茨木の事務所「夜鴉堂」の書斎は、いつも以上に重苦しい空気に満ちていた。ノートパソコンの画面には、禍刻が集めた膨大な情報と、影縫が報告するレコーディングスタジオの状況が羅列されている。悪霊化した女性の霊は、憎悪を吸い上げ、もはや人間の姿をとどめていない。そして、スタジオの封印も時間の問題だった。
「……やはり、切るしかないか」
茨木は愛刀、**童子切安綱(どうじぎりやすつな)**の柄に手をかけた。研ぎ澄まされた刃は、わずかな光を鈍く反射する。この刀は、かつて多くの鬼を退け、悪しきものを断ち切ってきた。悪霊と化した彼女たちを滅すれば、怨念に憑りつかれた被害者たちも、その魂も、地獄へ堕ちる。それは、茨木が最も避けたい、理不尽な結末だった。しかし、このまま放置すれば、事態はさらに悪化し、無関係な人々まで巻き込むことになる。
「他に道はないのか……」
茨木の脳裏に、清良の顔が浮かんだ。あの、全てを包み込むような優しい歌声。彼の歌ならば、もしかしたらこの憎悪の連鎖を断ち切れるかもしれない。そう夢を見ずにはいられなかった。
いや、駄目だ。清良の歌声も、あの悪霊には届かなかった。それどころか、彼の心さえ蝕もうとしたのだ。これ以上、彼を危険に晒すわけにはいかない。元より、清良を待つ気はなかった。自分を顧みず、前に出る無鉄砲な彼が、茨木は心配でたまらなかった。現場に連れていけば、また無理をしかねない。次こそは彼は心を失い、廃人になってしまうかもしれない。そんなことを考えるだけでも悪寒が走る。
絶対に駄目だ。
茨木は深く息を吐き出す。やはり自分の手で断ち切るしかない。そう覚悟を決めた時だった。事務所のドアが、ノックもなしに静かに開いた。
「茨木くん、いるよね?」
優しい声が響く。そこに立っていたのは、清良だった。普段の華やかな衣装とは違い、シンプルなTシャツにパーカーというラフな格好だ。その手には、コンビニの袋が提げられている。
仕事はどうしたんだ。彼のスケジュールは夜の二十二時までびっしりなはず。今はまだ十九時だ。外はまだ薄暗い。
「どうしてここに……?」
茨木は驚きを隠せない。
「裂帛が迎えに来てくれたんだよ。君に何かあったんじゃないかと思ってね。着替える暇もなかったんだから!」
清良は「もう」と腕組みし、顔を膨らます。その様子は本当に怒っているわけではなかった。その瞳は、茨木が見る悪霊のそれとは違い、澄み切っていた。しかし、その奥には、彼自身の疲労が色濃く滲んでいるのがわかる。
「疲れてるだろうに、早く終わったのなら休んでください。裂帛も、なぜここに連れて来たのですか。彼の家に送りなさい」
茨木は裂帛を叱る。裂帛は影で縮こまってしまっていた。
「裂帛くんを怒らないでよ。君を心配して僕を迎えに来てくれたんだ。実際に来て良かった。茨木くん、酷い顔しているよ」
「酷い顔なのは生まれつきですよ」
「いつもは可愛くて綺麗な顔をしていると思うけどね」
「貴方も目が悪いんですか?お勧めの眼科を紹介しましょうか?」
「目は人より良い方だよ」
ハハッと笑う清良だが、寝不足は否めない。目の下にはうっすらと隈がある。アイドルとしての激務に加え、夜は幽霊の声に耳を傾け、体がいくつあっても足りないだろう。昨夜よく眠れたからといって、彼の寝不足がすぐに回復するものではなさそうだ。
「僕だって、君を放ってなんておけないよ。茨木くん、すごく苦しそうだから」
清良はそう言うと、持っていたコンビニの袋から、栄養ドリンクとサンドイッチを取り出し、茨木の机の上に置いた。
「これ、差し入れ。無理は良くないよ、茨木くん」
まるで、自分を気遣う清良の言葉に、茨木は言葉を失った。
「君のように美味しい手料理を振る舞えなくてごめんね。でも、お昼食べてないでしょ? あと、朝はコーヒーだけなんだね。良くないよ」
ため息混じりに清良が言う。
「どうしてそれを……」
ハッとして、絡繰童子を見る。さてはチクったな!
絡繰童子も裂帛と並んで小さくなってしまった。
「絡繰童子くんに当たらないの。早く食べてよ」
清良はサンドイッチを開けると、ハムサンドを取り出して茨木の口に運ぶ。
「はい、あーんして」
「やめてください。一人で食べられます」
茨木は清良からサンドイッチを受け取り、自分で口に入れた。
「サンドイッチだけじゃ駄目だよ。はい、栄養ドリンク。口移ししようか?」
「それで俺が『お願いします』とか言ったらどうするんですか」
茨木は清良から栄養ドリンクを受け取る。
「え?するけど?」
「ドン引きですよ」
彼は疲れすぎて頭がおかしくなっているのかもしれない。茨木は少し清良から体を引いた。
しかし、清良が持って来てくれたサンドイッチと栄養ドリンクは、確かに茨木を安心させた。やはり、腹が減っていたのかもしれない。
気づくと、絡繰童子と裂帛は消えている。持ち場に戻ったのだろう。
「本当に仕事には戻らなくて良いんですか?」
「僕と二人きりがそんなに嫌なの?」
「そうでは無くて……」
二十二時までのスケジュールを十九時までに全て終わらせたと言うのだろうか。
「大丈夫。リスケしてもらったから」
「貴方のマネージャーも大変ですね」
当日にリスケをさせられるマネージャーに、内心同情する茨木だ。
「ぶっちゃけ流れても良いと思ったんだよ。今はアイドルの仕事よりこっちの方が急を要するしね。早く現場に戻ろう!」
「でも、対応策が……」
悪霊だろうと切らねばならない現場に清良を同行させたくない茨木は、言葉を詰まらせる。切る一択しかないと彼は思っていた。
「大丈夫。僕に任せて。新しい歌が出来たんだ」
「新しい歌?」
「彼女たちを鎮める歌だよ。その歌を試してからでも遅くはないでしょう?」
「しかし、また昨日のようになったら……今度こそ廃人にされるかもしれません」
自信満々の清良だが、茨木は心配でならない。
「僕を信じて。それでも駄目なら君が切って。僕は君を信じてるよ、茨木くん」
躊躇う茨木の手を、清良は強く握る。その意志の強い瞳に、茨木は強く惹きつけられた。
「分かりました。駄目なら俺の匙加減で切りますからね」
「任せたよ」
「承りましたよ」
茨木は裂帛を呼び戻すと、清良と跨り、風を切って走り出す。手に持った愛刀は、どうか使わせないでくれと、茨木は心の中で願った。