茨木は清良と茜を先に控室に向かわせた。茜のマネージャーに、彼女が清良と昼食を共にする事を伝える必要が有るだろう。
茨木が伝えると、茜のマネージャーはやれやれという表情をしつつ、茜の分のお弁当を茨木に預ける。
そうか、こういう所にはお弁当が出るのだなと気付いた茨木。毎日清良にお弁当を持たせていたが、必要なかったかもしれない。余計な事をしていただろうか。茨木は反省した。
清良の分のお弁当もスタッフから受け取った茨木は控室に戻ってドアをノックする。
「茨木です」
「どうぞ」
清良の返事を聞いてからドアを開けた。
貰って来たお弁当を並べる。飲み物は控室の冷蔵庫に沢山入っていた。清良と茜はお茶を飲んでいる。
「僕は茨木くんの用意したお弁当を食べるよ。そのお弁当は茨木くんが食べて」
「え?しかし、こちらの方が美味しそうですよ」
「誰だか解らない人が流れ作業で作ったお弁当より、僕は僕の為に茨木くんが作ったお弁当を食べたい」
「……わかりました」
茨木は少し照れると、用意して来たお弁当を清良の前に置くのだった。
「茨木くんのハーブティーも」
「わかりましたよ」
紙コップを出す清良に水筒に入れて持ってきていたハーブティーを注ぐ。
「茜さんも飲む?茨木くんのハーブティー、すごく美味しいんだ」
自慢するように言う清良に、茜は苦笑していた。
茨木は身の置場に困り、少し離れた所に座ろうとしたが、「なんでそんな遠くに座ろうとしているの?」と、清良に手招きされ、隣に腰を掛ける羽目になった。極力空気でいようと、静かにお弁当を食べる茨木だ。
プロが作ってそうな美味しいお弁当だ。ぜったい、俺が作ったお弁当より美味しいのに。清良さん、勿体ないなぁと、思ってしまう茨木である。
「お弁当気に入ったの?茨木くんに持って帰るね」
「いえ、結構です」
空気になりたい茨木だと言うのに、清良は和気あいあいと茨木にも話しかけてしまう。
「そういえば清良さんのマネージャーさん、いつもとは違う方なんですね」
茜は茨木を見る。茨木は頭を下げた。
「マネージャーさんにしては目立ち過ぎるのでは?派手すぎるし、清良さんのマネージャーとしての自覚が足りないのではないですか?」
茨木に批判的な事を言う茜。茨木は申し訳なくなる。
「彼は僕のマネージャーではないよ。どちらかと言えば僕が彼のマネージャーだよ」
「何をいっているんですか?」
清良は頓珍漢な事を言い出す。茜も「は?」という表情だ。
「茨木くんはこのままで良いの!」
ムスッとした様子の清良は、慣れない怒りに戸惑っていた。
「ごめんなさい。私、余計な事を言いました」
茜は清良のムッとした表情に慌て頭を下げる。
「分かってくれたなら良いよ。でも、茨木くんに謝って欲しいな」
「いえ、俺は……」
全然気にしてないと言うのに、困る茨木。
自分の容姿が派手なのが悪いのだが、全然空気にはなれなかった。
茜も茨木に頭を下げる。
「ごめんなさい茨木さん」
「いえ、こちらこそ、俺は臨時のマネージャーみたいなものなので、気にしないでください」
必死に手を振る茨木。
穴が空いていたら隠れたい気分であった。
一応、清良の言動や周囲の気配に気を配っていたが、特に清良の様子がおかしくない。今の所、平和である。
清良の心も茜が謝ってくれた事で和やかな雰囲気に戻った。
しかし、次の瞬間
不意に何か『奇妙な「ざわめき」』が響き始めた。
それは、耳で直接聞こえる音ではない。人々の話し声や、スタジオの喧騒、茜との会話……それらの音の隙間から、微かな、だが確かに存在する「不協和音」のようなものが清良の心に響いてくる。
特定の方向から来るものではなく、まるで都市全体から発せられているような、無数の感情の「ざわめき」だった。
