裂帛の背に乗せられた疫鬼は、影縫に影を制圧されたまま、絡繰童子と共に九尾ノ峰へと向かった。
疫鬼は暴れることもなく、ただ茫然と、眼下に広がる都市の夜景を眺めていた。その瞳には、もはや憎しみよりも、深い疲労と諦めが浮かんでいる。
しかし、悪い気持ではない。どこか、スッキリしたような心持ちである。
都会の夜景が美しくみえた。そして都会の夜景は次第に田舎の夜景へと変わる。沢山の星が瞬き、美しい満月でだった。
九尾ノ峰の結界を抜けると、清らかな霊気に満ちた空間が疫鬼を包み込む。
「ほう、随分と珍しい獲物を捕らえてきましたね」
九尾ノ峰の最深部、煌びやかな光を放つ玉座に座す九尾の妖狐が、ゆったりと尾を揺らしながら言った。
彼の傍らには、穏やかな顔で茶を淹れる化け猫の姿がある。裂帛が地に降り立つと、影縫が疫鬼の影を解き放った。
疫鬼はふらつきながらも、膝をつくことはせず、まっすぐ九尾を見据える。
「俺を殺すのか?それとも封じるのか?」
疫鬼の声には、反抗と、かすかな怯えが混じっていた。
「二度と顔を見せぬと誓っておきながら来たのだ。それ相応の覚悟をしての事であろうな?」
「俺はそこの妖怪たちに無理やり連れて来られたんだ!」
「抵抗はしていなかったであろう?」
警戒する疫鬼に、愉しげに目を細める九尾。そして、疫鬼の全身をじっくりと見定める。
「随分と消耗しておるな。無理をしたのだろう。それほどまでに茨木と清良に一矢報いたかったのか?」
都市全体に己の力を使うのは、この鬼にとっても容量以上の妖力を必要とした事だろう。元々茨木と清良の襲撃に再三失敗していた疫鬼である。今回の攻撃は疫鬼にとっても捨て鉢であった。
「貴様、人間の負の感情を食らわずとも、生きていける体になりたいと願ったことはあるか?」
続けた九尾の言葉に、疫鬼の目がわずかに見開かれた。その質問は、まさに彼が長年抱え続けてきた、そして諦めてきた願いだったからだ。
「……そんなもの、あるわけないだろう。俺は疫鬼だ。負の感情がなければ生きていけない。だが……」
疫鬼は言葉を詰まらせた。清良の歌声が、彼の心の奥底にあった純粋な「寂しさ」と「飢えからの解放」という願望を呼び起こしたのだ。
「フム。お前心には、確かに歪んだ感情が巣食っていた。だが、今はそれだけではないな」
九尾は静かに言い、化け猫が淹れた茶を一口啜る。
「茨木の眷属となった妖どもも、元は似たようなものであった。彼らは、茨木の霊力を糧とすることで、人間に害を為さずに生きる道を選んだ。そして、お主が食らう負の感情、それもまた、この世の理の一部。全てを滅ぼすことはできぬし、すべきでもない」
九尾の口調は優しく疫鬼に語りかけるようであった。そして、疫鬼の頑なな心を少しずつ溶かしていく。
「疫鬼、お前には二つの道がある。一つは、このまま消滅すること。もう一つは……茨木の眷属になるか、あるいは、我の元で力を制御する方法を学ぶことだ」
疫鬼は顔を上げた。
茨木の下に行くことは、かつての陰陽師への憎しみから躊躇があった。しかし、九尾の元で力を制御する?それは、彼にとって想像もつかなかった選択肢だった。
「俺が、九尾殿下で……だと?」
この神聖で神の様に崇められる妖怪の光の様なお方が泥水に居るような俺にまで手を差し伸べてくれると言うのか。
疫鬼は驚愕した。
「お主のその暗示の力、使い方次第では、この世界に良い影響を与えることもできよう。それは茨木も感じ取っておる。だが、そのためには、まず己の飢えを制御せねばならぬ。我の霊力は、お主の飢えを一時的に満たし、制御法を学ぶには十分であろう」
九尾の提案は、疫鬼にとってまさしく『地獄で仏』というものだった。飢えから解放され、誰からも憎まれずに生きる道。そんな選択肢があるとは、夢にも思っていなかったのだ。
疫鬼は、ポロポロと涙を流し始めた。
「俺は……俺は……」
「……この九尾ノ峰で、お主の力を制御し、生きる道を模索するが良い。ただし、再び人々に害を為せば、その時は容赦せぬ」
九尾の最後の言葉は、有無を言わさぬ厳しいものだった。疫鬼は深く頭を下げた。
「ありがとうございます……九尾様……!」
こうして、疫鬼は九尾ノ峰に留まることになった。
化け猫が優しく彼に水を差し出し、絡繰童子が彼に九尾ノ峰での過ごし方を説明する。疫鬼の心に、初めて、争いから解放された安堵と、新たな生への微かな希望が灯った瞬間だった。
スタジオでの騒動からが数日。
清良は相変わらず忙しい日々だ。
むしろ精力的に生番組に出演し、新曲として疫鬼の暗示に効く歌を披露し、都市全体に広がってしまった負の感情を沈静化させる事に努めた。
