無音の一件が解決し、清良の歌声も無事に戻った。しかし、茨木の心には、依然として残る『暗示』の影が重くのしかかっていた。
逢魔が感じ取ったという精神科クリニックの妖気。それは、今回の事件の背後に潜む、より大きな闇の存在を示唆している。だが、清良の心身の回復もまた重要だった。
連日の緊張と、声が失われたことによる精神的な疲労は、彼を深く傷つけていたに違いない。
「清良さん、少し気分転換をしませんか?」
茨木は、リビングのソファでぼんやりと空を見上げる清良に声をかけた。清良は今、心配したマネージャーによって仕事をセーブされている。これからもこんな風にセーブしてくれたら良いのだけど、と茨木は思う。
声をかけられた清良は、はっとしたように茨木を見上げた。
「気分転換?」
「ええ。俺の故郷に、小さな寺があるんです。空気も綺麗で、静かで、きっと清良さんの心も休まるかと」
茨木の育った寺は、山間にある小さな集落だ。
都会の喧騒から離れ、自然に囲まれた場所で、清良が少しでも安らぎを見つけられればと思ったのだ。
清良は少し迷ったような顔をしたが、やがてふわりと微笑んだ。
「うん、行く!茨木くんの故郷、行ってみたい!」
その笑顔に、茨木は安堵した。清良の心が少しでも軽くなるなら、それが一番だ。
翌朝。
早速、茨木と清良は、妖怪たちを伴って故郷へと旅立った。
裂帛を車の様な形態に変化させ、その中へ乗り込む。
「裂帛くんはこんな形態にもなれるんだね」
驚く清良。
蜘蛛の糸や布で作られた座席は座り心地も良い。
「いつもこれなら怖くないのに」
そう、清良は苦笑する。
「すみません。この形態を取るのに時間がかかるのと、裂帛も大変なので、故郷に帰る時ぐらいにしかさせないんです」
茨木はそう説明する。
「そうなんだね。いつもの背中もフワフワで乗り心地最高だし。スリルが有って楽しいよ。裂帛くん、いつも有難う」
清良は裂帛にお礼を言うのだった。
裂帛は風を切って走り出す。
やはりこの形態は負荷がかかるのか、いつもより若干、スピードが落ちるようである。
それでも、普通の車より遥かに早い。
いつもが新幹線並みで、今は快速並みといったところだろうか。
都会のビル群が遠ざかるにつれて、清良の表情も次第に和らいでいく。
車窓から見える景色は、緑豊かな田園風景へと変わり、澄んだ空気が肌を撫でる。
景色をじっくり見せようと思ったのか、裂帛のスピードは車並みになった。
「わぁ、空が広い!」
清良は子供のように目を輝かせた。都会では見ることのできない、どこまでも続く青い空と、白い雲。その光景に、清良の心は洗われるようだった。
数時間後、一行は茨木の故郷、山間の小さな集落に到着した。
「すみません、ここからは歩きです」
石段の途中で裂帛を普段の姿に戻させ、荷物を持たせる。
「修行の一貫のようなもので、裂帛で上まで行くと住職に怒られるんです」
そう苦笑して見せる茨木だ。
「でも、キツかったら言って下さい、俺がおぶるんで」
「僕をひ弱だと思ってるの?これでもアイドルだからね。体力には自信があるの。キツかったら僕が茨木をおぶるね」
茨木の言葉に、少しムッとしてしまった様子の清良。張り切って石段を上がっていく。
自信があるだけあって、早い。茨木の方が着いていくのに苦労した。
自分も体力はつけているつもりだが、プロは違うなぁと感心してしまう。しかし、どう見ても自分の方が筋肉はあるように見えるし、彼は着痩せする方なのだろうか。
脱いだらすごいんだろうか。少し気になってしまう茨木だった。
石段を上りきり、古びた山門をくぐると、そこには静謐な空気が漂う寺があった。本堂の裏手には、手入れの行き届いた庭園が広がり、季節の花々が静かに咲き誇っている。
「ここが、俺の育った家です」
茨木が言うと、清良は感嘆の声を上げた。
「すごい……!本当に綺麗だね」
清良の瞳には、都会の光とは異なる、自然の輝きが映っていた。
「こっちから村が一望出来るんですよ」
茨木は「こっちこっち」と、清良を手招きした。
木々の隙間から確かに村が一望出来る。青々とした田園風景が美しい。思わず息を呑む清良であった。
「茨木、帰って来たのなら挨拶しなさい。おや、お友達も一緒なんですね。珍しい。紹介して下さい」
境内から顔を出したのは若い男である。
「よう、坊主。元気?」
茨木は気楽な様子で男へ声をかけた。
「元気ですよ。貴方も元気そうで何よりです。えっと、私はこの寺の住職をしております元真(げんしん)と申します。貴方は?」
元真と名乗る若い男は清良に握手を求める。
「僕は清良。アイドルをしているね。よろしくね」
清良はアイドルの表情でウィンクする。
元真は少し反応に戸惑った様子だ。
「清良さんはすっごい人気アイドルなんだぞ。握手してもらえるとか光栄なんだからな。感謝しろ」
きょとんとした様子の元真に注意するように言う茨木だ。
「えっと、茨木くんと元真さんはどういう?兄弟とかでは無いよね?」
年は近そうだし、茨木の態度はそれこそ兄とか弟に対する気安さを感じる。もしかして兄弟なのかもしれないが、清良にはよく分からなかった。
「うーん、孤児仲間ですかね?」
「なんですか孤児仲間って」
少し考えてから答える茨木と、呆れた様子の元真。
「この寺の元住職が拾ってくれたんですよ。孤児院みたいになっていましたね。山奥で大変なので、今は麓にちゃんとした孤児院を建てましたけど」
ハハッと笑う茨木。
茨木の口調は明るいが、思いの外重い話が出て、清良は言葉に困る。
自分は茨木の事を本当に何も知らないのだと、少し寂しい気持ちにもなるのだった。
「疲れた。休んで良い?」
そう、茨木は元真に聞く。
「駄目です。帰ってきたのなら寺の掃除をして仏様にお参りしなさい。あと、親父の墓参りもしてきなさいね」
「分かってる。休んでからでもいいでしょう?」
「先にやってから休みなさい。清良さんはお部屋に案内しますね」
茨木には厳しく言う元真だが、清良の事は部屋に案内にしようとする。
「ううん、僕も茨木くんと掃除したりするよ。二人でしたら早いでしょう?」
「えっ、いえ、清良さんは休んでてください!」
「ううん、決めた!」
清良は部屋には案内されずに茨木の側につく。
いつもなら影縫に頼んで強制的に休ませるが、いつの間にか妖怪達は何処かへ行ってしまっていた。
まぁ、行き先は分かっているのだが。
居ないと困るものであると実感する茨木である
「そうですか、では二人とも服を着替えてください」
茨木と清良に着物を渡す元真だ。