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第18話 必要な物(1)


ステラは、ヴァルムのイタズラに顔を引きつらせるミナミを一瞥すると、小さくため息をついた。


「……」


場が一瞬、氷のように張り詰める。ステラはしばらく無言のまま瞳を伏せ、思考に沈んでいた。やがて金色の瞳を透へと向ける。


「今の話を遠隔で各幹部に確認した」


その声は平坦だが、わずかに疲労が滲む。


「そこにいるルザリオとヴァルム、そしてこの場にいないバルマレオの3人が承諾した」


透の脳裏に褐色の肌を光らせる拳使いの女、バルマレオの姿が浮かぶ。少しホッとしかけたところで、ステラが稽古内容を告げた。


「ヴァルムからは瞬間的な状況判断力を。ルザリオからは武器の扱いの特訓。そしてバルマレオからは…殴りや蹴りの基礎を徹底的に叩き込む」


透はその言葉を聞いた途端、体がピクリと震えた。脳裏をよぎるのは、かつてルクスと過ごした、血の滲むような訓練の日々だ。


──鬼のような、いや鬼より恐ろしい地獄の時間。


背筋が凍る感覚に、一瞬顔面が青ざめる透。けれど深呼吸をひとつして、必死に気持ちを切り替えた。


(…大丈夫だ、今回は仲間がいる。ひとりじゃない)


そんな透の決意をよそに、ギルメザは頬をヒクつかせたまま背中を丸め、まるで野良猫のように毛を逆立てている。目はギラギラしているくせに、足だけが後ずさりしているのがあからさまだ。


ミナミは口をへの字に曲げ、目に涙を浮かべながら肩を震わせていた。視線はうつむき加減で、泣くまいと必死に耐えているものの、鼻をすする音が止まらない。


ラグは諦め半分の顔で肩を落とし、キールは遠い目をして、小さく首を横に振っていた。


場の空気がひどく重く沈む中、ステラはゆっくりと顎を上げた。


「それが条件だ。受けるなら好きにしてくれて構わない」


その声は冷たいが、どこか透への信頼を含んでいるようでもあった。


◇ ◇ ◇



夜が明けた。空には澄んだ蒼が広がり、城壁を縁取るように朝日がゆっくりと顔を出していた。アヴィアの街の喧騒はまだ遠く、澄んだ空気に鳥たちの囀りが響き渡る。


透はいつもより早く目を覚ました。というより、緊張でほとんど眠れなかった。布団の上で数度寝返りを打ち、結局、寝不足のまま支度を終える。


城の裏側にある庭は、夜露に濡れた芝生が陽光を反射し、細かいダイヤの粒のように煌めいていた。周囲を取り囲む高い石垣、その上を覆う緑の蔦。中央には美しい噴水があり、細い水流が陽光の中に七色の虹を作っている。


そこに既に、ギルメザ、ラグ、キール、ミナミが集まっていた。


ギルメザはふんぞり返りながら腕を組み、小さな体を精一杯大きく見せるように仁王立ちしている。だが周囲をきょろきょろと見回し、まるで今にも襲いかかる敵を探しているようにも見えた。


「くそッ…昨日のヴァルムとかいうヤロォ、絶対ぶっ飛ばしてやるッ…」


ギルメザが低く唸ると、ラグがそっとその肩、というより頭のあたりをぽんぽんと叩いた。


「まぁまぁ、ギルメザ。気持ちはわかるけど、ここでまた暴れたらトオルに怒られんじゃねぇか?」


「うるせェ!トオルもなーんも言わねぇで黙って見てんじゃねーぞッ!」


ギルメザが透に噛み付こうとした瞬間、庭の向こうからふわりと風が吹いた。


「さて、皆さん、おはようございます」


涼しげで落ち着いた声が響く。姿を現したのはヴァルムだった。


銀の髪を後ろに撫でつけ、シルバーの縁取りが美しい長衣をまとい、その瞳はいつも穏やかに笑んでいる。しかしその口元には、またしても微妙に悪戯心を孕んだ笑みが浮かんでいた。


