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 清良の歌声が無事に戻り、無音も本来の穏やかな姿を取り戻した。廃墟となったコンサートホールには、張り詰めていた緊張が溶け、安堵の空気が満ちる。

 清良は、かつて自身に勇気をくれた少女の妖怪と、言葉を超えた交流を深めていた。その姿を見つめる茨木の胸にも、温かいものが広がった。しかし、無音の暴走が『暗示』によるものだったという事実は、新たな、そしてより根深い闇の存在を示唆していた。

 清良は少女や無音達のために子守唄のような優しい歌声を披露する。うっかりすると茨木もウトウトしてしまいそうな歌声に何とか耐えつつ、歌声とダンスの光を返しに行った影縫、逢魔、禍刻の帰りを待つ。


「主、全ての光を返せました」

「いやー疲れた」

「でも、みんな喜んでいて良かったな」


 手分けして返していた三匹が戻った。疲れた様子である。


「お疲れ様、良くやった!」


 茨木は三匹を労う。


「影縫くん、逢魔くん、禍刻くんに捧げる歌〜」


 清良は戻ってきた三匹を見て、労う歌を即興する。


「清良様〜」

「素晴らしいです!」

「心が安らぐ」

「ここが天国」

「最高!」


 ヒューヒューと、妖怪達が手を叩き、嬉しそうに飛びまわる無音。そして楽しそうにニコニコと手を叩く少女の妖怪。


「あれ?なんか、ちょっと喉が痛くなっちゃった」


 歌い終えた清良は喉を抑える。


「えっ!大丈夫ですか!?もー、病み上がりに調子に乗るみたいな事をするからですよ!」


 茨木は慌てて清良に駆け寄る。


「うん、大丈夫。喉飴を舐めれば治るやつだよ。あと、僕は別に病気だったわけじゃないからね!」


 喉飴を一粒舐めながら少しプンとしてしまう清良。


「ああ、それが無音に声を吸われた時の本来の症状です。無音達が清良様の歌声を味わった証拠ですよ」


 絡繰童子が説明する。どおりで判別がなかなかつかなかった訳だ。本来の症状とかけ離れ過ぎている。


「今日はそろそろ帰ろうか。チヨちゃんまた来るね!」


 清良は少女の妖怪に手を振る。


「チヨちゃん?」

「うーん、昔会った時にそう名乗ってた気がするんだよね」

「そうなんですか。チヨさん、どうも有難うございました」


 頭を下げる茨木に、チヨはニコニコと手を振っていた。

 妖怪達と、茨木、そして清良は仲良く帰路につく。外は既に星空が広がり、大きな満月が出ていた。


「綺麗だね。夜空なんて見上げたの何年ぶりかな」

「ええ、そうですね」


 茨木も空を見上げたのは久しぶりな気がした。陽気な清良が鼻歌を歌う。清良が元気になって本当に良かったと思う茨木だった。




 夜鴉堂に戻った茨木は、軽く片付けをして店を閉めると、直ぐに3階に上がる。


「清良さん晩御飯作りますけど、なんでも良いん……」


 どうせ何でも良いと言うだろうと声をかけようとした茨木だが、清良と禍刻が言い争っている様子に驚く。しかも台所でだ。


「どうしたんですか?」


 驚いて台所に駆け込む茨木。


「ああ、主、清良様が作った料理を処分すると言うので止めてました」

「こんなの食べたらお腹を壊すよ!」

「食べ物を粗末にしてはいけません」

「だから僕が食べると言っているの!」

「一人で食べれる量では有りませんよ」

「だけど、茨木くんに食べて貰うのは気が引けるから!」


 清良の事は影縫が影に入って動きを止めさせているようだ。


「これを清良さんが?」


 テーブルには卵焼きと、沢山の野菜炒め。ちょっと焦げてしまったり、切り方が歪だったりして見た目は良くないが、匂いは悪く無い。


「頂きます」

「あー、お腹を壊すよ〜」


 一口味見させてもらう茨木、清良はハラハラした様子だ。


「うん、美味しいですよ。薄味で健康的ですし」

「味が足りないんでしょう。こんな焦げた料理の何処が健康的だって言うのさ!」


 茨木は本当に美味しいと思ったのだが、清良は恥ずかしさで顔を真赤にしている。


「味付けに関しては私がアドバイスしましたので、私の責任です」


 そう、頭を下げる禍刻。


「俺には本当にちょうど良い味付けですよ。焦げだって、この程度なら許容範囲です。黒焦げで食べられないとかでもありませんし、焦げの部分だけ取れば食べられますよ」

「余計な事をしちゃって本当にごめんね」


 清良は申し訳無さそうに頭を下げている。


「余計な事だなんて、俺は嬉しいですよ。清良さんはソファーにでも座ってて下さい。あとは味噌汁でも用意しますから」


 清良の影に入っている影縫に命じて、そのまま清良をソファーに運ばせる茨木だった。


