もともと、マンホール生活者をルーマニア警察当局は良く思っていなかったらしい。
それはそうだ。マンホールで暮らすなんて、海を隔てた外国からも取材が来るくらい異常なものなのである。中の住人はシンナーや薬でイカれているし、飯の
私とリディアだって、これまでに詐欺も盗みも何度もした。食い逃げだってしたことがある。我が身かわいさで身体は売らないくせに、観光客からは盗むのだから、いつかこんな日が来るという気はしていた。
ここ最近は、パフォーマンスで稼げていたから気が緩んでいたのかもしれない。
でも、私たちだって、他に行くところがなくて、ここで暮らしていただけだ。
そうでなければ、施設に閉じ込められて虐め殺されるか、どちらかしかない。私たちに選択肢はなかった。
だが、そんな言い訳、通るわけがない。
ニクは逮捕された。
自動小銃を持った特殊部隊がいきなりマンホール内に突入してきたのだ。男の子たちは抵抗していたようだったけど、殴られて全員連れ出された。
私は恐怖した。
警察に捕まるということは、矯正施設に入れられるということだ。
リディアとも離れ離れになるかもしれないということ。
ニク以外の住人は私とリディアも含めて全員、牢屋に押し込められた。
5月最後の週で、また
週末にはまた
不安な夜を過ごした。
大人たちの処遇はすぐに決まったが、私たちを含めた何人かの子どもたちは、行先がなかなか決まらなかった。
特に私とリディアの存在は、彼らにとっても意外なものだったらしい。
――君たちはどうしてこんなところに?
何度もそう聞かれた。いろいろあるけど遠因を辿れば「親に捨てられたから」だ。だから、そう答えた。
女は私とリディアだけだったから、ふたりだけ少しだけ
何日か牢屋で過ごして、結局牢屋の中で
食事が少しばかり豪華だったから良かったけど、今後のことを考えると憂鬱だ。
もしかすると私とリディアは離れ離れにさせられるかもしれない。矯正施設に入れられるかもしれない。また孤児院に入れられて虐められるのは、まっぴらゴメンだ。
そして、次の日の朝。
私とリディアが目を覚ましても、誰もやってこない。
食事の時間にさえ遅れるありさまだ。
聖霊降臨祭は復活祭から50日後に行われる祝日で、使徒の前に聖霊が降りてきた日なのだという。聖霊降臨祭は必ず日曜日で、次の日も祝日になるから、みんなまだ寝ているのかも。
「ねぇ、ナディア。それなぁに?」
隣で目を覚ました
「それ……? ゲッ! なんだこれ!」
それは私の手のひらにあった。気味の悪い模様が浮かび上がり、しかも、絶えず形を変化させている。
服でこすっても取れないし、意味がわからない。
「リディアにはない?」
「私にはないけど……なんだろうね、それ」
「寝てる間になんかされたのかな……」
印刷にしては、動いているし、手の平の上で何か別の生き物がうごめいているような気色悪さがあった。
しばらくして、青い顔をした年嵩の女職員がきて、私が手の模様について尋ねると、青い顔をさらに青くして叫んだ。
「
女職員が、驚いた私たちに詰め寄ってくる。
目を見開いて、私の手を食い入るように見詰め、首をかしげる私を見て呟く。
「
聖女? 聖女ってマリア様みたいな人のことで、この国ではいろんな聖人とか聖女とかが、敬われている。この部屋にも聖ニコラエのイコンが飾られているくらい身近なものだが、実際の聖人なんてのは見たことがない。
なんか死んだりした人に後になってから聖人認定をすることがあるってくらいで、生きている聖人は稀だ。
当然、私が聖女なわけがない。
なんなんだ。
「いったい何なの? この模様はなに?」
「お、おおおお、あなたは見ていないのですね……。昨晩、聖霊様がお
「はぁ?」
女が言うには、夜中の3時ころに本当に聖霊が現れたらしい。
世界中から千人が『使徒』として選ばれて、別の世界で使命を果たすことになるとかなんとか。
意味がわからない話だ。聖霊なんてお伽話じゃなかったのか?
