新人アイドルの悲痛な訴えは、夜鴉堂に新たな波紋を投げかけた。茨木は、目の前で涙を流す少女の顔を静かに見つめる。彼女の周りには、微かだが確かに妖気が漂っていた。それは、前回の一件で目にした『不眠症と幻覚』の妖気とは性質が異なっていた。彼女から発せられる妖気は、彼女の声、いや、彼女の“表現”そのものを内側から蝕んでいるようだった。
「詳しく聞かせてください。歌おうとすると声が震えるというのは、具体的にどのような状況で起こるのですか?」
茨木は冷静に問いかける。清良との一件を経て、彼の対応は以前にも増して穏やかになっていた。少女は震える声で語り始めた。
「最初は、レコーディング中に少し声がかすれる程度でした。でも、日に日にひどくなって……最近は、喉が引き攣ったように掠れた声しか出せなくて……胸がつっかえたような苦しさもあって。すごく苦しくなるんです」
思い出して苦しくなったのか、涙ながらに説明する彼女の言葉に、茨木は眉根を寄せた。
「他に、同じような症状を訴えている人はいますか?」
茨木の問いに少女は力なく頷く。
「はい……私の事務所の先輩も、最近、ライブ中に急に歌えなくなってしまって。あと、同期のダンサーの子も、練習中に体が全然動かなくなったって……」
歌声だけでなく、身体表現まで。茨木は思考を巡らせる。これは、対象の『表現』そのものを奪う妖怪の仕業か。しかも、特定の業種、つまりアーティストといった『表現者』を狙っている可能性が高い。
「なるほど、分かりました。貴女の訴え、確かに受け取りました」
茨木がそう言うと、少女は縋るように彼の顔を見た。
「私、もう歌えないんでしょうか……アイドル、辞めなきゃいけないのかな……」
その絶望的な声に、茨木は「必ず解決します」とだけ答えた。言葉を選ぶのが苦手な茨木なりの、最大限の励ましだった。しかし、その言葉の裏には、清良の身にいつ同じことが起こるかわからない、という焦りが隠されていた。あの精神科医の妖怪は、一時的に姿を消しただけかもしれない。もし、今回も同じ妖怪が関わっているとしたら、その目的は何なのか。そして、もし別の妖怪だとしたら、なぜ今、『表現』を食らう妖怪が現れたのか。
依頼人を送り出した後、夜鴉堂の奥から、絡繰童子が心配そうに顔を覗かせた。
「清良様が心配です。主」
「ああ、今回は厄介ならなければいいが……」
茨木は、いつもの冷静な表情に戻っていた。しかし、その瞳の奥には、確固たる決意が宿っていた。
一方、清良はテレビ局でレコーディングを済ませ、次の仕事に向かうところだった。荷物をまとめているところに、バタバタと慌ただしい音が聞こえる。
「清良、急きょ歌番組に出演することになった。次のスケジュールはリスケするから直ぐに向かってくれ」
焦った様子のマネージャーは清良の手を引く。
「どうしたの!?」
「生の歌番組を今やってるだろ?半数近くのアーティストが急に声の不調でテレビで歌えるような状態じゃないんだ」
「どういうこと?」
「こっちが聞きたい!これ、歌う曲な!」
「5曲も!?」
清良は渡された紙で歌う曲順を覚える。すぐに生放送中のスタジオに飛び入り参加した。
「いや〜清良くんがいてくれて良かったよ。たまたまレコーディングしてたんだって?じゃあ、早速歌ってもらいましょう!清良くんで5曲続けてどうぞ!」
「はい、じゃあ、楽しんで聴いてね」
入ってすぐに振られ、すぐにステージに立たされ、立て続けに5曲熱唱させられた。ステージに立てばすぐにスイッチを切り替えられるので、ちゃんとアイドルとして堂々と歌えたが、見るからに番組はテンヤワンヤになってしまっている。何があったのだろうか。清良はとりあえず、自分は自分の仕事を全うすることに全力を注いだ。
清良が繋いだおかげで、何とか生番組は破綻せずにエンディングを迎えることができた。スタッフからも深く感謝された。
「何があったんですか?」
見れば、バックダンサーも入れ替えずに同じ人を使ったようで、ダンサーたちは裏で疲れ切っている。
「このところ歌えなくなるアイドルや踊れなくなるダンサーが続出していてね、巷じゃ新種の病気とかじゃないかと言われてるんだけど、ここに来て急にその人数が増えきてね。我々も困っているんだ」
スタッフは困った様子で頭を抱えている。
「そうなんですね……」
ふーんと、頷く清良。不憫であるが、既に元はこの場所には居ない様子。この件に関しての助けを求める声が聞こえる訳でもない。今直ぐに自分に出来る事は無さそうだ。
あまりアーティストとの交流はなく、一人で活動していると話題が入って来ない。全く知らなかった。このスタジオには微かに黒い靄が見える気がした。清良は茨木のようにハッキリと妖気が分かるわけではないので判断しづらいが、これは妖怪の仕業なのだろうか?自分は霊や怨霊から悪霊になったり、そこから妖怪に変化したものならハッキリと分かるのだが、元が人でなければ良く分からない。自分が分からないのだから、多分、妖怪の類なのかもしれない。茨木くんに相談してみよう。
清良はすぐに茨木の元を訪れたかったが、あいにく押してしまった仕事が詰まってしまって、今日は無理そうだ。明日も朝から早いし……。会いに行けるのがいつになるか分からない。