「ほらッ!出たッ!」


ギルメザが吠えるが、ヴァルムは肩を揺らして笑うと、ぱん、と手を叩いた。


「いやいや、今朝は真面目にいこうかと思いましてね。……と、言いたいところですが、皆さん……後ろをご覧ください」


全員が振り向くと、透の背後に立っていた木々の間から、いきなり大量の紙吹雪がぶわっと舞い上がった。


「うわあッ!!」


ギルメザが腰を抜かし、ミナミが「ひゃあああああ!!」と声を上げた。キールもラグも紙吹雪を払うのに必死だ。透は一瞬だけ目を閉じ、心の底からため息をついた。


「……ヴァルム……」


「フフ、悪戯は心の潤いですから」


ヴァルムは涼しい顔で微笑む。その目がギルメザを捉えると、また唇の端がぴくりと上がった。


ギルメザはついにブチ切れ、ガバッと飛び上がる。


「てめェ!!ふざけんじゃねぇぞ!!今度こそその顔面ブッ潰すッ!!」


その小さな体が今にもヴァルムに飛びかかろうとした瞬間、ラグが慌てて前に飛び出した。


「ちょ、ちょっと待てってギルメザ!!ほらほら、お前が本気出したらこの辺が消し飛ぶからよ!?落ち着けって!」


ラグは笑顔を張りつけたまま、必死に機嫌取りを続ける。ギルメザは鼻息荒く「はぁッ、はぁッ…」と荒れながらも、渋々足を止めた。


「チッ……調子乗りやがってッ…」


ラグはギルメザの背中を撫でながら、なんとか機嫌を宥める。透は少し感心していた。ラグのこういうところ、まるで世話焼きの兄貴分だ。


ヴァルムは咳払いをひとつすると、ようやく真剣な顔になる。


「さて、冗談はここまでです。今日から本格的に訓練を開始します。皆さん、改めてよろしくお願いしますね」


ギルメザが「チッ」と舌打ちしながら腕を組む。その隣で、ミナミが怯えた顔で尋ねた。


「え、えっと…ど、どんなこと、するんですか…?」


「それはですね──」


ヴァルムは指を立てると、軽やかに説明を始めた。


「まずは皆さんの“現在の強さ”を知りたいんです。鍛えるにしても、どこをどう強化するか分からなければ意味がありませんから」


「つまり試験ってことか」


透が口を開くと、ヴァルムは微笑んで頷く。


「そうです。強さの測定、そして皆さん個々に合った特訓メニューの組み立て。それが今日の流れです」


キールが手を挙げた。


「その強さ測るやつって痛ぇんスか?」


「フフ、大丈夫ですよ。痛みは最小限に抑えます。ただし、怪我をしないとは言っていません」


「ひいいい!!」とミナミが顔を真っ青にする。


ヴァルムは続けた。


「そして、強さを見るために最初にお願いしたいのは“対戦”です。私を相手に、一度かかってきてもらえませんか?」


ギルメザが、目をギラッと光らせた。


「へッ!全員で一気にかかりゃあ、一本くらい取れるだろォがッ!」


透はギルメザを見下ろし、頭を抱えたくなった。


(…一本も取れない予感しかしねぇ…)


けれど、空気的に止めるわけにもいかず、ため息をつきながら頷く。


「わかった。……とりあえずやってみよう」



ヴァルムはにっこり笑いながら、一歩、芝生の中央へ進み出た。衣の裾が風に揺れ、虹色の噴水の光が彼を照らす。


その背筋はまるで舞台に立つ役者のように伸び、右手は背中へ回され、左手を軽く前へ伸ばす。目を細める表情には余裕すら漂う。


「5対1でもなんでもどうぞ。どちらにせよ、全力でかかってきてください」


その声は穏やかだが、辺りに張り詰めた空気が広がっていく。透は手のひらにうっすらと汗を感じた。


噴水のしぶきがキラキラと舞う中、芝生を踏みしめる音がわずかに響く。ミナミは息を呑み、ラグとキールが気圧されつつも目を細める。ギルメザは歯を剥き出し、闘志を剥き出しにしていた。


その中央に立つヴァルムは、微笑みを浮かべたまま、まるで優雅に舞う踊り子のように構えを整えた。


まさに嵐の前の静けさだった。



噴水の煌めきが眩しく、水滴がきらきらと宙を舞う中。


ギルメザが、獰猛な獣のように低い唸りを漏らすと、いきなり両手を噴水の水へ突っ込んだ。


「水さえあればオレのもんだッ!!」


その小さな身体から、思いがけないほどの魔力のうねりが溢れ出す。噴水の水が一瞬で空中へ舞い上がり、無数の鋭い槍へと形を変えた。それらはギルメザの怒号と同時にヴァルムへ向かって放たれる。