 茨木は焦げた部分を取り除き、簡単に味噌汁を作る。しかし、清良が自分の為にわざわざ苦手な手料理に挑戦してくれたことが、茨木はすごく嬉しい。思わず鼻歌交じりになる。


「出来ましたよ」


 茨木は清良が作ってくれた卵焼きと野菜炒め、そして自分が用意した味噌汁をご飯と一緒にテーブルに並べた。


「清良さんが料理を用意していてくれたので、直ぐに晩御飯にできて助かりましたね。腹減って死にそうでしたし」


 手を合せて笑う茨木。


「うん、確かにお腹空いてた」


 清良も「頂きます」と、手を合わせた。


「どうですか、自分で作った手料理は」

「やっぱりあまり美味しくないね」


 不揃いな切り方の野菜は火の通りがバラバラで生焼けみたいな、まだ固いものもある。それなのに、なぜかポロポロと涙が溢れてくる。


「どうしましたか!?」


 驚く茨木。


「ううん、ごめん。こんな不味いのに美味しいって感じて……」

「自分で作ったものには愛着が湧くものですよ」


 茨木は「美味しいですよ」と、何度も褒めながら夕食を食べた。


「僕、食事はいつも一人だった。両親と高級レストランに行くこともあったけど、親は忙しい人で誰かと話をしていたりして、僕を見てくれることなんて無かった。だからこんな風に誰かと食事する事が幸せだって今まで知らなかったよ」


 清良にとって、食事はお腹が空くからするものというだけのものしかなかった。楽しいと感じた事が無かった。それが、どうだろうか。茨木と共にする食事はとても楽しい。心が安らぐ時間である。それは茨木の手料理が美味しいからだと思っていた。しかし、今食べているのは自分の不出来な料理である。それでも美味しいと感じ、楽しいと感じるのが不思議で仕方ない。


「俺も、一人で食べるより、清良さんと食事をした方が楽しいですよ」


 そう、茨木は笑って見せる。内心、清良はこんなに陽気で明るく朗らかな人なのに、今までどんな生い立ちをして来たのだろうかと、心配になってしまう茨木だ。しかし、根掘り葉掘り聞くものでもないだろう。いま、清良が安らぎを得ているならば、良かった。そう感じながら夕食を共にするのだった。




 夕食を終え、片付けも済ませた茨木はリビングのソファに深く身を沈める。清良は自室で静かに休んでいる。妖怪たちもそれぞれの場所で、束の間の休息を取っていた。だが、茨木の思考は休むことを知らない。出来ないのだ。


「暗示……」


 あの無音を操り、凶暴化させた黒幕。それは、単なる悪意ある妖怪とは異なる、さらに狡猾で強力な存在である可能性が高い。そして、その狙いが『表現の力』であるならば、清良は常に狙われ続けることになる。

 また今回のような事が起きたら……

 清良が苦しむ顔は見たくない。


「主、ご心配なさっているのですね」


 静かに影縫が姿を現した。彼の瞳は、茨木の心を見透かすように真っ直ぐだ。


「ああ。無音の背後にいた奴が気がかりだ。あれほどの暗示をかけられるとなると、相当な力を持つ妖怪か、あるいは……」


 茨木は言葉を濁す。妖怪の枠を超えた存在。それは、彼が最も警戒すべきものだ。


「何か、手がかりは?」


 茨木は問う。影縫は首を横に振った。


「残念ながら。無音から発せられた暗示の妖気は、非常に希薄で、痕跡を辿ることはできませんでした」


 やはりそうか。

 茨木は小さく息を吐いた。無音を操るほどの手練れが、簡単に尻尾を掴ませるはずがない。


「主、もしかしたら手がかりがあるかもしれません」

「逢魔?」


 影縫と茨木の会話におずおずと入るのは逢魔である。


「もしかしら私の勘違いかもしれませんが、微かにあの妖気を感じました。精神科クリニックの…‥」

「なるほど」


 逢魔は自信が無さそうではあるが、頭に入れておいた方が良さそうだ。


「逢魔、街全体の『音』の揺らぎを感知し続けろ。特に、不自然な静寂や、特定の感情を煽るような音の異変に注意を払え。暗示をかけるということは、人の心に干渉する能力を持つ者だ。音だけでなく、感情の波長にも注意が必要かもしれない」

「承知いたしました」


 茨木の指示に逢魔は重々しく頷いた。彼の能力は、人間の感情と密接に結びついている。もし、暗示が例の精神科クリニックのように感情を操るものであれば、逢魔ならば何らかの違和感を察知できるはずだ。


 茨木は、ゆっくりと立ち上がった。

 今回の事件は、これまで相対してきたどの悪霊とも性質が異なるのかもしれない。清良の歌声を取り戻すことはできた。しかし、戦いはまだ終わっていない。

 むしろ、ここからが本番なのかもしれない。


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