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第九章 悪しき裁きと巫女の歌声

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 彩乃の事件から数週間が経っても、清良の心には依然として深い痛みが残っていた。しかし、アイドルとしての彼の活動は止まらない。むしろ、今回の経験が彼の歌声に新たな深みを与えたのか、以前にも増して聴く者の心に響くようになった。

 そんな清良に、数ヶ月に及ぶ全国ツアーのオファーが舞い込んだ。


「茨木くん、しばらく会えなくなるけど、寂しくなったら僕の歌を聴いてね!あと、サイン。みんなの分も」

「有難うございます。お気をつけて」


 出発の日、清良はいつもの眩しい笑顔で茨木と妖怪たちに別れを告げ、CDとサインを渡してくれた。

 茨木は寂しさを感じながらも、彼の成長と活躍を喜んだ。清良は、彼の身の回りが落ち着いている今こそ、このツアーでさらなる経験を積むべきだと考えていた。


 清良がツアーで全国を飛び回る間、夜鴉堂は再び静寂に包まれた。清良がいない夜は、茨木にとって、人間社会の喧騒から一時的に離れ、自身の内面と向き合う時間でもあった。


 その日の夕方、一本の電話が鳴った。茨木は受話器を取り、低い声で名乗る。電話の主は、茨木が裏の仕事を請け負う際に、情報や依頼を仲介する男、**通称『烏(からす)』**だった。


「今夜も厄介な話が舞い込んできたぜ、どうする?」


 烏の声は、いつものように感情を読み取れない淡々としたものだったが、その奥に不快感が滲んでいるのを茨木は感じ取った。


「……内容を聞きましょうか」


 茨木もまた、低い声で聞き返した。


「とあるIT企業の社長が、社員を使い潰し、自殺にまで追い込んだ挙句、証拠を隠蔽してのうのうと暮らしている。世間的には成功者だが、裏では腐りきっている。だが、法の裁きは届かない。その遺族からの依頼だ」


 烏の話を聞いて茨木の表情が僅かに険しくなる。法では裁かれぬ悪人。それは、彼が裏の仕事を引き受ける上で、最も重きを置いてきた対象だった。


「…どのような裁きを望んでいますか?」


 茨木の声に、烏は皮肉めいた笑いを漏らした。


「そりゃあ、死んでもらいたい、だろ。だが、表沙汰にならずにな。お前なら、妖を使って上手くやってくれるだろうと思ってな」


 茨木は、決して躊躇いなく「死」を望む依頼を受けてきたわけではない。しかし、この社長のように、他人を犠牲にしながらのうのうと生きる悪人には、強い怒りを感じていた。

 心の拠り所だった老婆を奪った人間への憎しみと、理不尽な死への怒りが、茨木をこの道へと駆り立てていたからだ。


「…すぐに返事はできない。少し、時間をくれ」


 茨木の声に、烏は意外そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わず、通話を切った。受話器を置いた茨木は、深く息を吐いた。

 彼の脳裏には、悪人たちに報いを受けさせるため、長年共に歩んできた妖たちの姿が浮かんだ。絡繰童子、裂帛、影縫、禍時、逢魔。

 清良と出会ってから、彼らの表情は以前よりも穏やかになり、どこか人間らしい感情すら宿しているように見える。


『人も妖怪も良い者もいれば悪い者もいるよね』


 いつだったか世間話の何かの流れで清良が言った言葉だ。それが脳裏をよぎる。

 確かに、茨木が裁いてきた人間は、間違いなく「悪人」だった。しかし、その「悪」を断じる行為が、果たしてどこまで正しかったのか。

 そして、彩乃や鍛冶屋のように、歪んだ「幸福」を追求する者をどうすべきなのか。

 茨木は、これまで確立していた自身の裁きの基準が、大きく揺らいでいるのを感じていた。


 茨木は夜鴉堂の窓から、明かりが灯り始めた都の街を見下ろした。その光の裏側には、これまで自分が裁いてきたような悪人たちが、今も蠢いている。

 茨木は、今回の依頼を受けるべきか、葛藤していた。清良の影響で変わっていく自身の内面と、過去の業、そして目の前にいる「裁かれるべき悪人」。




 翌日、茨木は烏に電話を入れ、依頼を受けることを告げた。

 烏は短い言葉で「了解」とだけ返し、具体的な情報を茨木に送ってきた。そこには、IT企業の社長、黒崎(くろさき)の住所、日々の行動パターン、そして彼が裏で行ってきた悪行の数々が詳細に記されていた。