人々の不安、焦り、苛立ち……。普段から敏感な清良は、都市が持つそうした感情の層を漠然と感じ取ることはある。
しかし、今のそれは、いつもの穏やかな流れとは異質な、どこか「歪んだ」響きを伴っていた。
「あれ?何か、頭がぼーっとする……」
茜が突然、箸を止めて額に手を当てた。
「疲れてるのかな……でも、こんなことは初めて」
彼女の顔色は、急に青ざめ、その瞳の奥に、ほんの一瞬、不穏な輝きが宿ったのを清良は見逃さなかった。それは、先日、村の夏祭りで暗示にかかった人々の瞳と同じ光だ。
「茜さん!」
清良が声を上げた瞬間、茜の表情がさらに歪む。彼女の視線は虚ろになり、口元がゆっくりと不気味な笑みを形作った。
その笑みは、まるで誰か別の存在が、彼女の顔の皮を被って笑っているかのようだった。
「茨木くん!」
清良は思わず茨木に助けを求めた。異変に気づいた茨木は、すぐに立ち上がる。
「茜さん、清良さん!いったい何が……」
茨木が問うた瞬間、控室の外からも、騒がしい声や物音が聞こえ始めた。
「誰か、ドアを叩きつけてる!」
「あっちでも怒鳴り声が聞こえます!」
控室のドアの向こうから、スタッフたちの混乱した声が響いてくる。
壁の向こうでは、何かが倒れるような大きな音や、奇妙なうめき声が聞こえる。スタジオ全体が、混沌としたざわめきに包まれていくのが感じられた。
清良は、パニックに陥る茜や、外の混乱した人々の気配を感じ取った。彼らの心から、悲鳴や混乱の「ざわめき」が直接清良の心に流れ込んできて、頭が割れそうに痛い。
歌いたいのに、こんな混乱の中で、一体どんな歌を歌えば、彼らを救えるのか分からない。あまりに色んな音色が頭の中で響いていた。
「くそっ、暗示か!」
茨木は舌打ちをした。
自分も頭痛を感じる。
「主、清良様!」
壁をすり抜けて現れたの逢魔だ。
「疫鬼の「暗示」です、突如特定の場所だけでなく、都市全体へと広がり、無差別に人々の精神に干渉し始めています」
焦った様子で報告する。これは、単なる幻覚や幻聴ではない。人々の心の隙間に入り込み、精神を操っている。
茨木が気づくと、茜は清良に手を伸ばし、襲おうとしていた。
「清良さん、下がってください!」
茨木は清良を庇うように前に出る。しかし、茜を傷つける訳にもいかず、防御としての結界を張ることしか出来ない。
妖怪たちも即座に反応し、スタジオ内の混乱を食い止めようと動き出していた。裂帛が素早く動き回り、暴れ始めたスタッフを無害な形で取り押さえ、影縫は光る目のスタッフたちの影に触れ、彼らの動きを鈍らせようとする。
絡繰童子と逢魔は、スタジオの出入り口を封鎖し、この異常な事態が外に漏れるのを防ごうと努めた。
「主、この暗示は強力です!人々の負の感情を増幅させ、精神を崩壊させようとしています!」
逢魔が更に焦ったように報告する。茨木は、周囲の混乱を鎮めようと妖怪たちに指示を飛ばしつつ、冷静に状況を判断していた。
このままでは、スタジオ全体が制御不能になり、清良にも危険が及ぶ。
そして、この「暗示」は、ここだけの問題ではない。都市全体に広がりつつあるとすれば、もっと大きな悲劇が起こるだろう。
「このスタジオに一時的な結界を張れ!外への影響を防ぐ!」
茨木は妖怪達に命じた。
「清良さんサインを書いてください」
「サイン?」
「2枚、お願いします!」
茨木の指示に清良は混乱しつつも、何か考えがあるのだろうと、素早くメモ帳を取り出し、サインした。
茨木は、清良の書いたサインを折りたたみ、『清良』『茨木』と名前を記した。念を込める。
一言、清良に耳打ちし、サインした紙を投げるのだった。