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 清良を事務所へ連れ帰り、上の階の自室で休ませた茨木は、リビングで静かに座り込んでいた。清良の激情に触れ、自身の判断が本当に正しかったのか、頭の中で反芻する。だが、あの時、あの場所で、悪霊と化した少女を放置することはできなかった。清良を道連れにしようとしたのは事実だ。それに、今の清良には、あの悪霊を鎮める力が残っていなかった。


「……最善だったはずだ」


 唇の端で小さく呟く。しかし、清良の悲痛な叫びが、茨木の脳裏から離れない。


『僕なら助けられたのに!』


 その言葉が、茨木の心をかき乱した。清良の声が奪われたことは、彼にとってどれほどの絶望なのだろう。自分の無力さを突きつけられ、彼は今、深く傷ついていた。


「主」


 静かに影縫が姿を現した。彼の背後には、逢魔と禍刻も控えている。


「フェス会場の調査報告です」


 逢魔が口を開いた。


「正体が判明しました。あの妖気は『無音(むおん)』のものです。しかし、本体を捕捉することは難しく……音と表現のエネルギーを食らい、自らの存在を希薄にするため、感知が極めて困難なのです」


 困ったように歯を食いしばる逢魔。

 禍刻も口を開く。


「時間軸に僅かな歪みを感じました。おそらく、あの場に長くは留まらず、短時間で多くのエネルギーを吸収して移動しているかと」


 そう、補足を加えた。

 茨木は腕を組み、深く考え込む。短時間で移動し、痕跡を残さない。かなり厄介な相手である。


「一刻も早く奴を捕らえなければ。だが、その姿を捉えられないのでは、どうすることもできない」


 茨木は苛立ちを募らせる。その時、ひっそりとリビングの隅に隠れていた絡繰童子が、小さな声で口を開いた。


「あのね、主……おれ、ちょっとだけ、わかったことがあるんです」


 絡繰童子の言葉に、茨木は顔を上げた。

 絡繰童子は子供の姿でフェス会場に潜入し、アーティストたちの様子を間近で見ていた。そこで、無音の能力が発動する際のある共通点に気づいたのだ。

 無音の能力が『歌声そのもの』を食らうだけでなく、その歌声が発せられる『場所の響き』や、聴衆の『感情の熱量』も同時に吸収していることに。

 特に、ステージのように多くの聴衆の注目が集まり、感情が最高潮に達する場所で、無音はその力を最大限に発揮し、効率よくエネルギーを吸収していた。しかし、その吸収があまりに急激かつ大量であるため、一時的に周囲の音の残響や場の響きが不自然に歪む現象が生じたと言うのである。

 それは、人間にはほとんど感知できないレベルの微細な現象だったが、音の機微に敏感な絡繰童子には、それが一種の『足跡』のように感じられたのである。

 そのことから導き出される無音の出現するポイントは、特に多くの聴衆が集まる『表現の場(ステージなど)』であり、無音の活動後には、その場の『音の響き』や『残響』に不自然な変化が生じること。その不自然な変化は、無音が移動した経路を示す微細な痕跡となる。この情報は、無音の姿を直接捉えることはできなくても、彼が次にどこに出現し、どこを移動しているのかを予測する手がかりになるはずだ。


「なるほど。本来なら大型フェスは明日も開催予定だ。案内には中止の発表もないし、明日も開催するだろうから、明日は会場近くで張ろう」


 隠れられない茨木や裂帛はゲートの外で待機するとして、絡繰童子と影縫、逢魔に会場内の監視を、禍刻には清良に付いていてもらうことにする。

 茨木は清良を一人にするのが心配だった。

 歌は歌えずとも、霊の助けを求める声は聞こえてしまっている彼だ。また外にフラフラと出て行って霊に惑わされてしまうことがあるかもしれない。

 鳴り響く踏切に、遮断器に手をかけ、足を踏み入れようとする清良を見た時、茨木は心臓が止まるかと思った。

 間に合って良かった。本当に。

 あと一歩遅かったらと思うと、今思い出しても背筋が寒くなる。

 あんな思いは二度としたくはなかった。

 彼を一人にしてしまった自分にも落ち度がある。


「主、晩御飯をそろそろ作らないと」


 禍刻が自分の時計を見ながら声をかけてくれた。

 いつもならスルーする茨木だが、今は清良がいるのですんなりと話を聞いて、3階に向かうのだった。


「清良さん、晩御飯は何が良いですか?」

「トンカツ」


 清良は不貞腐れた声を出す。


「時間かかりますけど良いですか?」


 作ろうと思えば作れるが……。


「何でも良い」

「何でも良いが一番困ります。俺は清良さんのこと、まだ良く知らないし、もし、嫌いな物とかあったら困るでしょう」

「僕、好き嫌い無いし、そんなに色んな料理知らないし、コンビニのおにぎりとか弁当とサンドイッチしか知らないし、高級レストランの料理しか知らないし」


 清良はムスッとし、珍しい顔をしている。とても人気アイドルのして良い表情とは思えなかった。


「ギャップがすごいですね。コンビニの弁当と高級レストランの料理ですか」


 思わず苦笑してしまう茨木だ。


「どっちも別に好きじゃない。でも、食事はしないと生きていけないでしょ」

「そうですね。好き嫌いしないのは良いことだと思いますよ」


 清良はまるで駄々っ子のような表情を茨木に見せていた。

 茨木はベッドに腰掛けて清良の頭を撫でる。これで対応が合っているかは解らないが、そうしたかったからしただけだ。


「どうして僕を怒らないの?」

「清良さんの何を怒ると言うんですか?」 


 不思議そうに言う清良に、不思議に思う茨木。何も怒るようなことはない。寧ろ清良が怒っているのではないか。


「僕、君に酷いことを言っちゃった。世間知らずだと思ったよね。でも、僕は本当に嫌だったんだ。悲しかった」


 清良は歌えないことで情緒が不安定になっているのだろう。ポロポロと泣き出してしまう。


「君にバディを解消されるんじゃないかと思って……」


 そう、声を震わせた。


「俺は怒ってません。でも俺が間違っているとも思いませんし、貴方が間違っているとも言いません。貴方の気持ちや考えは貴方のものだし、俺の気持ちや考えは俺のものです。そこまで同じにする必要はないでしょう。俺と貴方は違ってあるから良い相棒でいられると思いますよ」


 茨木は「貴方は違うと思いますか?」と、首を傾げて見せた。

 清良は首を振って茨木を抱きしめるのだった。

 茨木も清良を抱きしめ返す。


「晩御飯を食べる気にはなれませんか?」

「ううん、僕、本当に嫌いなものは無いから何でも食べるから、作って欲しいな」

「後から文句を言わないで下さいね」


 茨木はそう注意してから台所に向かうのだった。


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