目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

幕間 ルーマニアの双子 ②



 マンホールチルドレンとか、チャウシェスクの子どもたちとか。

 歴史の教科書を読んでいた私たちは、当然そのことを知っていた。

 1989年の革命のことは、もしかすると一番最初に習うこの国の歴史だったから。

 でも、それは遠い過去の出来事だと思っていた。生まれる前のことだし、もうそんなものはどこにも存在しない。自分たちだって孤児だったくせに、そんな風に思っていたのだ。


 そこを取りまとめるスキンヘッドの男を紹介され、マンホールの中の一室で私たちは姉さんと暮らすことになった。

 スキンヘッドの男は「ニク」と呼ばれていて、それが本名なのかなんなのかは知らないが、どうやら革命前後からここで暮らしてるらしかった。年齢は姉さんよりずっと上で、40歳とか50歳とか、それくらいに見えた。


「ここはブカレストのマンホールの中でも一番暮らしやすい一等地だぞ」


 ニクが笑って言う。ブカレストにはいくつものマンホールがあるが、条件が良いところはそれほどないのだそうだ。今では、マンホールの下で暮らす者が減ったから、結果的に私たちも、良いマンホールで暮らせる――というわけらしい。

 地下に良いも悪いも……とも思ったが、長く暮らしている人が言うのだから、そうなのだろう。


 実際、地下は思っていたより悪い環境ではなかった。

 空気はよどんでいて妙な臭いがするし、暗いし、地上の音がダイレクトに伝わってきてうるさいけど、少なくとも私たちを虐める子どもたちはいなかった。

 暖房の配管がめぐっていて、冬に温かいのが最高なのだという。そうでなくても、地下の気温は安定している。夏は涼しく、冬は暖かい。

 しかも家賃はタダだ。


 ニクによると、人があふれていたころは下水道で暮らす者もいたというから、なるほどそれと比べれば確かにマシだ。

 ここは何かの点検用通路なのか、配管はたくさん通ってるが、下水用のマンホールではなかったから。


 酒と音楽と踊り。

 今まで感じたことのない高揚。

 私とリディアほど幼い子供はいなかったけど、ここには自由があった。

 食事は姉さんが持ってきてくれた。ケバブなんて生まれて初めて食べてすごく感動した。

 出来立てのパパナシを食べることもあった。


 ミカエラ姉さんは言った。

「あなたたちのことを本当の妹のように思っている」

「お金が貯まったらアパートを借りて3人で暮らそう」

「あなたたちはきっとすごい美人になるわよ。たくさん食べて大きくならなきゃね」

「ふたりは勉強もできるって? でも、ここじゃあ役に立たないかな」


 私もリディアも、久しぶりに笑って暮らすことができた。

 姉さんは仕事から帰ってくると、アウロラックシンナーを吸って朦朧としていることが多かったけど、それが悪いことだとは私たちは知らなかったから、おおむね暮らしに問題はなかった。

 ただ、ミカエラ姉さんの歯がギザギザで黒いのは、どうもアウロラックのせいだったみたいで、ニクは「お前らはやめとけ」とだけ言った。


 そうして新しい暮らしが始まったのだが、何もしないで暮らせるほど甘いものではない。姉さんが食事を持ってきてくれるのは夜だけで、朝と昼は「自分でなんとかして」ということだった。私もリディアも見放された気分になったが、ここではみんな自分でなんとかしているのだ。私たちと歳の近い子たちも、街に出ていろいろやっている。

 私たちも現金収入を得る必要があった。

 食事だけじゃない。服や靴だって欲しい。


 とはいえ、できることなんて物乞いくらいしかない。

 他の子たちは、詐欺やスリ、盗みなんかもやっていたけれど、私とリディアにはまだ難しそうだった。


 路上に座って「お恵みを。おなかが空いています、神のご加護を!」と道行く人たちに語りかける。

 双子の女の子が珍しいのか、1日続ければ、120レイ(※当時レートで3000円)くらいになった。そのお金をミカエラ姉さんに渡すと、お小遣いとして20レイ貰えたから、そのお金でケバブを買ってふたりで食べるのが一番の楽しみだった。


