毎年、この匂いを嗅ぐと嫌な記憶が蘇ってくる。
私はこの季節が嫌いだった。
「ここで、待っていてね」
「お母さん、どこに行くの?」
「少し用事があるの。ふたりとも待てるわよね? この近くでなら遊んでいていいから」
「すぐ戻ってくる?」
「少しかかるかもしれないわ。でも日が暮れるまでには戻るから」
「そしたらまたあの甘いの食べさせてくれる?」
「いいわよ。また買ってあげる。お腹いっぱいになるまで……」
そんな言葉を残して、孤児院を背に歩き去る母の姿。
その日のことだけは強烈に覚えている。
淡黄色の
人々が踊り歌うルサリーの祝日で、珍しく母が
あれが母なりの贖罪だったのか、今となってはわからない。ただの気まぐれだったのかも。なにせ、今となっては母のことなどほとんど覚えていないのだ。
まだ幼かった私たちは母の「すぐに戻る」という言葉を一切の疑いなく信じた。
半日以上経って、施設の人間がうんざり顔で庭で遊ぶふたりを保護するまで――いや、保護されてからもしばらくは「捨てられた」ということを理解できなかった。
それが、一つ目の裏切り。
◇◆◆◆◇
私と妹――ナディア・ルプとリディア・ルプは一卵性双生児だ。
どこで生まれたのかも、父親が誰かもわからない。
母親の記憶も曖昧で、ブルネットのつややかな髪を持つ美しい人だったことは覚えているが、声だって覚えていないし、どういう仕事をしていたのかも知らない。
ルプという苗字だって、この国ではありふれたもの。
親戚がいた記憶もない。
いつも、私とリディアはふたりきりで暗く寒い小屋で母が帰ってくるのを待ち続けていた。
でも、寂しいという感情を持った記憶はほとんどなかったように思う。一人じゃなかったから。お互いがお互いを支えあえたから。
生活は苦しかったんだと思う。
私もリディアもおなか一杯食べた記憶はほとんどないし、甘いものを食べた記憶だってない。服も1枚か2枚しかなくて、冬はお母さんのセーターを着せてもらっていたし、独特な臭いのしみ込んだ毛布に家族3人で包まって冬の寒さをしのいだものだ。
でも、捨てられてしまった。
母は一人だったから、私たちの面倒を見るのは負担だったのだろう。
保護された施設はいわゆる孤児院で、私と同じような事情の子どもたちが何人も暮らしていた。
母親はいなくなったけれど、施設では一応食事も出るし、寝るための部屋もあったから、ふたりでホッとしたことを覚えている。
ふたりともまだ状況に流されることしかできない子どもで、6歳くらいだった。
正確な年齢はわからないから、もしかすると、もっと幼かったのかもしれない。
そうして施設での暮らしが始まったのだけど、それは決して楽しいものではなかった。
母親と暮らしていた頃に無かったもの――着る物や食べ物や暖房――がある暮らし。でも、あのころあった自由や精神的な温もり、なにより私たちを守ってくれる存在がいなくなるということ。その意味を知ることになった。
人は自分とは違うものを排斥したがる。私たちのような双子はまさにその対象だった。
目が悪くて、外ではサングラスがないとまぶしくていられないし、他の子たちよりも、ずっと色白で不健康そうなのも、不気味さに拍車をかけたようだった。
年長者はこぞって私たちを虐めたし、年の近い子どもたちも、私たちを気味悪がって排斥しようとした。私たちはわかりやすい弱者で、孤児院という閉鎖空間において、弱者は食い物にされるだけなのだった。
私にはリディアが、リディアには私がいたから。支えあうことができたから我慢ができたけれど、そうでなかったならとっくに心折れていただろう。
食事を取られたことだって何度もあった。特別な日にだけ支給される
食事に虫を入れられたことだってある。寒い部屋にふたりで閉じ込められたこともある。
軽い暴力は日常茶飯事で、髪を強く引っ張られて毛が抜けたことも、指の骨を折ったことだってある。
それでも、私たちはここで暮らすしかなかった。
他に行ける場所なんて、どこにもなかったから。
◇◆◆◆◇
そんな暮らしが続き、私もリディアも自然と脱走を考えるようになっていた。
ふたりでならなんとかなる――根拠はなかったが、それでも今の暮らしよりは良いものになるはずだった。
だけど、行く当てなんてない。
生きていることが罰であるかのような暮らしだけが続いていた。
どこかに行きたい。
どこかに、私たちを受け入れてくれる場所があるかもしれない。
でも、実際にどこかへ逃げ出すことなんてできるはずがない。私たちはお金なんて1レウはおろか1バンすら持っていないのだ。近くの町にも行けないし、そもそも、私たちはこの施設がどこにあるのかさえわかってはいなかったのだから。
