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第四章 消える声、閉ざされた心

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 夜鴉堂に戻り、清良の子守歌で深い眠りについた茨木は、悪夢を見ずに目覚めた。隣で静かに寝息を立てる清良の姿に、安堵のため息を漏らす。昨夜の悪夢のような診察室の記憶は、清良の声によって完全に払拭されたわけではないが、その恐怖は確かに和らいでいた。心の中に残る微かな不安を打ち消すように、茨木は深く息を吸い込む。


「おはよう、茨木くん」


 優しい声がして顔を上げると、清良がにこやかに微笑んでいた。もう朝のラジオ番組は終えているのだろう。清良は寝起き特有の少し掠れた声で話し、しかしその表情は明るかった。


「おはようございます、清良さん。もうお仕事は……」

「うん、さっきまでね。でも、茨木くんが魘(うな)されずに眠れたみたいで安心したよ」


 清良は茨木の額に触れ、熱がないことを確認するようにそっと撫でた。その温かい手に、茨木はわずかに肩を震わせる。人間から向けられる純粋な優しさに、いまだ慣れない自分に苦笑した。


「俺はもう大丈夫です。貴方も疲れているでしょう。休んでください」

「大丈夫、大丈夫!僕、茨木くん見てると元気出るからさ」


 そう言って笑う清良は、本当におひさまのようだった。茨木は、そんな清良の言葉に、ごくわずかだが心が温かくなるのを感じた。


「禍刻(まがとき)、今何時?」

「10時過ぎですよ」

「10時過ぎ!?」


 こんな時間まで爆睡したのは初めてだ。


「僕は30分ぐらいしたらまた仕事に行かなきゃ」

「俺は朝食を用意して来ます。清良さんはもう少し休んでいてください」

「良いの?ありがとう」


 清良をまたぐようにベッドから出た茨木は、清良を転がして奥へやる。


「影縫(かげぬい)、清良さんが起きて来ないように影に入っておいてくれ」

「そこまでしなくて良いのに」

「前科があるでしょう」


 以前、料理中に鍋を覗きに行ったことを、茨木はまだ根に持っているらしい。清良は苦笑してしまう。


 清良には時間が無いので、茨木は簡単に取れるサンドイッチとスムージーにした。それにしても時間的に朝ご飯であっているのだろうか。お昼ご飯には早いし。とりあえず、お昼ご飯も食べられるようにと、冷蔵庫の余り物を詰めたお弁当を用意する。冷蔵庫の余り物を大人気アイドルのお弁当に持たせるのはどうかと思ったが、忙しいと飯を抜く癖があるようだと分かっている茨木は、持たせないより良いと思ったのだ。ケータリングや用意されたものだと「誰か食べるだろうし良いや」となるようだ。このお弁当は他の人は食べないし、残したら悪いと思って食べてくれるはずである。まあ、残したら残したで良いのだけど。


「清良さん、朝ご飯できましたよ!」

「はーい」

名前を呼ぶと陽気な返事が聞こえた。

「えーー、お弁当まで作ってくれたの!?」


 朝食も喜んでくれたが、お弁当も喜んでくれる清良。


「冷蔵庫の余り物を詰めただけですけどね」

「嬉しいな。お弁当なんて作ってもらったの初めてだよ!」

「嘘ばっかり」


 小学校とか中学校とか高校とか、母親に作ってもらっただろう。中学校、高校に至っては、可愛い彼女とかに作ってもらったかもしれない。と、言うか今も作ってもらうことがあるのでは?こんなに美形で歌も上手いトップアイドルであるし、彼女の一人や二人……いや、アイドルだから恋愛は禁止なのだろうか?アイドルって大変そうだ。


「僕さ、両親が忙しい人でお弁当はコンビニのおにぎりとかばっかりで…… 晩御飯とかも外食が多かったんだよ」


 ハハッと苦笑して見せる清良。


「そうなんですか……」 


 余計なことを言ってしまったかもしれない。


「だから、茨木くんの手作りしてくれるご飯がすごく新鮮で嬉しいんだ。お弁当も本当にありがとう。大事に食べるね!」

「普通に食べてくださいよ」 


 大事に食べるようなだいそれた弁当ではなくて申し訳なくなる。


「清良様、遅刻してしまいますよ」


 流石にギリギリに着くのは不味いだろうと、裂帛が心配する。


「うん、ありがとう。行ってくるね」


 清良は茨木に手を振ると裂帛に跨るのだった。


「いってらっしゃい」


 茨木も手を振って送り出す。なんだろう。胸が温かくなる。こんな普通の日常を自分が送って良いのだろうか。なんだか胸がいっぱいな気持ちになる茨木だ。

 茨木は気持ちを落ち着けると、いつものクールな表情を取り繕い、夜鴉堂をオープンするのだった。 



 妖怪たちの調べと、茨木の立ち入り調査の結果、例の精神科クリニックだった廃屋からは異常な妖気は感じられず、機器に反応もない。あの妖怪が戻ってくる様子もなく、事態は終息を見せた。茨木が持ってきたサンプルの蔦からも妖気は消え、枯れ落ちていた。例の不眠症と幻覚を見せる症状を広める患者からも妖気の影は消え、症状を広めなくなり、清良が何度とテレビやラジオ、ライブなどで歌を披露したことによって、症状は沈静化を見せた。あの妖怪が何だったのか、捕まえられなかったことが気がかりであるが、一旦、問題は解決を見せたことに茨木と清良はホッと胸を撫でおろした。

 しかし、休んでいる暇はない。夜鴉堂にはまた新たな事件が舞い込んだ。


「歌が歌えないです。歌おうとすると声が震えてしまって」 


 そう、今にも泣き出しそうに茨木に相談を持ちかけたのは、今を時めく新人アイドルであった。


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