 路上には路上のルールがあった。

 まず、物乞い同士のなわばり。これに関しては、意外と子どもだからと見逃されていて、むしろ大人の物乞いは私たちが来るのを歓迎してくれた。

 私たちがいると、いつもより多くもらえるのだそうだ。勝手に私たちの親設定で物乞いをする人が多いのには困ったが、そのあたりは持ちつ持たれつというものだ。


 警察が来ると私たちは逃げた。

 一度、リディアが連れ去られそうになって、必死に奪い返して逃げてから警察には特に注意している。

 私たちは小さいから、人込みに逃げこめば、追いつかれることはなかった。結果的に、一番人の多い駅前で仕事をすることが多くなった。

 捕まって孤児院に連れ戻されるのはゴメンだ。


 ◇◆◆◆◇


 ブカレストはルーマニアでも突出して大きな都市だ。

 人口だけでも2番目に大きな都市と5倍以上もの差がある。

 当然、観光客数も多くて、近くの国や街から毎日毎日新しい人がやってくる。だから、毎日物乞いをしていても、いつもそれなりにお金が貰えた。

 ルーマニアレイじゃない、ユーロでくれる人もいるし、見たことのないお金の時もあった。その知らないお金はこっそりポケットに入れることもあったけど、ミカエラ姉さんは見逃してくれた。


 朝はビスケット、お昼はケバブ、夜は姉さんといっしょにパンを食べることが多かった。

 施設にいるころよりは、ずっと刺激がある暮らしだ。自由もあるし、お小遣いだってある。悪くない暮らしだった。

 教会で施しを貰える日もあるし、観光客が食べ物をおごってくれることもあった。


 ――でも、そんな日々は1年しか続かなかった。


 また6月。

 街にたくさん植わっている菩提樹テイがいっせいに花吹き、独特な匂いが街に充満する季節。

  聖霊降臨祭ルサリーの祝日。

 ひとびとが踊り歌い、私たちも振舞われるお菓子やチーズを食べた。

 施設にいたころのおざなりなパーティーとはわけが違う。本当のお祭り。

 クリスマスも大きなイベントだけど、私たちにはサンタクロースもプレゼントをくれないし、聖ニコラエの日にお菓子も貰えない。なにより12月はもう寒くてあまり外に出たくない。

 でも聖霊の日は温かいし、教会でお菓子だって貰える。

 嫌な記憶がある季節だったけれど、好きになれそうだったのに。


 ――お金が貯まったらマンホール暮らしは卒業して、どこかにアパートを借りようね!


 そう、言っていたのに。

 ずっと夢みたいに話していたことは、結局、果たされることはなかった。


「ふたりならやっていけるよ。大丈夫! あなたたちは特別だもん!」


 明るく笑って、姉さんは一人でマンホールを卒業していった。

 鼻歌混じりで、少ない荷物を持って。

 私たちを置いて、ブカレストどころかルーマニアからも去るという。

 この街で知り合ったブルガリアの男と暮らすから、私たちは連れていけないと。


 私たちは、また裏切られたのだ。

 ――それが、二度目の裏切り。


 ◇◆◆◆◇


 ミカエラ姉さんは、私たちの保護者だった。


 彼女がいなくなったことで、私とリディアの肩身は一気に狭くなった。

 部屋を取り上げられはしなかったが、ちょっかいをかけにくる男の子は増えた。

 酒に酔っていれば、アウロラックシンナーに酔っていれば、精神的な障壁はどんどんと脆くなって、どんなことでもやるようになる。

 11歳の少女だろうが、あまり関係なく手を出されそうになることもあった。そもそも、彼らだって14歳とか16歳とかそれくらいで、私たちとそう変わらないのだ。

 そういう欲望を持て余していることは、ミカエラ姉さんから何度も何度もしつこく教えられていたし、私もリディアも1年でずいぶんここでの暮らしに馴染んでいたから、危機感だけは人一倍あった。

 力も金もない弱者のままではあったけれど、双子の女の子はどうしても衆目を集めやすく、街で暮らしていれば普通に危ないことは何度でもあったのだ。


 そんな私たちを助けてくれたのは、意外にもニクだった。

 ニクはこの場所のボスであり、悪い噂もあったけど、子どもには妙に優しい男だった。でも、特定の人間を重用することはほとんどなくて、あまり他人を信用していないように見えた。

 ニクの部屋は、穴ぐらの一番奥で、唯一扉があって、鍵をかけることができた。

 私とリディアはその場所を使わせてもらえることになり、いちおうまた少し安全になった。

 少なくともニクの目が光っているうちは、大丈夫そうだ。


「ミカエラ姉さん、どうしていなくなっちゃったのかな。ニクは知っている?」

「男ができたからな。だが、お前らもこれで良かったのかもしれんぞ」

「どうして? 姉さん、私たちといっしょにアパートを借りて暮らすって約束してたんだよ?」

「それは本当かもしれんが、あいつはお前らが12歳になったら仕事を取らせようとしてたからな。お前らは色白で珍しい双子だから、客のがいいだろうってな。最初から、そのつもりで連れてこられたんだよ」


