。
生きていることのバカバカしさに辟易しつつも、死ぬことを選べるわけでもない。
ステータスボードを開くと、リアルタイム視聴者は1000万人まで減っていた。
おそらくこの視聴者たちは動きがあるまで、画面を出しているというだけで、積極的に視聴しているというわけではない……だろう。
俺の生活といえば、わずかな雑音こそ聞こえるにせよ、あとはひたすらに闇の中に部屋の輪郭だけが映し出されているだけのはずなのだから。
だが、逆になにか動きがあったら、その瞬間にその情報が拡散され、あっという間に視聴者は膨れ上がる。
そういう視聴スタイルが確立されているであろうことは、容易く想像できた。
気は抜けない。
(とはいえ、このままじゃ無一文になって宿を追い出されるな)
さすがに、そこまで落ちていくわけにもいかなかった。
俺は重い腰を上げた。
早朝の街は活気がある。
深夜の死んだような街とは正反対だ。
あまり明るい時間に外に出たくないのだが、飯の調達だけは明るいうちでないと難しい。深夜に営業している店舗など皆無なのだ。
その代わり、人々は早朝から活動を開始し、朝市や屋台で食料を調達することができる。
(異世界なんだなぁ……)
大きい人間、小さい人間、猫のような人間、犬のような人間、耳の尖った人間……。
多様性の坩堝だった。
俺もこんな状況でなければ、この異世界という全くの別世界に驚き、いろいろなものに興味を示して楽しんでいたのかもしれない。
だが、今の俺には何もかもが灰色に映った。
黒髪黒目の日本人は異世界では目立つ――かつて読んだ小説では、よくある設定だったが、ここでは別に目立つことはないようだ。おかげで注目を集めることもなく、屋台で食料を買い求めることができる。
こういった普通の生活なら、視聴者たちもいちいち注目したりはしないはずだ。
あるいは、この街にも「異世界転移者」がいるのかもしれないが、出会う確率は低いだろう。それに、俺はイレギュラーで転移者になったから、向こうがこっちを知っている可能性はゼロだ。
俺は手早く食料を買い求めると、逃げるように朝市を後にした。
人の多い場所に苦手意識が生まれていた。
あるいは、人が怖くなっているのかもしれない。
日中は宿に引き籠もって過ごし、夜になってから宿を出た。
迷宮の入り口では、必ず4人の兵士らしき者たちが見張りをしている。
昼間に忍び込むことは難しいだろうが、夜ならば問題ない。
「ダークネスフォグ」
宿では術の|通り(・・)が悪く、あの部屋一杯の闇を張るのが精一杯だが、迷宮付近では逆に通りが良すぎるほどだ。
とはいえ、巨大すぎる闇は不自然だ。
俺は、2メートル範囲程度の闇を纏い、迷宮へと滑り込んだ。
俺は闇を纏ったまま第一層を走り抜け、第二層へと向かう。
第二層は死体漁りをするのにはうってつけだった。
「魔物が群れで出る」
「強そうな魔物も出る」
「一層から簡単に来ることができる」
「一層と比べて迷子になりやすい」
「一層より暗い」
という特徴があり、探索者が全滅しやすい条件が整っているようだった。
この街に来て一〇日。ほぼ毎日通ったが、三日に一度は誰かしらが死んでいた。
厳密には「死んだらしい」である。死体は一度も見ていない。
ただ、抜け殻だけが落ちているのだ。
だから、俺もそれを漁ることに抵抗を感じなかった。
もちろん、二層全域を回れるわけではないから、死者は毎日もっと出ているのかもしれない。だとすると、あの迷宮がどれだけの命を吸っているのか。
まだ探索者たちが全滅する現場には出くわしたことがないが、それに出くわすのも時間の問題なのかもしれない。
俺はダークネスフォグを切らさないように、迷宮の中を歩き回った。
この階層の魔物達も、闇の中では俺の存在を知覚できないようで、術の効力が続く限り好きに歩くことが可能だった。