 社員へのパワハラ、過重労働による自殺、そして巧妙な証拠隠滅。情報は、茨木の胸に静かな怒りを燃え上がらせた。



 夜鴉堂の奥座敷で、茨木は五匹の妖たちを呼び出した。絡繰童子、裂帛、影縫、禍時、逢魔。彼らは茨木の前に現れ、静かに命令を待つ。


「今回の獲物は、黒崎という男だ。表向きは成功者だが、多くの人間を絶望させ、死に追いやった。法では裁かれぬ悪人だ」


 茨木の声は低く響いた。妖怪たちは、その声に含まれる微かな揺らぎを感じ取ったようだった。


「逢魔」


 茨木はまず、空間を歪ませ、幻影を見せる能力を持つ逢魔に命じた。


「奴の前に、奴が追い詰めた者たちの幻影を現せ。最も苦しみ、最も絶望した瞬間の、奴が二度と忘れられぬ姿を」


 次に、物理的な干渉と感情の増幅を得意とする禍時に視線を向けた。


「禍時。奴の精神を蝕め。だが、理性を奪うな。自らの罪を、心の底から理解させろ。そして、その『完璧な成功』が、どれほど醜いものか、身をもって知らしめろ」


 そして、茨木は裂帛と影縫に指示を出す。


「裂帛は奴の周囲の環境を操り、影縫は奴の影に潜み、決して逃がすな。外部からの接触も、隠蔽も許すな」


 最後に、茨木は絡繰童子に目を向けた。


「絡繰童子。お前は奴の行動を監視し、その全てを記録しろ。奴が自ら罪を白日の下に晒すよう仕向け、その瞬間を捉えろ」


 妖たちは、茨木の命令に無言で応じ、夜の闇へと消えていった。彼らの動きには、以前のような冷酷な効率性だけでなく、どこか使命感のようなものが宿っているように見えた。

 以前ならば、彼らも茨木と同じようにこの裁きを粛々と行うだけであったように思う。清良と共に過ごす中で、彼らもまた、人間の感情の複雑さを学び、ただ命令に従うだけの存在から変化しつつあるのだろう。

 茨木は静かに妖たちの気配を追った。数日にわたる「裁き」が始まる。


 深夜、黒崎の豪邸で、異変が起こり始めた。眠りについた黒崎の寝室に、逢魔が作り出した幻影が次々と現れる。彼のパワハラによって精神を病み、自ら命を絶った社員たちの、苦悶に歪んだ顔が、怨嗟の声を上げながら黒崎を取り囲んだ。


「うわーー!!!」


 黒崎は悪夢にうなされ、悲鳴を上げた。汗だくになって目を覚ます。だが、幻影は消えない。禍時が彼の恐怖と罪悪感を増幅させ、理性と感情の境界を曖昧にしていく。


「なんだお前ら!!お前らが出来そこないだから悪いだろ!!この根性なしが!!!」


 それでも黒崎は反省することなく、彼らに罵声を浴びせてていた。

 しかし翌日からの黒崎は、見る影もなく憔悴しきっていた。仕事中も幻影に怯え、独り言を呟き、夜は眠れず、食欲も失われていく。

 裂帛の力で、彼の周囲には常に不穏な空気が漂い、誰も彼に近づこうとしなかった。影縫は、彼がどこへ逃れようとも、常に彼の影に寄り添い、逃げ場がないことを無言で示し続けた。絡繰童子は、その全てを記録し、やがてその映像は、黒崎が追い詰めた社員の遺族の元へと送られる。

 最終的に、精神的に追い詰められた黒崎は、自ら警察署へ向かい、全ての悪事を告白した。彼は逮捕され、その悪行が白日の下に晒された。

 世間は騒然となり、彼の企業は倒産、残された財産は遺族への賠償に充てられることになった。烏からの連絡は、いつも以上に淡々としていた。


「…お前らしいやり方だったな。でも以前とは違う。良い変化か、悪い変化か、どうなんだろうな」


 烏の言葉に、茨木は何も答えない。いや、答えられない。

 それが良い変化なのか、悪い変化なのか、茨木にも分からなかった。ただ、以前のように孤独に感じる事は無くなった。

 妖たちは夜鴉堂に戻り、静かにそれぞれの場所へと戻る。彼らの顔には、以前のような疲弊した様子はなく、どこか満足げな表情が浮かんでいた。

 彼らが食べたのは、黒崎の「罪」と「絶望」、そして彼自身を縛り付けていた「執着」だった。


 茨木は、この裁きが最善だったのか、自問自答する。彩乃の悲劇と、この悪人の断罪。清良の言葉が、彼の心を揺らし続けていた。

 しかし、少なくとも、もう新たな被害者は生まれない。そして、彼らが食べたものは、確かに悪人の魂の澱みだった。

 それが、茨木の心に微かな安堵をもたらすのだった。


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