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 清良からの連絡は、やはり翌日になっても入らなかった。多忙なトップアイドルである清良。彼がどれほど過酷なスケジュールをこなしているか、茨木は理解していた。だが、それとは別に、漠然とした不安が茨木の胸を締め付けていた。彼が感じた微かな妖気の影は、清良の身にも影響を及ぼし始めているのではないか。

焦りを抑えながら、茨木は妖怪たちに指示を出した。


「絡繰童子は子供のふりをしてライブ会場に潜入してくれ。今日は大規模なフェスが開催される予定だったはずだ」


 茨木はチラシを確認する。総勢100組を越える大型のフェスが予定されている。それを絡繰童子に渡した。


「はい!」


 絡繰童子は元気よく返事をすると、すぐに駆け出ていく。


「影縫、お前は事務所に出入りする妖気を持った人間の監視を続けろ。以前の精神科医のように、再び接触する可能性がある。警戒を怠るな」

「承知いたしました」


 影縫は影に溶け込むように姿を消す。


「逢魔(おうま)、お前は街全体に漂う妖気の揺らぎを感知しろ。特に、歌声や音楽、人の話し声といった『音』に関わる妖気の変化に注意を払え」

「承知いたしました。しかし、この妖気は前回とは異なる性質……捕捉が難しいかと」


 逢魔が眉をひそめて言う。彼の不安感や恐怖を感知する能力が、今回の「表現を食らう」妖気には反応しにくいのだろう。


「分かっている。だが、少しでも異変を感じたら直ちに報告しろ。そして、禍刻、お前は時間を操り、逢魔の感知能力を補助しろ。僅かな揺らぎも見逃すな」

「御意」


 禍刻は頷き、逢魔の隣に静かに控えた。


「裂帛、お前はいつでも出動できるよう待機しておけ。万が一、清良さんに異変があれば、直ちに駆けつける」

「お任せを、主!清良様は俺が守ります!」


 裂帛は力強く胸を叩いた。彼らの言葉を聞きながら、茨木は改めて今回の事件の厄介さを痛感する。前回のような直接的な被害ではない。人の精神の奥深くに潜り込み、その『声』を、『表現』を蝕んでいく。それは、清良にとって最も大切なものだった。


 バン!!


 荒々しい音を立てて夜鴉堂の扉が勢いよく開かれた。


「いばらぎくん」


 そこに立っていたのは、息を切らした清良だった。いつも完璧なはずの彼の前髪は乱れ、頬は上気し、瞳には明らかな動揺が宿っていた。


「清良さん!一体どうしたんですか!?」


 茨木が駆け寄ろうとしたその時、清良は大きく息を吸い込んだ。何かを伝えようと、彼の唇が震える。しかし、そこから発せられたのは、微かな、か細い「ひゅっ」という呼吸音だけだった。

 彼の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。そして、その瞳に、かつて茨木自身が味わった、あの深い絶望と恐怖の色が浮かんだ。清良は、懸命に喉を抑え、何かを言おうとするが、もう声は出ていなかった。




 清良が異変に気付いたのは、ラジオ番組で生歌を披露していた時のことだ。

 急に喉が掠れたようになって、いつものように上手く音程が取れないと感じた。声も出しづらく、気持が入らない。

 どうしたんだろう、僕……。スランプというものが有ると聞いてはいるが、今まで陥ったことのない清良には分からなかった。これがスランプと言うやつなのかな?そんな風に考えてやり過ごす。

 幸い会話には問題なく、生歌も周囲から異変を察知させることは無かった。

 ラジオ番組を無事に終わらせたのは深夜を回っていた。今から茨木の事務所に行くのは非常識過ぎるだろう。それに清良はなんだかいつにも増して疲れを感じていた。このところ、色々あったし、疲れが出たのかもしれない。清良はそんな風に考えて帰宅すると、すぐに寝た。

 朝起きた時も特に違和感はなかった。

 今日の大型フェスには清良も参加する予定だった。清良は既に準備万端整えてリハーサルの最中である。

 そこでだった。急に喉が攣ったように張り付き、声が出なくなったのは。

 胸が苦しくなり、息もまともに吸えない。

 その場に崩れ落ちるように膝を落とした清良に、スタッフが駆け寄る。


「医務室に運ぶぞ!」

「例の症状が清良さんにまで」

「過呼吸も起こしている」


 慌てるスタッフ達に連れられ、一旦医務室に運ばれた清良は、過呼吸を何とか落ち着かせた。

 状態を聞かれるが、声すらまともに発せられない。


「たくしーをよんで!」


 何とかたどたどしくも口に出したのは、タクシーを呼んで欲しいという気持ちだ。

 マネージャーは「こんな時に何処に行くって言うんだ。俺の車で病院に行こう」そう、清良に言うが、清良は必死に首を振った。


「たくし、いばらぎくんのところ」


 そう、何とか訴える清良に、マネージャーは渋々タクシーを呼んだ。

 清良はタクシーに茨木の事務所を教えて、ここまで来た訳である。

 清良はもう声も出せない状態で涙を流している。


「清良さん。俺も今、その件について調べている所です。ですが、今の所明確な事は何も分かっていないんです。清良さんは自宅で休んでいてください」


 茨木は清良の肩に手を置いて慰めることしかできない。

 清良は首を振る。


「働きすぎの清良さんは休むべきでした。必ず原因を突き止めますから。裂帛、清良さんを……」


 裂帛を呼ぶが、清良に腕を掴まれて止められた。

 清良はメモ帳にボールペンを走らせた。


「ここで休んでちゃ駄目?」


 不安そうな清良の表情。

 一人になりたくないのかもしれない。


「解りました。上の階で休んで下さい。裂帛」


 住居は事務所の上の階である。

 裂帛は清良を抱きかかえると3階に運ぶのだった。


 清良さんまで……。


 早く原因を突き止めないと。

 より気持ちが焦る茨木だ。


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