死者の装備を剥ぐのも稼げるが、なぜか精霊石がぽつんと落ちていることも多い。そういったものを拾っても、まあまあの稼ぎになる。
時々、他の探索者と出会うことがあるが、俺はそれを闇に紛れてやりすごしていた。
「おらっ! 斥候が先に行かなくてどうすんだ! さっさと見に行けよ!」
「ご、ごめんにゃさい。でも、足にケガして」
「靴を履かねーからだろうが! 靴を! ったく使えねーな」
「おい、もういいだろ。置いてこうぜ」
「そ、そんにゃ! こんなとこで置いてかれたら……」
たまに見かけるパーティだった。
どうやら、斥候役の猫の獣人がケガをして歩けなくなってしまったようだ。
「俺達はお前を斥候として雇ってるんだぞ! 役に立たねーなら解雇に決まってんだろ。解雇だ、解雇。じゃあな」
猫の獣人を置いて、松明片手にどんどん先へ進んでいく3人の探索者たち。
獣人も置き去りにされまいと、片足を引きずって進むが――どうやらダメそうだ。
(あー、もうなにやってんだよ……)
猫の獣人は、諦めたのかその場でメソメソと泣き出してしまう。
第二層といっても、ここから一層まで数百メートルは歩かなければならない。魔物に出会わず脱出するのは不可能だろう。
一層まで上がれたとしても、別に一層が安全というわけでもない。
(くそっ)
放っておくという選択はできなかった。
これがもし人間だったなら無視していたのかもしれない。
だが、猫の獣人は本当に猫がそのまま二足歩行を開始したような容姿をしている。それで、保護しなければという気持ちが芽生えてしまったのだと思う。
俺はステータスボードで、5クリスタルを使ってポーションと交換した。
1クリスタルのポーションはかすり傷にしか効かないという説明だったので、5クリスタルだ。見た感じそれほど深い傷ではなさそうだ。スクロールは必要ないだろう。
「それを使いな」
俺は闇に隠れたまま、ポーションを獣人の足下に置いた。
「えっ、えっ、誰ですか!? にゃ!? ポーション……?」
「ケガしたとこにぶっかければいいらしいぞ」
俺はポーションを使ったことがない。
体力ポーションや精霊力ポーションは飲み薬だったが、ケガ用のは患部に直接かけるタイプらしい。説明にそうあった。
猫の獣人がポーションを使うと、ざっくり切れていた足……というか、肉球の傷の血が徐々に止まっていく。いきなり完治したりはしないようだが、あとは包帯などで処置しておけば問題ないだろう。
「こ……これって中級以上のポーションじゃ……。わ、私、こんなのお金払えませんにゃん……」
耳を伏せて、そんなことを言う猫の獣人。
意外と貸し借りが厳密なのだろうか。
「俺が勝手にしたことだ。金なんかいらないよ」
「にゃ、にゃんで? じゃあ私どうすれば……」
どうすれば……か。
別にどうもこうもないんだが。
俺が見てられなくて助けただけなのだから。
「そうだな……。まあ、とりあえず出るか。それとも一人で冒険続けるのか?」
「いえ、一人じゃ『飢獣地下監獄』は無理にゃ……。一層でも怪しいのに」
飢獣地下監獄というのが第二層の名前なのか?
この子――声から察するにどうも女の子らしい――に、この迷宮の情報を聞き出すのもいいかもしれない。
「包帯はあるのか? 処置したらいくぞ」
一応最低限のものは持っていたようで、ガーゼを貼り、包帯で患部をぐるぐる巻きにしていく猫の獣人。
「歩けるか?」
「こ、これにゃら平気です」
「じゃ、少し付き合ってもらうから。ついてきて」
俺は闇を広げ、彼女の手をとった。
「にゃにゃにゃ! まっくらにゃ!」
いきなり猫っぽく驚くので、俺まで驚く。
とにかく闇の中なら、魔物と出会うこともない。
「静かに。一度一層まで戻るぞ」
「にゃ、にゃぁ~」
俺は猫獣人の手を引いて、一層へと向かった。
ノーリスク……かどうかはわからないが、斥候なんてやっているくらいだ、この迷宮のことは詳しく知っているだろう。