この世界に神がいるなんて私は信じない。神を感じたこともないし。
「聖霊なんて本当にいるわけないじゃない。バカじゃないの」
「いえ、あなたは見ていないからそうおっしゃるのです。それに……正教会も昨日降臨なさったあの光が聖霊様であると認めております。ああ……こうしてはいられません、司祭様へ報告しなければ……」
それから状況は一変した。
私もリディアも牢屋から出され、教会へと連れて行かれた。
司祭の説明もほどほどに、そのままさらに大きな教会へと車で移動。
ほんの数日前までマンホールで暮らす孤児だったのに、きれいな白いドレスを着せられて、聖女だの使徒だのと祭り上げられた。
ルーマニア人で選ばれた使徒はたったの3人で、だからか私はどこでも歓迎された。テレビ出演に、偉い人との食事会、パーティー、教会でのイベントなどなど。
私だけでなくリディアもセット。奇跡の姉妹だともてはやされて時代の寵児に。
ふたりで歌ったり踊ったりした動画は100万回以上も再生された。
母親まで6人くらい名乗りを上げてきたが、顔も覚えていないので私たちは無視した。
……いや、黒髪が一人だけいたから、あの人が実の母の可能性は高そうだったけど、どっちにしろ私は異世界に行くことになるし、リディアも最高の条件の里親が見つかりそうだった。
私たちには生みの親がいない。それでいい。
そんな生活が2ヶ月くらい続いて、生活も少し落ち着いたころ、リディアが言った。
「ナディアと私って違う人間だったんだね」
「え……? なんで?」
「私、なんとなく私とナディアって同じに感じてたんだ。いつもいっしょだし、同じように感じて、同じ考えで、同じように生きていくんだなって。でも、印が現れたのはナディアだけじゃん? 神様が別のものだよって言ってるんだなって」
そう言われて、私はけっこうショックだった。
私は未だに、リディアと私は同じ人間だと感じていたからだ。
双子だから……というつもりはないが、私たちは辛い境遇をふたりで共有しすぎていたから。それぞれに痛みを、悲しみを、危機を、喜びを共有しすぎていたから。
私が感じることは、リディアが感じること。
私の思うことは、リディアも思うこと。
そこに齟齬が出ることがほとんどなかったから。
「ナディアが異世界に行っちゃったら、双子解消だね!」
それは決定的な決別の言葉。
薄く笑うリディアの心の奥底にあるものは見通せなかった。
今までなら、彼女の考えていることはすべてわかったのに。
だけど、今のリディアからは何も読み取れない。
その笑顔の裏にある気持ちも、考えも。
◇◆◆◆◇
私は本格的に教会で暮らすことになった。
毎日毎日、神様のことを学ばされるのが、完全に苦痛でしかない。
みんなが「聖霊」だという自称神の動画を何度か見たが、どう考えてもあれが聖霊だというのはこじつけではないだろうか。
親しくなった司祭に訊いたら、西方教会ではアレを神やら聖霊やらとは認めておらず、それどころか悪魔認定までしているとか。
それを東方教会では聖霊としてあがめているのだからいい加減なものだ。
その話を聞いて、私はさらに勉強する気が失せた。
聖女特権で、神についての勉強は適当に、他の勉強を優先させてもらった。
一方、リディアはというと、里親が見つかり学校に入り、聖女の妹ということで相当にチヤホヤされながら暮らしている。
私の知らない友達までできて、私と違う髪型に変えて、私の知らない服を着て。
双子解消。
リディアのその言葉が重く重く胸にのしかかってくる。
異世界などという意味のわからない世界へと飛ばされ、この世界からは消え去る私。
この世界で、聖女の双子の妹として、幸せに楽しく暮らしていくリディア。
なにが使徒だ。なにが聖女だ。
こんなの私だけが割を食っているだけだ。
かといって、今さら私にできることなどありはしない。
向こうへ行って無様にすぐに死なないように、準備をするぐらいしか思い浮かばない。
姉として、私はどうすべきだったのだろう?