 ミカエラ姉さんは隠そうとしていたけれど、どうやって稼いでいるのかなんて隠しようがなく、私たちは知っていた。

 もしかすると、私たちもその手伝いをすることになるだろうということも。

 だから、ニクのその話を訊いて、少し複雑な気分だった。

 姉さんが望むのなら、私はそれでも良かったのに。


「ニクはどうして私たちを助けてくれるの?」

「お前らはミカエラに連れてこられて……、自分の意思で逃げ出してきたんじゃないんだろう? こんな場所で暮らすとも思ってなかったはずだ。俺はこんなだが、別に人を不幸にしてぇわけじゃねえんだ。行く当てのねぇ奴は受け入れるがよ。最初はミカエラに、元の場所に戻してこいって言ったんだぜ」

「そうだったの。でも、あの場所よりこっちのほうがずっといいわ」

「施設から来たやつはそういう奴が多いんだよ。でもな、お前らは本当ならもっとちゃんとした生き方ができるはずなんだよ。別に今更施設に戻れとも言わないが、戻りたいなら戻ったっていいんだぞ」

「戻らないわ」


 遠まわしにだが、ニクは私たちをマンホールから追い出したいようだった。

 それでも出ていけと言わないのは、彼の優しさだったのだろう。男の子たちからは恐れられているニクだったが、子ども――とりわけ私たちには優しかった。

 かといって……いや、だからこそ、甘えてばかりはいられないと思った。

 彼が私たちを必要とするくらい、力を得なければここにいられなくなるという危機感。その気になれば私たちを施設に引き渡すことくらい、彼には簡単にできるのだ。

 この世は弱肉強食。弱いままでは、きっとまた良くないことが起こる。

 大人になること。もっと力を付けること。

 それが私たちに必要なことだった。


 まだ年齢的に幼いが、このあたりでは早い子は12歳くらいからもう身体を売り始める。

 いまの稼ぎのままでは、いつかそれをしなくてはならない時が来るだろう。

 まだ私もリディアも子どもだから、ニクも子ども扱いをしてくれる。でも、もうすぐ大人になる。身体は否が応でも成長して、子どもの時間の終わりを感じていた。

 稼ぐ、手段が必要だった。


 アウロラックシンナーをやって目をギラギラさせた同居人。扉もない細い空間での共同生活。突然奇声を上げる者もいれば、住人同士で大声でケンカを始めることだってある。

 そんな空間でも、金を稼げる者は一目を置かれる。

 私とリディアは物乞いがうまかったが、大した金額ではない。

 身体を売れば今の5倍、10倍だって稼げるかもしれない。でも、病気の可能性もあるし、密室で殺されるという話も聞いたことがあった。なにより、私がそれをするということは、リディアもやるということだ。

 できれば妹にはやらせたくなかった。


 ブカレストは観光客が多い街だ。

 当然、それを標的にする仕事も多い。

 置き引きに、スリ、両替詐欺に、物乞い。


 私たちはなんでもやった。

 物事の善悪くらいはわかっていたけれど、生きるためだった。

 双子で少女であることが有利に働いたのか、他の子どもたちとは比べられないくらい稼げた。

 稼いだお金はほとんどニクに渡してしまったけれど、わかりやすく忠誠を誓うことで、安全を買うことができた。

 どのみち、私たちがお金を持っていたところで、すぐ誰かに盗まれたり巻き上げられたりするだけなのだ。だったらボスに渡してしまったほうが良い。食事と安全。この二つがここで生きるには、最も大切なものだったから。

 私たちがお金を渡すと、ニクは上機嫌でお酒ツイカを飲ませてくれた。すぐに酔って目が回ったけど、嫌なことを忘れられて悪くない気分だった。


 そんな日々がまた半年続いた。

 私もリディアも、それなりに成長したことで、男たちの目線に危険な色を感じるようになってきた。

 ブロンドというよりは白に近い髪、色素の薄い碧い目。それなりにちゃんと食べているからか、胸も膨らんできたし、背も伸びた。

 ニクも酒に酔うと遠まわしに女の子はもっと稼げる手段がある、みたいなことを匂わせてくる。

 今の稼ぎだけでは、いずれニクも満足しなくなるだろう。

 彼はこんな場所で穴蔵のボスをやっているわりには親切だ。というより、忠誠を誓う人間を大切にしているといったほうが適切だろうか。彼もまた裏切りに対して敏感な人間なのかもしれない。

