茨木は清良を伴い、再び舞踏家の家元邸を訪れた。師範代は二人を稽古場へと案内する。彩乃はすでにそこにいて、黙々と舞の稽古を始めていた。
「休めと言っても聞かないのです。楽器の音色が聞こえだすと布団から出てきてしまって……」
師範代は溜息を吐く。彩乃の肌は青白く、痩せこけてしまい、まるで操り人形のようだ。冷や汗も酷い。
しかし、その舞はやはり人間とは思えないほどの完璧で華やかである。淀みなく流れるようだった。
清良は彩乃の舞を見つめ、その動きから伝わる「音色」に耳を澄ませる。それは、深い悲しみと、究極の美への渇望が入り混じった、複雑な響きだった。
茨木は、彩乃の憑依を解くための術式の準備を静かに進める。しかし、彩乃の意思が介入している以上、力任せに祓うことはできない。彼女の心が壊れてしまう。
清良の歌声が、その「執着」をどう揺さぶるかに全てがかかっていた。
清良は、彩乃の舞が最高潮に達したその時、静かに歌い始めた。彼の歌声は、その場の空気を震わせ、彩乃の舞へと寄り添うように響き渡る。
清良は、彩乃の心の奥底に眠る「完璧な舞を踊りたい」という純粋な願いと、それに憑りつく妖怪の「生涯をかけても果たせなかった舞への執着」の音色を聞き取っていた。
彼の歌声は、それらの感情を包み込み、まるで妖怪が求める「最高の舞」を共に完成させるかのように、切なく、そして力強く響き渡った。
歌声が空間を満たすにつれて、彩乃の舞は、それまで以上の輝きを放ち始める。肉体の限界を超え、感情の全てを昇華させるかのような、至高の舞がそこにあった。
憑依している妖怪の念が、清良の歌声によって極限まで満たされ、歓喜と充足感に包まれていくのを、茨木は肌で感じ取った。
そして、歌が終わった瞬間。彩乃の体から、透明な光の粒子が立ち上り、ふわりと宙に舞い上がったかと思うと、そのまま静かに消えていった。
妖怪は、完全に満たされ、昇華されたのだ。彩乃の顔には、舞を終えた後の深い疲労と共に、どこか安堵したような、しかし虚ろな表情が浮かんでいた。
顔色は高揚し、頬はピンク色に染まっている。瞳は輝き、生気を感じた。彼女は操り人形ではなくなっていた。
そして、なにより舞台から降りても倒れる事が無かった。師範代は安堵の息を漏らす。
「彩乃ちゃん!良かったわ」
彩乃を深く抱きしめると、師範代は清良に深々と頭を下げた。
「有難うございます。有難うございます」
そう、何度と頭を下げる師範代だ。しかし、彩乃は自分の体に異変を感じ取っていた。
指先が、足の感覚が、これまでとは違う。完璧な舞を舞っていた時の、あの研ぎ澄まされた身体能力が失われている。
「……何が、起きたの……?体が、動かない……」
彩乃は混乱し、震える手で自身の体を確認する。妖怪が去ったことで、彼女は普通の踊り子に戻っただけなのだが、完璧な舞の感覚を知ってしまった彼女にとって、それは絶望以外の何物でもなかった。
「もう……舞えない……こんな体では、もう……!」
彩乃は泣き崩れた。完璧な舞を経験したことで、彼女はかつて自分の舞が持っていた輝きを見失い、その喪失感に深く打ちのめされたのだ。師範代や周囲の者が必死に声をかけるが、彩乃の心には届かなかった。
彼女は、日々精神的に衰弱していった。舞への情熱が、彼女を蝕む闇へと変わってしまったのだ。
清良と茨木は、彩乃の元へ何度も足を運び、励ましの言葉をかけ、清良は歌を歌い続けた。
しかし、彩乃の心は閉ざされたままで、歌声も届かない。彼女は舞への執着と、失われた完璧な自分への渇望に囚われ、現実から目を背け続けた。
そしてついに彩乃は、自分の命を絶とうとした。
「もう駄目。もう耐えられない」
涙する彩乃はビルの屋上に立つとフェンスを乗り越える。
「彩乃さん!影縫!」
いち早く気付いた茨木と清良が裂帛で駆けつけると、影縫で彩乃の影を制圧し、動きを止める事に成功した。
「離して!もう、踊れないの。踊れない私に価値なんてない!」
「落ち着いて下さい。彩乃さんの踊りは元から素晴らしいではありませんか」
「こんなの、違う!!全然違うの!!」
茨木の声は彩乃には届かない。影縫は彩乃を安全な所まで運ぶ。
「どうして、あのままで良かったのに。どうして、あの方を消してしまったの?返して!!返してよーー!!!」
彩乃は泣き叫ぶ。しかし、妖怪は戻っては来ない。彩乃の心は完全に壊れてしまっていた。
彩乃は、家族や友人、そして舞への愛情すらも失い、精神のバランスを崩して、精神病院に入院することになった。
病院の窓から、虚ろな目で外を眺める彩乃の姿を見つめながら、清良と茨木は言葉を失った。
自分たちの介入が、結果として彼女を救うどころか、より深い絶望に突き落としてしまったのではないか。
「茨木くん……僕たち、どうしたら良かったんだろう……」
清良の声は震えていた。自分の歌声が、必ずしも人を「幸せ」にするとは限らない。妖怪を祓うことが、人間の幸せに直結しないという、これまで経験したことのない重い事実が、清良の心にのしかかる。
茨木もまた、腕を組み、沈痛な面持ちで俯いていた。人間の「執着」や「欲望」が、妖怪の介入を招き、そして、その結果が必ずしも望ましいものになるとは限らないという複雑な現実に直面し、彼の胸中には深い苦悩が去来していた。
今回の事件は、清良と茨木にとって、これまでの妖怪退治とは一線を画す、倫理的な問いを投げかけるものとなった。