「リリスティア・グリムベルク!そなたとの婚約を、破棄させてもらう」
ダンスフロアがざわめいた。
「おい、リコリス令嬢が婚約破棄されるらしいぞ」
指を突きつけられた私に、たくさんの視線が刺さる。
「死者に手向ける
「まぁ……ノイバウム様もそんな不吉な子を連れて歩きたくはないわよねぇ」
くすくすと笑う声は、けして小声じゃない。
私は深呼吸した。すべて、
今更動揺してたまるものか。
子爵家といえ、グリムベルクの娘には度胸があるのだから。
「私を捨てるという決断に、一片の後悔もないのでしょう? ならば、ノイバウム様に何も申すことはございません」
イグゼルの名前は呼ばずに――冷静に苗字に呼びかえる。
そして、イグゼル・ノイバウムの胸にしなだれかかる令嬢――姉のロゼッタに、私は何の感情も向けなかった。
「どうぞ、姉をよろしくお願いします」
「いや、まだそんな……乗り換えたような言い方をするな、外聞が悪いぞ」
そんなにピッタリとくっつきあって、何を言っているの?どう見ても乗り換えたどころじゃないわよ。
婚約者だった頃から、この一年私はその光景を見続けてきた。
退席しよう。この場のあらゆることから。
足が、震える。すると横から黒い手袋の人が、そっと私を支えてくれた。
「――予言をしましょう。貴女はこの先で必ず幸せを得られると」
耳元から長い銀髪がさらりと去る。ふと、足元から湧き上がる恐怖は消えた。
精一杯、声が震えないように背筋を伸ばす。
「失礼致します」
これ以上の見世物には耐えられない。それでも、親切な人が居たことがわずかに気力に変わる。
カーテーシーをしながら、私は五年間の恋にさよならを告げた。
****
目頭が熱い。それでも涙が出ないのは何故?
胸にあの姉の微笑みが焼き付く。
一つ上の姉――ロゼッタは一年半前から私の婚約者に言い寄っていて。
あのロゼッタを前に半年陥落しなかっただけ、イグゼルはマシな方なのかもしれないけど。
「こちらです」
会場のホーエンシュタイン家は、執事が私を客間に案内してくれた。
主催の侯爵家からしたら、突然他家の婚約破棄が起こってパーティーが台無しだったろうな。
「こちらでお待ちください」
執事の言葉で、思わず前世の日本式のお辞儀をしてしまう。だめだ、緊張感が緩んでる。
――私、リリスティア・グリムベルクは二度目の生。
前世では、アパレル業界でメンタルを壊し、エステ業界で体を壊した。
随分あっけなく死んだ。死んだ瞬間は思い出せない。
気がついた時にはリリスティアとして生を受けてこの世界で暮らしていた。
魔法や冒険者のいる世界――この世界を異世界っていうんだろう。
リリィという相性は友達がつけてくれたんだよね。でも家族からはリリスティアと呼ばれ続けてる。
そんな私に、蔑称としてついたのが――
この世界では、曼珠沙華は墓に供えられる不吉な花。私の髪の毛の色が真紅――まさにリコリスの色だったから。
でも、日本での名前は
さすがに前世の話は出来なかったけど。
リコリスの名前に罪はないのに。
親友の一人にそれを話したら、相性がリリィ以外にリコも増えた。傍から聞いたら誤解されるね、とよく笑って。
婚約者だったイグゼルは、それを聞く度に真面目に訂正していたっけ。
何かもう、遠い過去のような気がする。
家族ぐるみで仲がよかった。どちらかと言えば、父様よりノイバウム伯爵のほうが私の父のように振舞っていたような気がする。
走り回れば、淑女らしくないと額をつつかれ、マナーを守れば優しく笑ってくれた。
早くうちの娘になっておくれ。その口癖に、気が早いとイグゼルといつも笑ってきたけれど。
終わりはこんなに呆気ない。
イグゼルが、ロゼッタに恋をしたから。
私と過ごすことに、義務感が生まれていた。
どれだけイグゼルの好みに合わせても、彼の目はもう私を見ていなかった。
ロゼッタの笑い声に微笑み、ロゼッタの手に触れ、全身全霊が、ロゼッタにだけ集中している。
私の瞳が濡れていても、気づきもしない。
縋りついて、元に戻るならとっくにやった。けれど、イグゼルはもう帰ってこない。
私が恋したイグゼルは、過去の亡霊だった。
この恋を終わらせよう――彼に愛を貰う代わりに、私は自由を。
イグゼルのいない世界へと、羽ばたいていくための力を得る。