 かといって、このままでは彼の情婦になるとか、そういう道しかないような気もしていた。そして、それは先の閉ざされた道であるという確信も。


 でも、どうすればいいのかわからなかった。スリや詐欺はいつ捕まるかわからないし、物乞いでは限度がある。

 私は焦っていた。


 ◇◆◆◆◇


 ある冬の寒い日、アジア系の男がマンホールに取材に来た。

 その男はニクと意気投合し、ある程度自由にマンホールを出入りさせた。住人から話を訊き、メモを取っている。

 実はこういう人間はけっこういて、イギリスとかドイツとかから来たと話すのが常だったが、アジア人は珍しい。

 私たちも取材を受けた。


「珍しいね。双子なのかい?」

「そうだよ」

「親は?」

「私たちを捨てて消えた。ずっと小さいころに」

「どういう人だった? 君たちと同じロシア系なのかな」

「お母さんは、きれいな黒髪だったよ。肌も……そういえば濃い色だったかも。私たちももっとお母さんと似ていれば、良かったんだけど」

「へぇ……。じゃあ、父親がロシア系か東欧系ってことなのかな? いや、よく見ると顔立ちそのものはりが深いから、それも違いそうだ」

「わかんない。でも、他の子よりも色白ではあるかもね。ずっとマンホールで暮らしてるからかも」


 私たちは促されるままに身の上話をした。

 別に隠すような話はなにもなかったし、彼は遠い異国の話をしてくれるし、お菓子やパンを買ってくれる良い人だった。


「もしかすると、君たちは白皮症アルビノなのかもしれない。そう、言われたことない?」

「ん~? ない。なにそれ?」

「生まれつき色白で肌とか目が弱いってこと」

「あっ、それならそうかもね」


 私もリディアもなるべく肌は隠すようにして暮らしているし、晴れた日は観光客から盗んだサングラスをかけるようにしていた。

 私たちは、この国でもかなり色白なほうだし、ロシア人と比べても遜色がない。

 だから、父親がロシア系だったのかもしれないと思っていたのだが、彼が言うには、片方がロシア人でも、そこまで極端に片方の性質が出ることは稀だという。


「どのみち私とリディアには親はいないので。どうでもいいかな」

「そうそう。私とナディアはふたりで生きていくの」

「うわぁ、本当にふたりソックリだね。それ、わざとそうしているの?」

「「そうだよ。そのほうが喜ばれるからね」」


 私たちは、わざと同じであるように振舞った。

 物乞いをする時、そのほうが人目を集めやすいからだ。双子であること、少女であることは武器なのだ。


 その後も男の質問は続いた。


「いつからここにいるの?」

「好きな食べ物はなに? 好きな歌はある?」

「どうやって稼いでいる?」

「稼いだお金はどうしているの?」

「趣味ってある?」

「親と会いたいって思う?」

「今一番欲しいものは何?」


 そんな質問に適当に答えた。

 ただ、一番最後の質問にだけは、私もリディアも答えられなかった。

 と言われると、本当にわからなかったから。


 美味しいものを食べたい。おなかいっぱい食べたい。

 でも、それが一番かな?

 ふかふかの柔らかいベッドでぐっすり眠りたい。

 でも、それが一番かな?

 スマートフォン。レゴ。お人形。

 欲しいけど、別に一番じゃない?


 一番に欲しいものはよくわからなかった。


 ◇◆◆◆◇


 男はルポライターという職業で、私たちのことを書いて本にするのだという。

 どうやら世界的に見ても、マンホールの中で暮らす人間というのは珍しいのだそうだ。

 まして、子どもで双子の少女となると、相当珍しいらしい。

 でも、彼は必要以上に干渉してこないし、まして警察を連れてきたりもしなかった。

 ただ、「現実を知りたい」だけなのだそうだ。


 そんな彼だったが、私たちに「もっと稼げるやり方」を教えてくれた。


「物乞いをするよりは、パフォーマンスのほうがいいんじゃないかな。観光客はこの国に楽しみに来ているんだ。物乞いにお金を渡しに来ているわけじゃない。それならば、彼らを楽しませるほうに考えたほうがいいよ。君たちなら可愛いからけっこう人が集まると思う」


 具体的には、もっと身綺麗にして、お揃いの可愛い服を着て、歌ったり踊ったりするだけでいいとのこと。

 私もリディアも歌や踊りは好きだったから、ためしにやってみることにした。

 服は、ファストファッションの店で男が買ってくれた。


 結論から言うと、今までの10倍は稼げた。

 もしかしなくても、普通に働いている大人以上の稼ぎだ。

 次の日も、その次の日も、同じくらい稼げてしまった。

 私たちが歌い踊ると、人だかりができて、みなが笑顔になった。

 ブリキのバケツにはお金がたくさん入った。


 稼げるようになるとニクがボディガードとして付くようになり、私たちはマンホールの中でも一目置かれる存在になった。

 ケバブもツイカも望むだけ食べて飲めた。

 お店で温かいサルマーレロールキャベツチョルパスープだって食べられるようになった。

 暖かい外套。毛糸の帽子。革の靴だって買えた。


 そうして、寒いけど暖かい冬が過ぎて、春。


 私たちは逮捕された。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?