妹の幸せを祝福するべきだったのだろうか。
使徒として選ばれたのだから、私は個人的なことなんてすべて忘れて、使命を果たすことだけを考えればよかったのだろうか。
わからない。
そもそも、その使命自体が後付けで無理やりに正教会がこじつけたもので、あの神は何も言っていないのだ。
そんなものを守る必要もない。
そうして日々は過ぎ去り、生まれて初めて豪華なクリスマスを過ごし、プレゼントまで貰って、でもそのほとんどを部屋に残したまま、私は異世界に行く日を迎えた。
「じゃあ、リディア。元気でね」
「うん。ナディアも元気でね。私、見てるから」
今生の別れなのに、愁嘆場にはならなかった。
もう私たちはこの半年で別れを理解して、気持ちの整理を付けていたから。
あるいはそれはリディアが、「双子を解消」とハッキリ言ってくれたからなのかもしれない。
どのみち、もう行くことになる。
私自身も、さすがに割り切れた。
私がこれからどうなるのかはわからないけど、リディアは幸せそうにしているのだ。
それでいいじゃないか。
いいんだ。
それで。
私に、一つだけ持っていけるというソレを選ぶ権限はなかった。まあ、特に持っていきたいものもなかったし、どうでもいい。
大聖堂に集められた人々が聖歌を歌う。
私も歌う。最後の勤め。
私はいきなり与えられた「ルーマニア正教会の聖女」という役目を全うした。
辛い境遇を経て聖女になったという物語は、人々の関心を引き、おそらくルーマニアで一番有名な少女になった。
マンホールで暮らしていたことさえ、神の試練だったのだと解釈されていた。
バカバカしい。
結局、教会では食事もお菓子もそこそこしか貰えなかったし、今の私とリディアでは体型までけっこう違うのだ。
肉付きがよくなり、私とは違う服、違う髪型のリディアは、なるほどもう双子と言うのはあまり似ていない。
もうすぐ時間だ。
――ああ、
◇◆◆◆◇
光に包まれて、信徒たちの歓声を浴びながら私は「白い部屋」へと移動させられていた。
一人きり。
目の前には机と椅子。机の上にはパソコンがあり、他にはなにもない。
『あなたは異世界転移者に選ばれました。ボーナスポイントの割り振りを完了させ、異世界へ旅立ちましょう』
パソコン画面にはこんな文字がルーマニア語で書かれていた。
ポイントを使って、能力を得ることができるのだという。
私のポイントは80。これが多いのか少ないのかよくわからない。
ざっと一通り見てから、まず転移場所を「比較的安全」に変更。最初は「ランダム転移」になっていたが、それが普通なのだろうか?
「ん? 『不利な要素』なんてあるのか。これは――」
そこに『護るべき者』という項目があり、その一文を読み、私は息を飲んだ。
『最愛の護るべき者を異世界へ連れて行くことができる。12歳未満の男女、あるいは動物、あるいは自らの代えがたき半身。護るべき者はポイント強化をすることができない。異世界言語のみ標準で付く。加算ポイントは、護るべき者の脆弱さ、および転移者からの愛情値により算出』
12歳未満の男女。ダメだ、私たちは13歳。いや、14歳だったか。いずれにせよ11歳以下ではありえない。
でも――
「自らの代えがたい半身……?」
違和感。
その文字だけ、後から差し込まれたようにフォントが違っていた。
私はそのボタンをクリックした。
――リディア・ルプを連れて行くことができます。 +30p
白い部屋で、私の視界すら白く染まったようだった。
リディアを連れて行ける。
でもそれは、きっと
双子解消。
彼女は、新しい両親を得て、一人の少女として幸せに暮らしていくのだ。
私は、私だけで生きていかなきゃならない。
そう自分に言い聞かせて、ここに来たのに。
なのに、どうして。
「神様……」
私は彼女の名前を指定した。
――それが、3つ目の裏切り。