夜鴉堂に戻った茨木は、いつになく口数が少なかった。清良もまた、彩乃の件が心に重くのしかかり、普段の明るさを失っている。
静寂に包まれたリビングで、清良は氷の入った冷たい麦茶を両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。
「茨木くん、人間って、どうしてあんなに完璧なものを求めてしまうんだろうね。そして、それを失うと、生きていけないくらいに辛くなるなんて……」
清良の問いに、茨木はすぐに答えることができなかった。彼の脳裏には、彩乃の絶望に歪んだ顔と、過去のある光景が重なって映っていた。
それは、彼が人間社会の闇を目の当たりにしてきた、自身の生い立ちに関する記憶だ。
茨木は元々陰陽師の家系に生まれたようだった。しかし、髪が赤く、瞳は金色という異型であり、腕には火蜥蜴のような痣。妖怪の子なのではないかと恐れられ、直ぐに捨てられた。
それを拾って育ててくれたのは妖狐だ。七歳になる頃まで、茨木は妖狐のもと妖怪たちに囲まれ育った。
その後は寺に預けられ、中学を終える頃までそこで過ごしたが、人間社会への適応は難しく、不登校の日々が続いた。
そんな茨木にとって、唯一の心の拠り所だったのが、寺の近くに住む心優しい老婆だった。彼女は、誰からも理解されない茨木の心を温かく包み込んでくれた。
しかし、その老婆は、ある日突然、強盗に襲われ命を落としてしまう。怒りと絶望に駆られた茨木は、高校へ進むことなく寺を飛び出し、裏社会の仕事に手を染め始めた。
その中で、人間の底知れない欲望や執着が、時に自らを、そして他者を破滅へと導く様を幾度となく目の当たりにしたのだ。
特に印象的だったのは、ある鍛冶屋の物語だ。その鍛冶屋は、生涯をかけて『至高の包丁』を打つことに執着し、ついには自らの命を削ってまで打ち続けた。
彼の願いに応えるように、付喪神となったハンマーの妖がその腕を支え、常人には不可能なまでに完璧な包丁を次々と生み出した。
だが、その代償として、鍛冶屋の体は急速に衰弱していった。茨木は、その鍛冶屋が妖との共存を選び、「これ以上の名包丁はもう打てぬ。ならば、この身がどうなろうと本望だ」と語る姿を見ていた。
妖を祓うべきか、あるいはその願いを尊重すべきか。当時の茨木には判断する事が出来ず、ただ見守ることしかできなかった。
結果として、鍛冶屋は数年後にこの世を去った。その姿は、生きる意味を全うしたかのように穏やかでもあったが、茨木の心には、その選択が本当に「幸福」だったのか、という疑問が深く残った。
彩乃の件は、まさにその過去の記憶を呼び起こすものだった。完璧なものを求め、命すら厭わない人間の執着。それをどう扱うべきか、茨木は今も答えを見つけられずにいる。
「清良さん…人間の執着は、時に妖怪のそれよりも深い」
茨木は、絞り出すように言った。
「彼らが求めるものが、たとえ命を削る行為だとしても、それが彼らにとっての『幸福』であるならば、それを奪うことは…果たして正義なのか。俺には、まだ答えが出せません」
茨木の表情は、深い苦悩に満ちていた。清良は、そんな茨木の様子を見て、彼の心にもまた、彩乃と同じような痛みが広がっていることを感じ取った。
「茨木くんも、同じような経験をしていたんだね……」
清良の優しい声が、茨木の凍てついた心を少しだけ溶かした。茨木は語らなかったが、清良の言葉は彼の胸に響いた。
「僕たちが妖怪を祓うのは、それが人々に害をなすから。だけど、もしその害が、本人が望んだ結果なのだとしたら……僕たちは、どうすればいいのかなぁ?」
清良の自問自答のような問いは、茨木の胸に突き刺さる。茨木はなんと言えば良いのか分からなかった。
そもそも茨木は妖怪を払う事を生業にしていたわけでは無いからである。結果的にそういう仕事が舞い込めば受け入れていたと言うだけの事だ。
清良と一緒にいる事が増えた関係で、その仕事が多い。しかし、元々は司法や警察では裁けない悪人を妖怪を用いて恨みを晴らす事が多かった。
それを隠している訳では無いが、直接清良に話した事は無い。
「今回の件で言うならば、彩乃さんに憑いていた妖怪の方は苦しんでいました。少なくとも妖怪は救えました。次の被害者は出ません。それが全てだと思います」
彩乃があのまま死んでしまっていたら、妖怪は苦しみ続け、また別の才能ある踊り子に取り憑いていたはずだ。それを防ぐ事が出来たのだから、最善は尽くせた筈である。茨木はそう思いたかった。
「そうだね。うん、それが全てだね」
清良も頷き、少し頬笑む。茨木は清良の微笑みに心が軽くなった。
「やめやめ! 鬱々するのは性に合わないね! 歌でも歌うおうね!」
「歌って下さい」
パチパチと手を叩く茨木。
「何を言っているの? 歌おうねって言ってるでしょう!」
「俺もですか!?」
「うん、茨木くんと僕の歌を考えたんだよ」
「俺のパート要らないでしょう」
「必要だったからつくったの!」
清良は作った歌詞カードを出す。
「僕が上パートを歌うから、茨木くんは下のパートね?」
「いや、見ても分かりませんよ」
「僕が音程を教えるから」
清良は茨木に下ハモを丁寧に教えるのだった。
茨木は絶対に無理だと思いつつも、清良の歌声に耳を傾けて和む。
「はい、歌って」
「すみません、聞いてませんでした」
「怒るよ?」
もう!っと、眉間に皺を寄せる清良はもう一度歌って見せる。
その日は眠まで清良の歌レッスンは終わらなかった。