そんな私たちにできる唯一のことは勉強だった。
他の子たちは勉強があまり好きではないから、勉強部屋にはほとんどやってこない。
ただ生きているというだけでは、決して幸せにはなれないことを、私もリディアも身に染みてわかっていたから、だから勉強をしようということになった。
施設の役に立たないババアも、勉強ができれば良い里親が見つかると言っていて、私たちは真に受けたものだ。
勉強は得意だった。
それが生存本能に根ざしたものだったのか、それとも元々頭が良かったのかはわからない。少なくとも施設の中では年長者を含めても、私たちよりも勉強ができる子はいないようだった。
それが功を奏したのか、私とリディアはソーシャルワーカーさんの目に留まり、優先的に小学校へと通わせてもらえるようになった。学校でも好奇の視線は相変わらずだったけれど、勉強ができたからあまり虐められずに済んでいた。
図書室にはたくさんの本があって、しかもそれは無料で読むことができた。
でも、それが逆に施設に残る子たちには面白くなかった。
学校がない日、私たちに逃げる場所はない。彼らは、私たちに対する虐めを加速させ、ふたりいれば大丈夫とも言っていられなくなってきた。
人は自分とは違うものを排斥したがる。
私たちは自ら「違うもの」になってしまったのだ。
ワーカーさんも別に私たち2人の味方ということはない。実際にイジメを訴えたところで、叱られた方は、さらに私たちを憎むようになる。離れる以外にないのだ。
イジメは苛烈さを増し、リディアはもうそろそろ限界だった。
衝動的に壁に頭を打ち付けたり、柱を殴りつけて怪我をしたりした。虐めに来た男の子に半狂乱でとびかかって髪の毛をむしり取り、折檻部屋に入れられた。
転機が訪れたのは10歳の誕生日のこと。
唯一私たちに良くしてくれていたミカエラ姉さんから、一緒に外に出よう誘われたのだ。
それは、ハッキリとした「脱走」のお誘いだった。
ミカエラ姉さんは元々施設にいた人で、何年か前に巣立っていた。彼女はここでそれなりに楽しく過ごしていたからか、実家に戻ってくるような感覚で、年に何回かお菓子なんかを持ってやってくる。
歌が好きな人で、私たちにも歌を教えてくれて、いっしょに歌ってくれた。彼女といっしょの時だけは、少しだけ心を開くことができたのだ。彼女がいなくなる時は、私もリディアもワンワン泣いたものだ。
そんな姉さんからの脱走の誘いを、私たちは一も二もなく乗った。
リディアも、私自身だって限界だったのだ。
「きっと、これが最後のチャンス」
そんな風に思ったものだ。
「一緒にブカレストで暮らそう。知ってる? この国で一番大きな街なんだ」
もちろん知っていた。算数も英語も勉強したけれど、この国のことだっていろいろ勉強したから。
私たちは、その話に飛びついた。
わずかな荷物を持って、夜中に施設を抜けだし、朝一番のバスで駅へ。
駅からブカレストまでは電車で1時間もかからなかったと思う。
思っていたよりも首都に近い場所で暮らしていたらしい。
バスには乗ったことがあったけど、電車に乗るのは初めてだった。さすがに電車ってものがあることくらいは知っていたけれど、想像していたよりもうるさくて、私もリディアも興奮したものだ。
新しい暮らし。
新しい生活に胸を弾ませていた。
私もリディアも、ほんの子どもで、世の中というものをイマイチよくわかっていなかった。
あの施設の中のことは限定的な外界から遮断された牢獄のようなもので、本当の世界は別にある。広い広い世界では、虐めなんてない、私たちを珍しがる視線もない、もっと暖かな何かが存在している――漠然とそんな風に思っていたのだ。
実際には、あの施設の中のことがそのまま拡大したものが、世界そのものの姿だと知るには、もう少し大人になる必要があった。
この世界は弱肉強食で、あんなちっぽけな施設の中ですら弱者だった私たちが、ブカレストような大都市でまともに暮らせるわけがないということすら、私たちはわからなかったのだ。
ブカレストに着いて、街を歩く。
たくさんの人。たくさんの車。駅も大きかったし、見るものみんな珍しくてリディアも目をまん丸にしてハシャいでいた。
どこで暮らすの? あの大きなアパートかな? それとも、あっちかな?
私もリディアもこれからの楽しい暮らしに想像力を膨らませていた。
「ここよ。私、この中で暮らしてるの」
道端で唐突にミカエラ姉さんが言う。
指し示す先には、穴。
姉さんが照れくさそうに笑う。
犬みたいに黒く汚れたギザギザの歯を見せて、言った。
「マンホールの中で暮らしてるんだ。ふたりもきっと気に入るよ」
それもまた6月のこと。
街路樹として植えられた菩提樹が一斉に花開くころ。
私とリディアは