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 清良との心の距離が縮まり、確かな絆を感じながらも、茨木の心には焦燥が募っていた。無音(むおん)を捕らえなければ、清良の歌声を取り戻さなければならない。彼の精神的な支えとなっている「歌声」が失われたままでは、いずれ心が壊れてしまうかもしれない。

 自分に子守唄を強請り、音痴であろう拙い歌で寝てくれた清良の寝顔を見つめるたびに、茨木の胸は締め付けられた。

 俺も早く清良さんの歌声が聞きたい。

 彼の歌声が恋しく感じる。

 そしていつもの華やかで堂々とした態度を見せて欲しい。

 明るい笑顔で闇を照らすような。

 彼は光の中で笑っているのが似合うのだから。




 茨木は早朝から準備を始めた。絡繰童子、影縫、逢魔は既にフェス会場へと向かっている。禍時は清良の護衛として夜鴉堂に残し、茨木自身は裂帛と共に、会場の外から監視を続ける手筈だ。


「主、準備は万端でございます!」 


 裂帛が、いつものように頼もしい声で茨木の前に現れた。


「ああ、頼むぞ」


 茨木は普段通りの冷静な口調で応じたが、その瞳の奥には、確固たる決意が燃えていた。

 会場には既に多くの観客が集まり始めていた。今日のフェスは、昨日の混乱を乗り越え、予定通り開催されるようだ。

 ステージからは、バンドのリハーサル音が小さく聞こえてくる。しかし、茨木にはその音の奥に、不自然な静けさ、無音の気配を感じ取っていた。まるで、彼らがこの場所で獲物を待っているかのように。

 フェスの熱気が高まる中、茨木は警備の目を掻い潜り、会場の外縁を移動しながら、絡繰童子からの連絡を待った。


「主!見つけました!奴の足跡です!」


 無線から小さな声が聞こえてきた。

 絡繰童子の興奮した声に、茨木の表情が引き締まる。

 茨木は、静かに刀の柄に手をかけた。

 茨木が指示した場所へ、裂帛が素早く彼を運んだ。辿り着いたのは、フェス会場の裏手にあり、あまり人の出入りがない資材置き場の近くである。

 場所が幸いし、警備員に見つからずに入り込むことが出来た。

 すぐ側は割れんばかりの歓声や演奏、歌声が聞こえていると言うのに、少し裏手に入ったからといってここまで聞こえ方が違うのは異様である。

 周囲の音が奇妙に歪んで聞こえ、まるで空間から音が吸い取られているかのような、不自然な静寂が漂っていた。


「ここか……」


 茨木が呟くと、影縫が音もなく姿を現した。


「絡繰童子の報告通り、この一帯から特定の音の残響が消失しています。恐らく、この近くに本体がいるかと」


 影縫の言葉と同時に、茨木の霊感が強い反応を示した。確かに、この静寂の中に、微かな、しかし粘着質な妖気の塊を感じる。それは、まさに無音の気配だった。しかし、その姿は依然として捉えられない。


「見えるのか!?」


 焦れたように茨木が尋ねる。無音は自身の存在を希薄にするため、視覚で捉えるのが極めて困難な妖怪だ。


「いいえ、しかし、奴が音を食らう際に生じる歪みが、空間に僅かな影を落としています。それを辿ることは可能です」 


 影縫は冷静に答える。その時、会場のメインステージから、轟音のような歓声が響き渡った。どうやら、次の人気アーティストのライブが始まったらしい。

 歓声の大きさから、そのアイドルがこのフェスでかなりの注目度がある事が分かる。

 その瞬間、資材置き場に漂っていた妖気が、明らかに強まった。


「あの歓声に乗じて、奴は動くつもりだ。ターゲットは、きっとあのステージ上の『声』だ」


 茨木は確信した。無音は、最も効率よく「表現のエネルギー」を吸収できる場所を狙っている。つまり、今、最も熱い感情と音が渦巻くメインステージのアーティストが次の獲物だ。


「絡繰童子!状況を報告しろ!」


 無線から、焦った絡繰童子の声が聞こえてきた。


「主!ステージ上のボーカルが……!また声が……!」


 茨木の脳裏に、清良の苦しむ顔がよぎる。このままでは、被害が拡大するだけではない。


「裂帛、一刻も早く奴を追う!影縫、お前は無音の影に入って引き止めろ!」


 茨木は裂帛の背に飛び乗った。一筋の風のように、裂帛は人混みを掻き分け、メインステージから逃げた影を追いかけた。




「ここに入ったよな?」


 茨木は追いかけた無音が逃げ込んだ場所を確かめる。


「はい、確かに」 


 一緒に追いかけていた影縫と裂帛が頷く。

 あまりにも逃げ足が早く、影縫も裂帛も無音に追いつくことが出来なかったのだ。

 無音が逃げ込んだのは廃屋である。

 元はコンサートホールだった様子だ。

 茨木は愛刀を握ると、ゆっくりと中に入るのだった。


「主、気をつけて下さい。足元にガラスが」

「分かってる」


 空気が震えている。

 確実にこの場所に無音はいる。

 辛うじて読める館内の案内図を確認した。


「大ホールが怪しいな」


 茨木はゆっくりと大ホールに向かう。

 今にも朽ち落ちそうな扉を開けた。

 途端に、綺麗な歌声が耳に入ってくる。


「何だ?誰か歌っている?」


 この心が安らぐ歌声は聞き覚えがある。


「清良さん?」


 いや、清良の声より幼く聞こえる。


「主」 


 影縫に声をかけられ、そちらに視線を移す。

 小さな少女のような妖怪が丸まって寝ている。


「影に入りました」  


 影縫は、少女の影に入り、動きを制圧しているようだ。

 しかし、寝ている様子の妖怪。

 その瞳には涙が滲んでいた。


「無音とはどうやったら言葉を交わせる?」

「言葉ですか?そうですなぁ。少女のようですし、絡繰童子なら通じるかもしれません」


 裂帛が提案する。

 茨木は直ぐに絡繰童子を呼び寄せるのだった。


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