清良の頑張りもあり、もう殆ど疫鬼の影響は無いと言って等しいだろう。
茨木もまた清良と同じである。
以前にも増して周囲への警戒を強めていた。
疫鬼が九尾ノ峰へ送られたとはいえ、今回のような広範囲に及ぶ暗示は、疫鬼の独断だったのか、それとも背後に別の存在がいるのか、まだ不明な点が多かったからだ。
妖怪たちも都内各地での情報収集を続けているが、新たな異変の報告はまだない。
夕刻、夜鴉堂に一本の電話がかかってきた。受話器を取った茨木が名乗ると、聞き慣れた、だがどこか深刻な響きのある声が聞こえてきた。
「茨木さん、お久しぶりです。大和です」
相手は、警視庁の大和刑事だ。彼のとは世間話をするような間柄でもなく、何か事件だろうと感づく。
「何か、ありましたか」
茨木の問いに、大和刑事は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「実は、最近都内で不可解な事案が頻発していましてね。ニュースになったのでご存知かと思いますが異臭騒ぎで緊急搬送が有ったりしたんです。それと、特定の時間帯に急に攻撃的になったり泣き叫んだり、寝てしまう人が現れだして……」
茨木の眉間に皺が寄る。
やはり、あの疫鬼の暗示は、スタジオ内だけに留まらなかったのだ。しかし、そんな様々な副作用が出ていたとは。清良が精力的に活動しているはずだが、やはり届かない人もいるのだ。
仕方ない。テレビやラジオを見ない聞かない人も居るだろう。
「症状としては、突発的なパニックや攻撃的な言動、あるいは意識の混濁など、多岐にわたるんですが……共通しているのは、一時的なもので、時間が経てば回復すること。そして、当事者にはその間の記憶がほとんどないという点です」
大和刑事は続けた。
「我々も、集団ヒステリーや新型ウイルスの可能性を探っているんですが、どうにもしっくりこない。そこで、茨木さんに何か心当たりがないかと……」
大和刑事の言葉は、確証はないものの、明らかに茨木の持つ“特殊な知識”を当てにしているものだった。
茨木は一瞬ためらったが、清良の安全と都の安寧のためには、情報を共有すべきだと判断した。
「……なるほど。確かに、心当たりがないわけではありません」
茨木は、疫鬼が人々にかけた「暗示」のこと、そしてそれが人々の負の感情を増幅させる作用があることを、大和刑事にも理解できる範囲で簡潔に説明した。
もちろん、妖怪や鬼といった具体的な言葉は避け、あくまで「人の精神に作用する特殊な現象」という表現に留めた。
「それは……一種の精神攻撃、というわけですか」
大和刑事は電話口で息を呑んだ。
彼の声には驚きと、どこか納得したような響きがあった。警察の持つ情報と、茨木の言葉が繋がったのだろう。
「ええ。幸い、その元凶となる存在は、今はもう無力化されています。しかし、その影響が完全に消え去るまでには、多少の時間がかかるかもしれません。特に、感情が不安定な方や、元々精神的な負荷を抱えている方は、影響が残りやすいかと」
茨木は、疫鬼が九尾ノ峰で保護されたことまでは告げなかった。それは、人間社会に明かすべき情報ではなかったからだ。
「無力化、ですか……それは、どういう方法で……いや、詮索はよしましょう。茨木さんがそう言うのであれば、我々もその線で捜査を進めさせていただきます」
大和刑事は、深く追求せずに茨木の言葉を受け入れた。それが、茨木に対する信頼の証でもあった。
「しかし、気になることが一つ。今回のような大規模な現象は、過去に例がありません。何か、より大きな力が関与している可能性は?」
大和刑事の鋭い問いに、茨木は内心で舌を巻いた。やはり、ただの刑事ではない。彼は、疫鬼の背後に潜む「真の黒幕」の存在を疑っていた。
「……可能性は、否定できません。我々も、その点については引き続き調査を進めるつもりです」
茨木はそう答えるのが精一杯だった。疫鬼の件でひと段落ついたばかりだが、今回の事件は、より大規模な陰謀の一端に過ぎないのかもしれない。
「そうですか。分かりました。我々も、警戒を強化し、市民の安全確保に努めます。茨木さん、もし何か新たな情報があれば、どうかご一報ください」
「わかりました。よろしくお願いします」
大和刑事はこちらが切らないと通話を切れない律儀な人なので、茨木は先に受話器を置いた。
その顔は、先ほどよりも一層険しくなっていた。
「この厄災がこれで鎮火してくれたら良いのだが……」
茨木は、夜鴉堂の窓から、静かに輝く都の夜景を見つめた。その光の裏側で、蠢く闇の気配を、彼は朧げに感じ取っていた。