疫鬼の一件で、清良の歌声が持つ**「鎮静」の力**は、以前よりも遥かに強力になったようだ。
以前から言われていたことだが、「最近、清良くんの歌を聴くと心が洗われる」「不思議と悩みが軽くなる」といった感想がさらに増えた。
彼の人気はますます加速し、メディアへの露出も増える一方である。
茨木もまた、清良の能力の進化を間近で見て、その力が増していることを実感していた。
しかし同時に、その強力になった力が、逆に彼自身に負荷をかける可能性も危惧している。
清良は自分の能力について深く考えることはなく、ただ「みんなが喜んでくれるから」と、純粋な気持ちで歌い続けている。その無垢さが、茨木には時に危うく見えるのだ。
真夏の昼下がりは、茹だるような暑さであった。今年は暑すぎると、毎年言っているような気がする。
茨木は着流しに内輪を扇いで汗だくだ。さすがに30度を超えたらエアコンをつけるべきだなと、リモコンに手を伸ばした時だった。
「ごめんください」
軽く扉をノックする音と、優しい声。
「はい、どうぞ」
返事をする茨木に、扉を開けたのは一人の老婦人であった。格式高い着物を身につけ、上品ながらも顔には深い疲労の色が浮かんでいる。とある舞踏家であった彼女は、今は師範代をしているとの事である。
「突然の訪問、大変失礼いたします。ですが、どうか、どうかお力をお貸しいただきたいのです」
師範代の言葉は切羽詰まっていた。茨木は彼女を奥の座敷へ通し、茶を出しながら話を聞く。
「実は、我が流派には、才能に恵まれながらも、なぜか短命に終わる踊り子が続いておりまして…。不慮の事故、突然の病、原因不明の衰弱。これまで多くの霊媒師や祈祷師の方々に見ていただきましたが、どなたも首を傾げるばかりで」
師範代は目に涙を浮かべながら語った。そして、現在の流派の顔である若手踊り子、彩乃(あやの)のことに話が及ぶ。
「今の一番注目されている踊り子が彩乃なのですが、稽古を始めると、まるで人が変わったように、この世のものとは思えない完璧な舞を披露するのです。その舞は神がかっていて、観客は皆、涙を流して感動するほど。しかし、舞い終えるたびに、彩乃は日に日に衰弱していくのです……先日ついに倒れてしまい、寝たきりなのですが、踊る時間になりますと、起き上がって完璧な踊りを披露し、そしてまた寝込むという日々でございます」
女将の言葉に、茨木の眉間に皺が寄る。以前の疫鬼の暗示とは異なるが、やはり尋常ではない現象だ。
「わかりました。拝見させて頂きましょう」
茨木は女将の依頼を受け、彩乃の稽古を見学させてもらうことになった。
数日後。茨木は家元の稽古場を訪れた。
清良は生番組に出演するとのことで、今日は茨木一人で出向く。
疫鬼の一件が片付き、最近は不穏な気配も無いため、清良も茨木も緊張感がやや抜け気味だ。
清良はアイドル業に専念し、彷徨える霊を見つけては道を教える事をしている。茨木もまた、自分の仕事をしていた。個々で動く事が多くなっている。
舞台の間に通される茨木。彩乃はまさに舞っている最中だった。観客達は見惚れて溜息をついている。
彼女の体から発せられる妖気は微弱だが、確かに存在していた。そして、その舞は、人間離れした正確さと優雅さ、そして見る者の魂を揺さぶるような圧倒的な表現力に満ちている。
確かに、完璧としか言いようがない。茨木も見入る程には素晴らしい舞であった。
しかし茨木は見逃さない。妖気の根源が彩乃の体に憑依している**「完璧な踊りを追求する妖怪」**であることを突き止めた。
それは、かつてこの流派で舞に人生を捧げながらも、志半ばで倒れた者たち、あるいは舞への狂おしいほどの執着を持った者たちの念が集合し、具現化した存在だ。
彼らは最高の舞を「完成させる」ことを唯一の目的とし、それを実現できる人間を探し続けていた。そして見つけたのだ。
稽古が終わると、舞台裏に向かう。そこには糸が切れたように倒れ、担架に乗せられている彩乃の姿があった。
顔色は悪く、生気が感じられない。かなり、危ない状態である。
「あなたの体に、舞の妖怪が憑いています。このままでは、あなたの命が危ない」
茨木が真実を告げると、彩乃は妖艶な笑みを浮かべ、茨木の言葉を否定した。
「ええ、知っています。この方がいるから、私は最高の舞を踊れるのです」
彼女の瞳は熱に浮かされたように輝いていた。
「妖怪と契約しているのですね。ですが、その代償としてあなたは衰弱している。このままでは命を落としますよ」
茨木は誠実に伝える。彼女は妖怪に取り憑かれ、暗示をかけられているのかもしれない。耳触りの良いことを言って人間を誑かす妖怪は多い。
茨木は、彼女から妖怪を引き離そうと試みた。一瞬だけ引き離せたが、心の繋がりが大きく、無理に引き離すと彼女の心が壊れてしまうと感じ、力を緩める。
妖怪は直ぐに彼女と結びつき直してしまう。
「やめて!」
綾乃も、力一杯抵抗する。
「私は分かっています。それでも構わない。体がどうなろうと、今、この瞬間、最高の舞を踊れることが、私にとって何よりも幸せなのです。先生も、誰もが私の舞に感動してくださる。これ以上の喜びはありません」
続けた彩乃の言葉に、茨木は絶句した。妖怪が憑依しているにもかかわらず、その憑依が本人の「同意」の上で行われている。
一瞬でも引き離せたと言うのに未だにそれを言うのか。誑かされた訳でも無さそうだ。
悪意から始まったものではなく、お互いの「願い」が合致して生まれた関係。他の妖怪達の力を借りれば、力ずくで引き離すことが出来るだろう。しかし、本当に彼女の幸せに繋がるのか?茨木は、己の正義と、目の前の人間の幸福との間で、深いジレンマに陥った。
彩乃は幸せそうに微笑み、担架で運ばれて行く。あのままでは確実に、彼女は死んでしまう。それでも良いと言うのか?
夜鴉堂に戻った茨木は、夕食を作りつつ、仕事を終えて戻ってきていた清良に事の顛末を話した。
清良は黙って茨木の話を聞いていたが、彼の表情からは複雑な感情が読み取れた。
「……僕、その踊り子さんに会って、歌を歌いたい。何か、彼女の心の音色が、悲しい響きがするんだ…」
清良の言葉に、茨木は覚悟を決めた。
やはりそうだ。このままではいけない。何が何でも引き離すべきだと。