「ふぅ。かなり綺麗になってきたな」
俺はなぜか二階層の掃除を続けていた。
グレープフルーを気の毒に思ったから――最初は、それが理由だったのだが、単純に迷宮が綺麗になっていくことに達成感があったのだ。
迷宮の第二階層である「飢獣地下監獄」の構造についても、かなり詳しくなった。
2層はかなりの広さだが、地図がなくても迷うことはないだろう。
魔物の群れがたむろする大部屋や、風呂のようになっている綺麗な水が出てくる水場、監獄の外という扱いなのか、庭園のような場所など、最低でも第一層と同程度の広さはあるだろう。
それだけの広さを掃除していくのは、ほとんど趣味の領域に近い行為だった。シャドウバッグはバッグの中身がごちゃごちゃになることがなく、基本的に入れた物は個別に管理することができた。ある程度いっぱいになったら、2層の中でもアクセスの良い小部屋に積み上げておいた。どこに捨てればいいのかよくわからないし、とりあえず猫の獣人がケガをしなければいいのだから。
棚からぼたモチ的に、シャドウバッグの
出現する魔物も一通り見たと思う。
小さい小鬼はゴブリンというらしい。戦闘中の探索者がそう呼んでいるのを聞いた。
犬と人間のハーフみたいな魔物はコボルト。
棍棒を持った大男はオーガ。
豚と人間のハーフみたいなデカい魔物はオーク。
どれもどこかで聞いたことがある名前だが、これは翻訳の都合でそうなっているだけかもしれない。地球の人間が視聴する関係で、翻訳をローカライズする。よくあることだ。
逆に俺にはローカライズ前の「異世界語」での魔物名を知る術がない。自動翻訳は非常に便利だが、すべてが勝手に日本語に翻訳されるので、その前を学習できないのだ。
もし神の気まぐれで自動翻訳が切れたら、いきなりバベルの塔の如く、言葉が全く通じない男ができあがってしまう。
……まあ、今のこの生活ではあまり困らないかもしれないが。
ちなみに一番強い魔物は、オークでもオーガでもなく、稀に一体で現れる危険なやつだ。
俺も2度しか見かけたことはない。
(今日は空振りかな……)
死体がないこと自体は良いことなのだろうが、俺の生活的にはピンチだ。
かといって他の生きる方法も考えられない。
最終的には、開き直って魔物と戦うしかなくなるのかもしれないが、それには、せめて、もう少し注目度が下がって、人々が俺のことを忘れて視聴者数が激減するまで待ちたかった。
おそらく、俺以外の転移者たちは刺激的な生活や冒険で、視聴者を集めているはずだ。
そうすれば、俺がちょっと魔物と戦ったくらい、誰も気にもとめなくなる。
――きっと……そのはずだ。
だからそれまでは、まだしばらくこの生活を続けよう。
(…………ん? こんな所に扉なんかあったか)
第二層をいつものように闇に紛れて移動していると、唐突に目の前に薄く輝く扉が出現していた。
飢獣地下監獄は、まさしく巨大な監獄であり、鉄格子のない牢屋とでもいうべき小部屋はいくつでもあるが、扉は存在しない。
少なくとも、俺が見た範囲には扉などなかったはず。
だが、現実に怪しい輝きを発する扉がいきなり姿を現したのだ。
(なんだ……?)
謎だ。
とてつもなく怪しい。
だが、放置するのも惜しい気もする。
怪しい扉ではあるが……開けてみたい。
(……使うか)
グレープフルーにポーションを使ったことで、クリスタルの使用くらいならいいかという気分になってきていた。
視聴者数もわずかずつだが減ってきている。そのことが少し俺の心を軽くしていた。
メッセージの数は相変わらず増え続け、未開封が3000を超えている。
そちらは自分の中で存在を抹消し、見ないことにしている。
1クリスタルを使用し、扉に向かってアイテム鑑定を行う。
扉がアイテムとして認識されるかどうかは賭けだったが、うまくいった。
『宝物庫の扉: 神獣リリムーフが気に入った探索者へ贈り物をするために設置する扉。贈り物をされた者だけが認識し中に入ることができる。中の
「お宝って、これのことなのか!」
少し前に、
てっきり、宝箱がそのへんに落ちてるのかと思ったが、そうではなかったらしい。
説明を見て安心した俺は、扉の中に入った。
中は簡素な個室で中心の台座の上に、握りこぶし程度の玉が置かれていた。
(宝石みたいなもんかと思ったが……ガラス球って感じだな)
この段階では、中身が何かはわからない。
つまり、これそのものが「宝箱」なのだろう。外に出て、初めて開封できるのだそうだ。
「……ありがたいな」
金欠の俺にとって、たとえ中身がどんな物だったとしてもお宝だ。
迷宮を掃除していたのを見ていた神獣が、ご褒美をくれたということなのかもしれない。
どういうものが出るのか想像もできないが、少しは生活に余裕ができたらいいな。
(せっかくのお宝だ。一度外に出るかな)
まだ早い時間だったが、一度迷宮の外に出ることにした。
1階層への階段はすぐ近くだ。
早く中身を見たかった。
――キィン!
――ガキィン!
――逃げて! あなたたちは逃げなさい!
遠く、剣戟の響く音と切羽詰まった叫び声が聞こえてきたのは、その直後だった。
――煙玉はッ!?
――さっきので最後だったんですよ!
――臭い袋もありません! ど、どうしましょう
――キィン! ギャリン!
――逃げなさい! 早く! そうは保たない――
――でもッ――
(――近い!)
そう考えた次の瞬間には、俺は現場へ脚を向けていた。
第二層である飢獣地下監獄は広く入り組んでいて、他の探索者が魔物と戦っているところに出くわすことは少ない。
稀に出くわしたとしても、見つかるのを恐れて俺はあまり近付かないようにしていた。
闇は隠密行動という意味では強いが、見つかってしまえばどうにもならない。
俺自身の戦闘力はゼロに近いのだから。
それでも現場に向かったのは、聞こえてきた声があまりにも切迫していたからだ。
グレープフルーの時のように、何かできることがあるかもしれない。
自然にそう考えた自分自身がおかしかった。
自分のことだって、できていないことばかりなのに。