「喰らいやがれッ!! 《貫水牢》ッ!!」


水の槍が収束し、ヴァルムへと襲いかかる。が──


「ふむ。まず速さが足りませんね」


ヴァルムの外套がふわりと揺れる。彼は、ほんのわずかに首を右に傾けただけだった。


それだけで。


ギルメザの放った水の槍は、すべてヴァルムの左肩先を虚しくかすめ、そのまま噴水の縁を砕いて水柱を上げた。


「はあああッ!? なんだとテメェッ!!」


ギルメザが地面を叩きながら絶叫する。だがヴァルムは落ち着き払った声で言った。


「ギルメザどの。貴方は力はありますが、溜めが長すぎます。魔力の圧縮に時間を掛け過ぎて初動を読まれるんですよ」


「うるせェ!!」


ギルメザが再び叫ぶが、すでに背後では、ミナミが息を整えながらラグ、キールと視線を交わしていた。


「い、行くよっ……!!」


ミナミが震える声を上げると、ラグが笑みを歪めた。


「一気に畳みかけるぞ!」


「お、おう……!」


ラグが先行する形で地を蹴り、低い体勢で一気に間合いを詰める。その後ろから、ミナミの手から無数の風の刃が連射され、キールが右へ回り込む。


「行けっ!! 《旋風穿刃》!!」


ミナミの固有魔法旋風穿刃から繰り出される風の刃が、ヴァルムに向かって鋭く飛んだ。


「なるほど。風刃は軌道が読みづらい……が、弱点はある」


ヴァルムは軽く指を鳴らす。すると、その身体がまるで空気に溶け込むように視界から霞んだ。


「──動き出しが遅いんです」


次の瞬間、ミナミの風刃はすべて空を斬り、噴水の奥の石畳を鋭くえぐった。


「嘘でしょぉっ!? 当たらないっ!?」


ラグがすぐに拳を突き出すが、ヴァルムはわずかに軸をずらすだけで避け、空いた右手でラグの手首を取り返すように制し、軽く押し返す。


「ラグどの。貴方は接近戦向きですが、入り方が単調すぎます。もっとフェイントを混ぜるべきですね」


「くっそ……!」


キールが背後から飛び出すように刃を振るうが、その剣をあっさり指先で受け止められた。


「キールどの。耳が良すぎるのは利点ですがそれに頼り過ぎですね。聴覚情報を軽視しすぎている、といえば伝わりますか?」


「なっ……!?」


ヴァルムはキールの手首を払うと、その剣をついでのように奪い取り、くるりと回転させて投げ返した。キールは慌てて地面に転がり避ける。


その隙を縫うように、透がナイフを手に滑り込んだ。


「甘いんだよッ!!」


透は腰を捻り、真横からヴァルムの胴へ鋭い斬撃を放つ。だがヴァルムはその一撃すら、流れるような身体の動きでひらりと避ける。


「お見事。……しかし、透どの。ナイフの間合いが近すぎます。武器を生かすなら、もっと出入りを速く」


ヴァルムの目が細く笑う。次の瞬間、透のナイフを軽々と取り上げ、柄を透の胸元にコツンと当てた。


「こういうふうにね」


そのわずかな衝撃で、透は数歩後退する。


「チィッ……!!」


だが透はすぐ顔を上げ、右手を虚空に突き出した。


「《ネクサスゲート》!!」


空間がぐにゃりと歪む。黒い空間の裂け目がパッと開き、そこからギルメザが飛び出した。


「今だッ!!背後からいけ!!」


「おッしゃぁァァァァッ!!」


ギルメザは勢いよく水を操り、巨大な鞭のように振り下ろす。だが──


「悪くない連携。しかし──」


ヴァルムはほんの数センチ、背を屈めるだけでギルメザの攻撃を避け、そのまま体を回転させる。


「背後は最も警戒するべき場所です。何も考えず飛び込むとは……」


裏拳がギルメザのこめかみに直撃した。


「ぶぎゃあァァァァッ……」


ギルメザは白目を剥き、地面を転がってぴくぴくと痙攣する。


「ギルメザどの……勢い任せでは駄目ですよ」


ヴァルムが再び正面を向く。その目には冷たさはなく、むしろ弟子を諭すような優しさがあった。


「次、誰が来ますか?」


怒りと悔しさで顔を紅潮させたミナミが、涙を浮かべながら叫ぶ。


「まだぁッ!! まだ終わってないっ!!」


風が巻き起こり、ミナミの周囲が細かい竜巻のように渦を巻く。


「《旋風穿刃》!! 連撃でいくっ!!」


ミナミの両手から、無数の風刃が連続で放たれる。今度は左右に弧を描き、軌道を読ませない形で飛ぶ。


「軌道を変えるのはいい工夫です。しかし——」


ヴァルムの瞳が一瞬細まった。その手がふわりと動いた。


「“呼吸”を合わせすぎている」


次の瞬間、風刃はヴァルムの周囲でばらばらに弾かれ、消散した。まるで目に見えぬ膜があったかのように、風が届かない。


「な、なんでぇぇっ!!?」


「大きな魔法ほど撃つ瞬間の呼吸が深くなる。だから見抜きやすいんです」


透が背後からヴァルムへ走り込む。ナイフを逆手に構え、無言で刺突。だが──


「残念」


ヴァルムは透の手首を軽く押し返すと、空いた左手で透の鳩尾へ拳を打ち込む。


「ぐっ……!」


透は地面を滑るように吹き飛ばされ、そのまま背中を噴水の縁に叩きつけた。


「透どの。全力を隠す癖がまだ抜けないですね。さっきから全部、八割くらいしか力を出していない」


ミナミとラグ、キールが後退しながら肩で息をしている。ギルメザはまだピクピクと痙攣していた。


「ふぅ……さて。もう一度、仕切り直しますか」


ヴァルムが笑顔のまま、長衣をはためかせる。陽光が噴水の水飛沫を照らし、その後ろ姿は恐ろしく優雅で、同時に底知れない圧を放っていた。


「さあ、続きといきましょう」


そして、再び空気が張り詰めた。




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