目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

2

 清良が結界をすり抜け、斎宮邸の敷地内へと足を踏み入れた瞬間、背後で結界が再び閉ざされる音がした。

 茨木の呼びかける声に、後ろ髪を引かれそうになる。

 それでも振り向くことはせず、ただ、導かれるように邸の奥深くへと進んだ。

 都の穢れを浄化しようとする衝動が、清良の全身を支配していた。


 邸の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 しかし、その静寂は、重苦しい霊気と、微かに響くおぞましい波動によってかき消される。

 清良は、その波動が最も強く脈打つ地下へと続く階段を見つけ、迷わず足を踏み入れた。


 地下への道は、壁に埋め込まれた灯りによって、薄暗く照らされていた。

 降りるごとに霊気は濃くなり、清良の黒く変色した腕に、凍えるような痛みが走る。

 それでも、清良の心は一点を見据えていた。

 苦しむ人々を救う、その使命感だけが、彼を突き動かす原動力となっていた。


 やがて、清良は広大な地下空間にたどり着く。

 そこは、禍々しい祭壇が中央に据えられた、儀式の場だ。

 祭壇の周りには、複雑な術式が描かれ、都中から集められた穢れの波動が、黒い渦となって祭壇へと吸い込まれていく。

 その中心で、斎宮朔夜が目を閉じ、恍惚とした表情で穢れを吸収していた。彼の体は、闇そのもののように黒く輝き、もはや人間の姿とはかけ離れていた。

 そして、壁際には、血を吐き、意識を失って倒れている宗源の姿。


「宗源様……!」


 茨木の言葉から、彼が宗源であろうことは直ぐに分かった。

 あまりに痛々しい彼の姿に、清良の心には、深い悲しみが募る。

 しかし、それ以上に、都の苦しみが、彼の心を締め付けた。


 清良の存在に気づいた朔夜が、ゆっくりと目を開けた。

 その瞳は、深淵の闇を湛え、清良を見据える。


「来たか……『真の器』よ。歓迎しよう」


 朔夜の声は、地の底から響くかのように重く、もはや人間のそれではなかった。

 彼の体が、祭壇に吸収された穢れの力によって、さらに膨張していく。


「さぁ、真の歌声を聞かせろ」


 朔夜は片手を上げると、その手のひらから漆黒の霊気が噴き出した。

 霊気は、広間全体を覆い、祭壇の周囲に渦巻く穢れが、さらにその密度を増していく。

 都の穢れを吸収し終えようとしているのだ。


「この儀式は我が都の穢れを吸収し、真の歌声を持つお前が浄化をする事で成るもの。我は異形のものとなり、お前は命を落とすだろう。しかし、都の人々は煩悩から解き放たれ、争いのない、平和な暮らしをするのだ。皆、赤子のように生まれ変われる。お前は命を落とすだろうが、後の事は俺に任せろ。我が統べる事で、都に平和をもたらすのだ」


 清良に歩み寄り、その手を掴む朔夜。


「さあ、歌え。聖なる賛美歌を奏でるのだ」

「貴方もまた、酷く苦しんでいる。可哀想な人」


 興奮した様子の朔夜からも、深い哀しみの音が聞こえる。

 自分が命を落とすことは百歩譲って良いとして、勝手に人々を赤子のようにして一から朔夜が育てるようなやり方がまともとは思えなかった。

 朔夜の思考は壊れている。

 そして、何より哀しいのはずっと自分を引き留めようと名前を呼んでいた彼の事だ。


 赤子のように生まれ変わるのなら、茨木くんも、僕を忘れてしまうのだろうな。


 それだけが悲しかった。


 でも、僕が覚えているよ。



 都全体から、呻き声が響き渡る。

 それは、穢れに苦しむ人々の声であり、儀式の最終段階によって、都そのものが悲鳴を上げているかのようだった。


「僕は歌う。この穢れを鎮めるよ」


 清良は決意に満ちた表情で、まっすぐに朔夜を見据え、その喉から、都のすべてを包み込むかのような、力強く、そして哀しい歌声を響かせ始めた。

 清良は歌う度に激痛が走り出し、身体は黒く変色していく。


「素晴らしい。素晴らしいぞ清良。お前を失うことだけが、この儀式においてただ一つ勿体ない事だ」


 朔夜はうっとりとして清良の歌声に聞き惚れる。そして、その頬へと手を伸ばした。


「清良さん!!!」


 茨木の声が聞こえた気がした。






 都全体が悲鳴をあげ、重苦しい空気はより一層強くなった。

 後ろで言葉を失っていた裂帛も倒れてしまう。


「裂帛!」


 駆け寄る茨木だが、茨木自身も苦痛を感じる。

 哀しい感情、怒りの感情、苦痛が無理やり引き出される感覚だ。

 茨木が我を忘れそうになったとき、聞こえてきたのは清らかな清良の歌声だった。

 途端に身体が軽くなる。

 そして急な眠気に襲われた。

 今寝たら、とても幸福な目覚めになる気がする。

 しかし、寝ている暇など無い。

 茨木は、短刀で己の太腿を刺した。何とか意識を保った。


 その時だった。

 一瞬、斎宮の結界が緩んだのだ。

 それは朔夜が清良の歌声に聞き惚れ、集中が緩んだ事でおきた。

 茨木はそんなこと、どうでも良く。

 これ幸いと、結界を突破して地下への入口に急いだ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?